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2巻
2-3
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まるで貴重品を扱うように触れているのは、中心が黄色い、白の花だ。
「じゃがいもの花も綺麗に咲いているな。うむ、やはり美しいじゃないか」
そういえば、見るのをかなり楽しみにしてくれていたのだっけ。
この数ヶ月で愛着が湧いたのかもしれない。
嬉しいことに、お料理大会の前日に私が渡したじゃがいもの花の髪留めは、季節が変わってなお彼の海色の髪にアクセントを添えている。
「えっと、あとで剪定したいのですけど」
そんな彼に告げるには少々残酷な話だったかもしれないけれど、よい収穫のためには仕方がない。
秋採れのじゃがいもは特に、これからが大切なのだ。
「刈り取るのか……? どういう理由なんだ」
「お花に栄養を持っていかれないためですよ。ちょっとの手間ですけど、甘さに関わるんです」
「なるほど、理由はわかった。しかし、そうか……」
オスカーさんは両眉を下げて、別れを惜しむように花びらを撫でる。
結構悲しんでる⁉ と、私がかぼちゃを抱えながら驚いているうちに、切り替えが完了したらしい。
「悪かった。手伝おう、アメリア。腰を痛めてしまったら大変だ」
彼は、私の作業を手伝いに来てくれる。
かぼちゃの収穫には、なかなか手間取った。水属性魔法では切れず、ハサミがあっても、その太い茎は簡単にはいかない。そんなふうに悪戦苦闘する最中も、オスカーさんはちらちらとじゃがいもの花のほうを窺っている。
「えっと、どうしても咲いている芋の花が見たいなら、秋植えという手もありますよ」
余計かもしれないが、つい口にしてしまった。
「それは興味深いな。聞かせてもらえるか」
うん、食いつきが早い! やっぱり未練たっぷりだったのだ。
「品種が違うんですよ。少しばかり寒さに強くて、冬前には収穫できるんです。もしよかったら、夏のお野菜を刈り終わったあとにやりますか?」
同じ作物の連作は基本的にあまり好ましくない。そのため土の大幅な入れ替えが必要かもしれないけれど、時期的にやれないことはない。
しかし、この提案に彼は首を横に振った。
「その必要はない、場所なら用意してあるからな。ほら、あの奥だ」
奥? そうはいっても、『アメリアの畑』はたしか夏採れと秋採れの二区画だったはず……。それでも十分な広さだと思っていたのだが。
「な、なんか、広がってるっ⁉」
「秋に植える野菜もあるだろう。今のままでは場所が足りないと思ってな。庭師に頼んで、拡張したんだ」
よもやの三区画めが木製の柵の向こうに、出来上がっていた。
まだ畝があるだけの畑を前に立ち尽くしていると、オスカーさんが声を小さくする。
「もしかすると、余計だったか? 管理ならば心配ない。こちらでやるさ」
「いえ、そうじゃないですけど、むしろ嬉しいですけど……。こんなに土地をもらっちゃってもいいんですか。なんだか私がオスカーさんの屋敷を侵略してるみたい……」
「構わないさ。いつか庭が全て埋まることだって覚悟の上だ」
……!
一瞬、畑に囲まれた辺境伯邸の光景が頭をかすめる。
いつでもどこでも食材に囲まれているなんて夢みたいな屋敷だと思って口元が緩むけれど、国のお偉いさんがどんな顔をするかと考えたら、背筋に寒気が走った。
「それはよくないですって! 極端すぎますわよっ!」
「言いすぎたようだな。半分ならばいいか?」
「まぁそれなら……って半分も十分多いです!」
危ない、危ない。
最初の提案があまりにも異次元だったので、すんなり受け入れてしまうところだった。
既に広大すぎると思っていた畑がさらに広がっていようとは、まさか思いもしなかったが、予定どおりかぼちゃの収穫ができた。
となれば、もっとも美味しい採れたてのうちに使わなければならない。
翌日、『ごはんどころ・ベリーハウス』の入り口前に掲げられていたのは、『かぼちゃの日』という文言だ。
「アメリアさん、今日はまた特別な日なんですか?」
その日、一番に入ってきたのは、お客様であり、お友達でもあるフィオナさんだ。彼女はさっそくその意味を尋ねてくれる。
過去にも、大きなオス鮭をまるごと一匹仕入れた日、『鮭の日』企画を実施したことがあった。
それを彼女は覚えてくれていたらしい。
「ええ。昨日、テームズ邸にお邪魔して、たくさんお野菜をいただいてきましたから! しかも、今日は輪をかけて特別ですよ。なんたって、新しい料理に挑戦したんです。昨日の夜に初めて試したんですけど、これがとても美味で――」
って、そうじゃない。私は自分の手で、口を塞ぐ。
言葉でいくら語り尽くしても、大事なのは味なのだ。言葉ではなく、提供したお皿で語って気づいてもらわなければ。
私は背中側、少し緩んでいたエプロンの紐を結び直す。そして水色格子柄のバンダナを頭に締めて、厨房へと入った。
今日は公務の関係で、オスカーさんは不在だ。そのぶん仕込みはそうそうに済ませていたので、私はさっそく揚げ油を温め始めた。
早いもので、このお店を開いてから、もう半年が経とうとしている。
お客様にごはんを作ることには慣れてきたけれど、新しい挑戦をするときには、どきどきと緊張と希望とが入り混じり、胸が早鐘を打つ。
これから私が振る舞うのは、あの古いレシピノートに載っていた料理で、いわゆるライスボールである。
ライスボールはこの国でも親しみのある料理なので、私も手を出しやすかったし、きっとお客様にとっても受け入れやすい一品のはずだ。
私は冷却箱に寝かせていたタネを取り出す。
鮮やかなオレンジ色をしたそれは、昨日収穫してきた大玉かぼちゃを潰したものだ。
ちなみに既に、砂糖と牛乳、生クリームで味は調えてある。
このタネを湯に溶かしてスープにすることもできるが……
今日はこれを丸く握り、その外側に潰したお米とかぼちゃの皮、さらにはアーモンドナッツを刻んだものを順々に纏わせていく。
最後がパン粉ではないのが、一つの大きな特徴だ。
かぼちゃは野菜の中でも、特に甘みが強い。もちろんパンを削ったパン粉を纏わせてもいいが、この風変わりな衣だからこそ引き出せる味や、噛み応えというものがある。
焦げないようときどき転がして、慎重に揚げていく。
外側がこんがりきつね色になったら、昨日採ったトマトを煮詰めて作ったソースを添えて、完成だ。
単品だと皿が味気ないので、お米やサラダ(かぼちゃチップス添え!)と一緒に盛り付けて、ワンプレートにして提供する。
さらには、大鍋で作ったかぼちゃの白味噌スープを添えれば、かぼちゃのいろんな顔を表現した『かぼちゃの日』にふさわしいランチセットの出来上がりだ。
「さ、おあがりくださいませ! かぼちゃのライスボールセットでございます」
既にほかのお客様も入ってきているが、今は新メニューの反応に集中したい。
カウンターの上にお皿を置き、私はフィオナさんの一挙手一投足を固唾を呑んで見守る。
彼女はまず本を閉じて、鞄へとしまった。
それからお皿を回し、かぼちゃボールをあらゆる角度から不思議そうに観察した。表面が濃い緑で、見慣れないからだろう。
彼女はその側面をフォークで崩す。
と、中からまるで半熟卵の黄身のごとくとろりとあふれ出たのは、鮮やかなオレンジ色をしたかぼちゃクリームだ。そこから上がる白い湯気は、カウンター越しにでも、その甘美さを伝えてくる。
たっぷり掬ったその橙色にライスボールをしっかりと浸し、彼女はふうと冷ましてからフォークを口に入れる。
「……美味しい。不思議、甘いのにおかずです、これ! しかも、この外側のざくざく食感、ほかで食べたことがないかも……」
抱いていた不安が、ごっそりと私から消えていく。
「よかった~、よかったですわ、ほんと!」
もっとほかに言うべきことがあるのはわかっていたが、これしか出てこなかった。
とりあえず、例のレシピの再現第一弾は無事成功である。もっと変わった料理もたくさん載っていたから、ここで転けたらまずいと思っていたのだ。
「アメリアさん、あたし、これなら何個でも食べられるかも! ライスのボールかぼちゃ揚げ! これをおかずにしてお米も食べられそうです」
「あら、あんまり食べると重たいですわよ。それに、また語順がめちゃくちゃですって! かぼちゃのライスボールですよ」
「だ、だってあんまり美味しいから……!」
フィオナさんは、よほど気に入ってくれたらしい。
いいところの商家の娘さんで、基本的には落ち着いた物腰の彼女だが、今日新たな扉が開かれたらしい。
目を輝かせ、その小さな口をめいっぱい開けて、かぼちゃのライスボールを口にしている。
「これを食べていたら、頭の回転がよくなって小説が書けるようになるかも……!」
なんて発言まで飛び出したのは、料理人冥利に尽きる。
最近、フィオナさんは本を読むだけに留まらず、自分でも書こう、と筆を握ることもあるらしい。
応援したいけれど、なかなか手伝えることがないと手をこまねいていたが、まさかの形でお役に立てたようだ。
彼女があんまり美味しそうに食べるので、彼女につられたほかの方からも次々と注文が入る。
最高の滑り出しとなり、昼営業はかなりの繁盛ぶりだった。
昼営業の終わり間際に、また一人見知った顔がやってきてくれる。
「俺にも、同じものくださいっす! 今日、店に来てよかった~。領主様もいないみたいだし」
極度の小心者ながら料理屋研究にはひたすら熱い青年・サンタナさんだ。
ベリーハウス第一号のお客様で、初めてオスカーさんにお悩み相談をしてくれた方でもある。
しかも、私をベルク王国お料理大会に推薦してくれたのも彼だから、かなりお世話になっている。今のベリーハウスを作ってくれた一人と言ってもいい。
「ふふ、起き立てですか? 髪がはねてますわよ」
仲もいいから、これくらいは笑って話せる。
ベレー帽を外したサンタナさんの髪には立派な寝ぐせがついていたのだ。
「油断してました……。朝からずっとこのままでした。直しますっす!」
慌てて身なりを整え始める彼を横目に、私はすぐに料理を用意し提供する。
「うーん! やっぱり美味しい! やっぱり『ベリーハウス』にはどこも敵わないっすね」
上々の評価を得られたようだ。
たぶん、このあとノートに情報として書き残すつもりなのだろう。よくよく味を確かめるようにゆっくりと食べ進める。
「いやぁ、アメリアさんを拝めたうえに料理も美味しいなんて。通い詰める人が多いわけだ。二軒目でもこの美味さ!」
……天敵・オスカーさんがいないせいか、その舌の滑りは絶好調だ。
「あら、本日は二軒目でしたの?」
「そうなんですよ。実はさっき、この店のそばにできた新しいお店に行ってきたんす。メニューは高級出汁茶漬けとかなんとか」
もたらされた情報に、私は思わず目をぱちくりさせる。
茶漬けなんて料理は、もともとこの国にはない。モモを介して、私が持ち込んだメニューのはずだ。
まさか隣のお店の方もモモのような存在を召還できるのかも――ってそれは考えにくいか。
ただでさえ貴族の一部しか精霊獣を呼べないうえ、モモはその中でも超変わり種だ。世界にまたとない存在だろう。
私の店で出したメニューを参考に作った、と考えるほうが現実的かもしれない。
私が一人考え込んでいると、サンタナさんはそれを曲解したらしい。
「いやいや、浮気したわけじゃないっすよ? ほら俺、料理屋研究家だし、新しいお店ができた以上は行っておかないといけないっていうか。でもやっぱりアメリアさんのごはんが一番美味しいし、可愛いし――」
サンタナさんの失言癖がその姿を覗かせる。
ほら、もう! 私が気にしているのは、そこじゃない。いろんな料理屋に行きたい気持ちは、私だって持っているしね。
「別に気にしてませんわ。それより、お茶漬けだったんですか?」
「あ、そっちっすか。まあここで食べたものとは、味も見た目も全然違いましたけどね。向こうのはやたら豪華に牛の頬肉とか使ってましたし、そもそもクリーム系のスープに浸した感じでした」
なるほど、アイデアを盗られたという感じでもない。
「うーん、もしかしたらベリーハウスを意識してるのかもしれないっすね。横の店が出しているものとあえて似たものを出して真っ向から勝負を仕掛ける、それでうちのほうが美味しいんだぞってアピールするのはよくある話っすよ」
これは張り合われている、と考えたほうがよさそうだ。
「大丈夫だと思いますけど、万が一お店の売り上げに影響するようなら考えたほうがいいかもしれませんよ。こっちも対抗してみる、とか。もちろん、俺はベリーハウスを応援するっす」
あたしも、と本の陰から言ってくれるのは、カフェ利用のために店内に残っていたフィオナさんだ。
うん、私の秘密を知ってもこうして味方してくれる二人がとっても頼もしい。
けれど、だ。
「特に気にしませんわよ。味付けを真似されてるわけじゃなさそうですしね」
そう、お料理大会のときのように調味料を盗まれたりしないのならば、わざわざ咎めることでもない。
幸い、お客様が離れていくような事態には陥っていないのだ。
今の私にすれば、あの古いレシピノートを再現するほうが重要事項だった。
◇
こうしてスタートをきった古いレシピの再現。私が次に取りかかったのは、読んでいてもっとも気になった料理だった。
豆を使った料理であり、少しばかり特殊な工程を必要とするようだけど……書かれていた絵を見ても完成形の想像がつかない。
モモにそれを話すと、彼は呪いを怖がりながらも半分だけ開けた片目でレシピを見る。そして、すぐにぴんときたらしい。
彼が昔暮らしていた日本という国では、当たり前にあったものらしいけれど……
「見てのお楽しみだよ、こういうのは」
なんて、はぐらかされてしまった。
ほっぺたのふわふわをぐにぐにしてやっても、彼は答えず、されるがままに伸びている。
しつこく尋ねたから、単に面倒くさがられたのかもしれない。
だが、こうなったら未知への好奇心が私の背中を強く押す。
ひとまず材料を集めるためにお店の休日にやってきたのは、ロコロの街にある漁港だった。街の外れにあり、その雰囲気は中心部とは大きく異なる。
市場の中はことさらだ。
その磯臭さと男臭さに満ちた空間は、独特だ。
「あんた、一人でこんなところに来ようとしてたのかい? なかなかの挑戦者だねぇ」
同伴してくれたホセさんが、物珍しそうに左右を見回す。
「旦那にあんたの護衛を仰せつかってなきゃ、僕だって一人じゃ来ようとは思わないかも」
「必要ないって言ったんですけどね。別に一人でも来られますもの」
「あんたならそうかもしれないけど。旦那はあんたのこととなると、過保護になるからねぇ」
まったくそのとおりだ。
自分が公務で同伴できないとなるや、執事の彼を代わりに派遣してくれたのだから、徹底されている。そこまでしてもらわなくてもいいのだけど……
「僕が来たんだから有事のときは任せてくれていいよ」
まぁ、ホセさんなんだか嬉しそうだから、いいか。
いてくれる分には、私も楽しいしね。
彼は私の半歩前を、少し誇らしげに胸を張りつつ歩く。どうせなら、と私は彼が望んでいるだろう言葉を伝えた。
「頼りにしてますわよ、ホセさん」
「ししっ、あんたにそう言われると嬉しいな。……っと、なんだろあの人だかり。危ないことがあったらいけねぇし、ちょっと見てくるよ」
「あ、ちょっとお待ちくださいな。迷子になりますわよ」
「ならないっての。子どもじゃないんだし」
そういうところが、まさに子どもなのでは……?
名目上は私の護衛だけど、実際には私がホセさんのお守りになってないかしら、これ!
ひとまず自分の目的を置いておき、私は彼の後ろをついていく。
しっぽみたいに跳ねる彼の茶髪を追っていくと、気づけば人だかりの中にいた。
なんとか奥まで抜けてホセさんの横に陣取ると、その輪の中心にいた一人の女性が目に入った。
彼女は周りの男性と同じように腰巻と鉢巻を身につけている。
あら、珍しい。女性の販売員さんかしら。
男ばかりの世界で逞しく働く姿に勝手に親近感を覚える。
「何度もお伝えしましたが、そちらの鯛はハネものですとはじめから申し上げてます。その条件でお買いになったはずです」
「いくらハネものだからって、これは骨だらけでほとんど食う場所もない。明らかな不良品じゃあないか」
「だからそういう理由で安くお売りしたんです」
なにやら男性客の応対をしているようだったが、その会話は決して穏やかなものではない。
女性のほうは怒りを堪えているのがありありとわかる声音だ。男性も高圧的な態度で大きく膨れた腹を前に突き出している。
おそらくこの剣呑な雰囲気が人を集めてしまったのだろう。
「こりゃあ弁償すべきだろ。まともな鯛なら五十匹、鯖なら二百匹、それくらいはもらわんとなぁ」
「購入されたのは三十匹のはずですけど?」
「不快な思いをした分、追加で二十匹だ。それができないなら、……そうだな、代わりに嬢ちゃんの身でも差し出すか?」
男性の要求は、明らかに不当なものだった。
この時期の鯛は、身が引き締まってさっぱりとした脂が美味しいけれど、まぁ高い。
それこそ私はまず手が出ない。それを五十匹というのは、横暴すぎる。普通ならまかり通らない要求だ。
「あの人、公務の関係で知ってる。力のある豪商なんだ。それで誰も注意できないでいるみたいだね」
ホセさんの囁きで、やっと状況を把握することができた。
なるほど、後ろに従者を侍らせているあたり、まさしく権力者なのだろう。
「どうだ、いい条件だろ? その勝ち気な性格、気に入ったんだ。悪いようにはしないぞ?」
「……お断りします」
「よく聞こえないなぁ。簡単に断れると思ったら大間違いだぞ、嬢ちゃん。ワシが動けばここの漁場一つどうにかすることくらい簡単にできるんだ。なにかはしてもらわねぇとなぁ」
男は言い合ううちにすっかりヒートアップしているのか、周りが見えていないらしい。
公衆の面前にもかかわらず、胸糞悪いやりとりが交わされる。
このままでは、見ているこちらの心まで荒んできそうだ。
我慢ならず私が足を踏み出しかけたところ、ホセさんが腕を出して制止してきた。
「迂闊に手を出せないな。豪商相手じゃ面倒だ。だが、これ以上無理強いするようなら、僕が止める。あんたは下がっててよ。危険な目にあわせないために旦那に付き添いを頼まれたんだし――」
が、私が聞いていたのはそこまでだった。
どうしても肌の裏がむず痒くて、耐えられなかったのだ。
「言いがかりはそこまでになさい‼」
気づいたときには、もう前に出ていた。
「なんだぁ、嬢ちゃん……? いきなり出てきて、このワシに意見しようっていうんかい」
「そんなところですわね。だって、あんまり間違ったことを言うんですもの」
周りを囲んでいた買い物客らがざわつき始める。
ホセさんが「あんたは本当に……」とため息を漏らすのが耳に入った。
けれど、もうあとには引けない。
私は女性販売員さんに大丈夫だと目配せをしてから、腰に両手を当てた。
「あなたの買ったお魚、見せてもらってもいいです?」
「……ワシはなんの嘘も言ってないぞ? この鯛は身が小さくて、本当に骨が多い。一匹捌いてみたから、間違いない」
そう言って豪商の男が冷却箱から取り出したのは、手のひらサイズの鯛だ。
なるほど、たしかに小ぶりではある。
けれど、身に傷があったり、変色したりしているわけではない。
単に、大きくならない種類の鯛なのだろう。
「綺麗な鯛じゃないですの。これが安く手に入るなら、むしろお得ですわね」
「ふん、見た目が綺麗でも食べるところがなければ意味がないじゃないか」
「それも使い方次第ですわ。むしろこの一匹で、三つ以上は料理ができますわよ」
「三つとは大きく出たな、嬢ちゃん。はは、冗談はよしたほうがいい」
「冗談は言いませんわよ。私、これでも料理人ですもの」
それも、節約料理を専門にしているしね! なんなら自分の領分だ。
身の端まで余すことなく利用するのは、お手のものである。
しかし、それをここで証明できないのが弱かった。
「ふん、どうせ口だけだろ」
男はそう決めつけて、鼻息荒くふんぞりかえる。
ぐぬぬ……! 私は歯痒さを噛み締める。すると――
「あの、裏にある調理場でよければお貸しできますけど」
それを見かねたらしい販売員の女性が、救いの手を差しのべてくれた。
「ほんとですか! 貸してくださいな、三十分ほどいただければ、すぐに作ってみせますから」
「えっ、そんな時間で三品も?」
「ふふ、十分ですわよ。大船に乗ったつもりで任せてください。では、ちょーっとばかりお待ちくださいな?」
私は男に対して、いつもの必殺笑顔をお見舞いする。
「じゃがいもの花も綺麗に咲いているな。うむ、やはり美しいじゃないか」
そういえば、見るのをかなり楽しみにしてくれていたのだっけ。
この数ヶ月で愛着が湧いたのかもしれない。
嬉しいことに、お料理大会の前日に私が渡したじゃがいもの花の髪留めは、季節が変わってなお彼の海色の髪にアクセントを添えている。
「えっと、あとで剪定したいのですけど」
そんな彼に告げるには少々残酷な話だったかもしれないけれど、よい収穫のためには仕方がない。
秋採れのじゃがいもは特に、これからが大切なのだ。
「刈り取るのか……? どういう理由なんだ」
「お花に栄養を持っていかれないためですよ。ちょっとの手間ですけど、甘さに関わるんです」
「なるほど、理由はわかった。しかし、そうか……」
オスカーさんは両眉を下げて、別れを惜しむように花びらを撫でる。
結構悲しんでる⁉ と、私がかぼちゃを抱えながら驚いているうちに、切り替えが完了したらしい。
「悪かった。手伝おう、アメリア。腰を痛めてしまったら大変だ」
彼は、私の作業を手伝いに来てくれる。
かぼちゃの収穫には、なかなか手間取った。水属性魔法では切れず、ハサミがあっても、その太い茎は簡単にはいかない。そんなふうに悪戦苦闘する最中も、オスカーさんはちらちらとじゃがいもの花のほうを窺っている。
「えっと、どうしても咲いている芋の花が見たいなら、秋植えという手もありますよ」
余計かもしれないが、つい口にしてしまった。
「それは興味深いな。聞かせてもらえるか」
うん、食いつきが早い! やっぱり未練たっぷりだったのだ。
「品種が違うんですよ。少しばかり寒さに強くて、冬前には収穫できるんです。もしよかったら、夏のお野菜を刈り終わったあとにやりますか?」
同じ作物の連作は基本的にあまり好ましくない。そのため土の大幅な入れ替えが必要かもしれないけれど、時期的にやれないことはない。
しかし、この提案に彼は首を横に振った。
「その必要はない、場所なら用意してあるからな。ほら、あの奥だ」
奥? そうはいっても、『アメリアの畑』はたしか夏採れと秋採れの二区画だったはず……。それでも十分な広さだと思っていたのだが。
「な、なんか、広がってるっ⁉」
「秋に植える野菜もあるだろう。今のままでは場所が足りないと思ってな。庭師に頼んで、拡張したんだ」
よもやの三区画めが木製の柵の向こうに、出来上がっていた。
まだ畝があるだけの畑を前に立ち尽くしていると、オスカーさんが声を小さくする。
「もしかすると、余計だったか? 管理ならば心配ない。こちらでやるさ」
「いえ、そうじゃないですけど、むしろ嬉しいですけど……。こんなに土地をもらっちゃってもいいんですか。なんだか私がオスカーさんの屋敷を侵略してるみたい……」
「構わないさ。いつか庭が全て埋まることだって覚悟の上だ」
……!
一瞬、畑に囲まれた辺境伯邸の光景が頭をかすめる。
いつでもどこでも食材に囲まれているなんて夢みたいな屋敷だと思って口元が緩むけれど、国のお偉いさんがどんな顔をするかと考えたら、背筋に寒気が走った。
「それはよくないですって! 極端すぎますわよっ!」
「言いすぎたようだな。半分ならばいいか?」
「まぁそれなら……って半分も十分多いです!」
危ない、危ない。
最初の提案があまりにも異次元だったので、すんなり受け入れてしまうところだった。
既に広大すぎると思っていた畑がさらに広がっていようとは、まさか思いもしなかったが、予定どおりかぼちゃの収穫ができた。
となれば、もっとも美味しい採れたてのうちに使わなければならない。
翌日、『ごはんどころ・ベリーハウス』の入り口前に掲げられていたのは、『かぼちゃの日』という文言だ。
「アメリアさん、今日はまた特別な日なんですか?」
その日、一番に入ってきたのは、お客様であり、お友達でもあるフィオナさんだ。彼女はさっそくその意味を尋ねてくれる。
過去にも、大きなオス鮭をまるごと一匹仕入れた日、『鮭の日』企画を実施したことがあった。
それを彼女は覚えてくれていたらしい。
「ええ。昨日、テームズ邸にお邪魔して、たくさんお野菜をいただいてきましたから! しかも、今日は輪をかけて特別ですよ。なんたって、新しい料理に挑戦したんです。昨日の夜に初めて試したんですけど、これがとても美味で――」
って、そうじゃない。私は自分の手で、口を塞ぐ。
言葉でいくら語り尽くしても、大事なのは味なのだ。言葉ではなく、提供したお皿で語って気づいてもらわなければ。
私は背中側、少し緩んでいたエプロンの紐を結び直す。そして水色格子柄のバンダナを頭に締めて、厨房へと入った。
今日は公務の関係で、オスカーさんは不在だ。そのぶん仕込みはそうそうに済ませていたので、私はさっそく揚げ油を温め始めた。
早いもので、このお店を開いてから、もう半年が経とうとしている。
お客様にごはんを作ることには慣れてきたけれど、新しい挑戦をするときには、どきどきと緊張と希望とが入り混じり、胸が早鐘を打つ。
これから私が振る舞うのは、あの古いレシピノートに載っていた料理で、いわゆるライスボールである。
ライスボールはこの国でも親しみのある料理なので、私も手を出しやすかったし、きっとお客様にとっても受け入れやすい一品のはずだ。
私は冷却箱に寝かせていたタネを取り出す。
鮮やかなオレンジ色をしたそれは、昨日収穫してきた大玉かぼちゃを潰したものだ。
ちなみに既に、砂糖と牛乳、生クリームで味は調えてある。
このタネを湯に溶かしてスープにすることもできるが……
今日はこれを丸く握り、その外側に潰したお米とかぼちゃの皮、さらにはアーモンドナッツを刻んだものを順々に纏わせていく。
最後がパン粉ではないのが、一つの大きな特徴だ。
かぼちゃは野菜の中でも、特に甘みが強い。もちろんパンを削ったパン粉を纏わせてもいいが、この風変わりな衣だからこそ引き出せる味や、噛み応えというものがある。
焦げないようときどき転がして、慎重に揚げていく。
外側がこんがりきつね色になったら、昨日採ったトマトを煮詰めて作ったソースを添えて、完成だ。
単品だと皿が味気ないので、お米やサラダ(かぼちゃチップス添え!)と一緒に盛り付けて、ワンプレートにして提供する。
さらには、大鍋で作ったかぼちゃの白味噌スープを添えれば、かぼちゃのいろんな顔を表現した『かぼちゃの日』にふさわしいランチセットの出来上がりだ。
「さ、おあがりくださいませ! かぼちゃのライスボールセットでございます」
既にほかのお客様も入ってきているが、今は新メニューの反応に集中したい。
カウンターの上にお皿を置き、私はフィオナさんの一挙手一投足を固唾を呑んで見守る。
彼女はまず本を閉じて、鞄へとしまった。
それからお皿を回し、かぼちゃボールをあらゆる角度から不思議そうに観察した。表面が濃い緑で、見慣れないからだろう。
彼女はその側面をフォークで崩す。
と、中からまるで半熟卵の黄身のごとくとろりとあふれ出たのは、鮮やかなオレンジ色をしたかぼちゃクリームだ。そこから上がる白い湯気は、カウンター越しにでも、その甘美さを伝えてくる。
たっぷり掬ったその橙色にライスボールをしっかりと浸し、彼女はふうと冷ましてからフォークを口に入れる。
「……美味しい。不思議、甘いのにおかずです、これ! しかも、この外側のざくざく食感、ほかで食べたことがないかも……」
抱いていた不安が、ごっそりと私から消えていく。
「よかった~、よかったですわ、ほんと!」
もっとほかに言うべきことがあるのはわかっていたが、これしか出てこなかった。
とりあえず、例のレシピの再現第一弾は無事成功である。もっと変わった料理もたくさん載っていたから、ここで転けたらまずいと思っていたのだ。
「アメリアさん、あたし、これなら何個でも食べられるかも! ライスのボールかぼちゃ揚げ! これをおかずにしてお米も食べられそうです」
「あら、あんまり食べると重たいですわよ。それに、また語順がめちゃくちゃですって! かぼちゃのライスボールですよ」
「だ、だってあんまり美味しいから……!」
フィオナさんは、よほど気に入ってくれたらしい。
いいところの商家の娘さんで、基本的には落ち着いた物腰の彼女だが、今日新たな扉が開かれたらしい。
目を輝かせ、その小さな口をめいっぱい開けて、かぼちゃのライスボールを口にしている。
「これを食べていたら、頭の回転がよくなって小説が書けるようになるかも……!」
なんて発言まで飛び出したのは、料理人冥利に尽きる。
最近、フィオナさんは本を読むだけに留まらず、自分でも書こう、と筆を握ることもあるらしい。
応援したいけれど、なかなか手伝えることがないと手をこまねいていたが、まさかの形でお役に立てたようだ。
彼女があんまり美味しそうに食べるので、彼女につられたほかの方からも次々と注文が入る。
最高の滑り出しとなり、昼営業はかなりの繁盛ぶりだった。
昼営業の終わり間際に、また一人見知った顔がやってきてくれる。
「俺にも、同じものくださいっす! 今日、店に来てよかった~。領主様もいないみたいだし」
極度の小心者ながら料理屋研究にはひたすら熱い青年・サンタナさんだ。
ベリーハウス第一号のお客様で、初めてオスカーさんにお悩み相談をしてくれた方でもある。
しかも、私をベルク王国お料理大会に推薦してくれたのも彼だから、かなりお世話になっている。今のベリーハウスを作ってくれた一人と言ってもいい。
「ふふ、起き立てですか? 髪がはねてますわよ」
仲もいいから、これくらいは笑って話せる。
ベレー帽を外したサンタナさんの髪には立派な寝ぐせがついていたのだ。
「油断してました……。朝からずっとこのままでした。直しますっす!」
慌てて身なりを整え始める彼を横目に、私はすぐに料理を用意し提供する。
「うーん! やっぱり美味しい! やっぱり『ベリーハウス』にはどこも敵わないっすね」
上々の評価を得られたようだ。
たぶん、このあとノートに情報として書き残すつもりなのだろう。よくよく味を確かめるようにゆっくりと食べ進める。
「いやぁ、アメリアさんを拝めたうえに料理も美味しいなんて。通い詰める人が多いわけだ。二軒目でもこの美味さ!」
……天敵・オスカーさんがいないせいか、その舌の滑りは絶好調だ。
「あら、本日は二軒目でしたの?」
「そうなんですよ。実はさっき、この店のそばにできた新しいお店に行ってきたんす。メニューは高級出汁茶漬けとかなんとか」
もたらされた情報に、私は思わず目をぱちくりさせる。
茶漬けなんて料理は、もともとこの国にはない。モモを介して、私が持ち込んだメニューのはずだ。
まさか隣のお店の方もモモのような存在を召還できるのかも――ってそれは考えにくいか。
ただでさえ貴族の一部しか精霊獣を呼べないうえ、モモはその中でも超変わり種だ。世界にまたとない存在だろう。
私の店で出したメニューを参考に作った、と考えるほうが現実的かもしれない。
私が一人考え込んでいると、サンタナさんはそれを曲解したらしい。
「いやいや、浮気したわけじゃないっすよ? ほら俺、料理屋研究家だし、新しいお店ができた以上は行っておかないといけないっていうか。でもやっぱりアメリアさんのごはんが一番美味しいし、可愛いし――」
サンタナさんの失言癖がその姿を覗かせる。
ほら、もう! 私が気にしているのは、そこじゃない。いろんな料理屋に行きたい気持ちは、私だって持っているしね。
「別に気にしてませんわ。それより、お茶漬けだったんですか?」
「あ、そっちっすか。まあここで食べたものとは、味も見た目も全然違いましたけどね。向こうのはやたら豪華に牛の頬肉とか使ってましたし、そもそもクリーム系のスープに浸した感じでした」
なるほど、アイデアを盗られたという感じでもない。
「うーん、もしかしたらベリーハウスを意識してるのかもしれないっすね。横の店が出しているものとあえて似たものを出して真っ向から勝負を仕掛ける、それでうちのほうが美味しいんだぞってアピールするのはよくある話っすよ」
これは張り合われている、と考えたほうがよさそうだ。
「大丈夫だと思いますけど、万が一お店の売り上げに影響するようなら考えたほうがいいかもしれませんよ。こっちも対抗してみる、とか。もちろん、俺はベリーハウスを応援するっす」
あたしも、と本の陰から言ってくれるのは、カフェ利用のために店内に残っていたフィオナさんだ。
うん、私の秘密を知ってもこうして味方してくれる二人がとっても頼もしい。
けれど、だ。
「特に気にしませんわよ。味付けを真似されてるわけじゃなさそうですしね」
そう、お料理大会のときのように調味料を盗まれたりしないのならば、わざわざ咎めることでもない。
幸い、お客様が離れていくような事態には陥っていないのだ。
今の私にすれば、あの古いレシピノートを再現するほうが重要事項だった。
◇
こうしてスタートをきった古いレシピの再現。私が次に取りかかったのは、読んでいてもっとも気になった料理だった。
豆を使った料理であり、少しばかり特殊な工程を必要とするようだけど……書かれていた絵を見ても完成形の想像がつかない。
モモにそれを話すと、彼は呪いを怖がりながらも半分だけ開けた片目でレシピを見る。そして、すぐにぴんときたらしい。
彼が昔暮らしていた日本という国では、当たり前にあったものらしいけれど……
「見てのお楽しみだよ、こういうのは」
なんて、はぐらかされてしまった。
ほっぺたのふわふわをぐにぐにしてやっても、彼は答えず、されるがままに伸びている。
しつこく尋ねたから、単に面倒くさがられたのかもしれない。
だが、こうなったら未知への好奇心が私の背中を強く押す。
ひとまず材料を集めるためにお店の休日にやってきたのは、ロコロの街にある漁港だった。街の外れにあり、その雰囲気は中心部とは大きく異なる。
市場の中はことさらだ。
その磯臭さと男臭さに満ちた空間は、独特だ。
「あんた、一人でこんなところに来ようとしてたのかい? なかなかの挑戦者だねぇ」
同伴してくれたホセさんが、物珍しそうに左右を見回す。
「旦那にあんたの護衛を仰せつかってなきゃ、僕だって一人じゃ来ようとは思わないかも」
「必要ないって言ったんですけどね。別に一人でも来られますもの」
「あんたならそうかもしれないけど。旦那はあんたのこととなると、過保護になるからねぇ」
まったくそのとおりだ。
自分が公務で同伴できないとなるや、執事の彼を代わりに派遣してくれたのだから、徹底されている。そこまでしてもらわなくてもいいのだけど……
「僕が来たんだから有事のときは任せてくれていいよ」
まぁ、ホセさんなんだか嬉しそうだから、いいか。
いてくれる分には、私も楽しいしね。
彼は私の半歩前を、少し誇らしげに胸を張りつつ歩く。どうせなら、と私は彼が望んでいるだろう言葉を伝えた。
「頼りにしてますわよ、ホセさん」
「ししっ、あんたにそう言われると嬉しいな。……っと、なんだろあの人だかり。危ないことがあったらいけねぇし、ちょっと見てくるよ」
「あ、ちょっとお待ちくださいな。迷子になりますわよ」
「ならないっての。子どもじゃないんだし」
そういうところが、まさに子どもなのでは……?
名目上は私の護衛だけど、実際には私がホセさんのお守りになってないかしら、これ!
ひとまず自分の目的を置いておき、私は彼の後ろをついていく。
しっぽみたいに跳ねる彼の茶髪を追っていくと、気づけば人だかりの中にいた。
なんとか奥まで抜けてホセさんの横に陣取ると、その輪の中心にいた一人の女性が目に入った。
彼女は周りの男性と同じように腰巻と鉢巻を身につけている。
あら、珍しい。女性の販売員さんかしら。
男ばかりの世界で逞しく働く姿に勝手に親近感を覚える。
「何度もお伝えしましたが、そちらの鯛はハネものですとはじめから申し上げてます。その条件でお買いになったはずです」
「いくらハネものだからって、これは骨だらけでほとんど食う場所もない。明らかな不良品じゃあないか」
「だからそういう理由で安くお売りしたんです」
なにやら男性客の応対をしているようだったが、その会話は決して穏やかなものではない。
女性のほうは怒りを堪えているのがありありとわかる声音だ。男性も高圧的な態度で大きく膨れた腹を前に突き出している。
おそらくこの剣呑な雰囲気が人を集めてしまったのだろう。
「こりゃあ弁償すべきだろ。まともな鯛なら五十匹、鯖なら二百匹、それくらいはもらわんとなぁ」
「購入されたのは三十匹のはずですけど?」
「不快な思いをした分、追加で二十匹だ。それができないなら、……そうだな、代わりに嬢ちゃんの身でも差し出すか?」
男性の要求は、明らかに不当なものだった。
この時期の鯛は、身が引き締まってさっぱりとした脂が美味しいけれど、まぁ高い。
それこそ私はまず手が出ない。それを五十匹というのは、横暴すぎる。普通ならまかり通らない要求だ。
「あの人、公務の関係で知ってる。力のある豪商なんだ。それで誰も注意できないでいるみたいだね」
ホセさんの囁きで、やっと状況を把握することができた。
なるほど、後ろに従者を侍らせているあたり、まさしく権力者なのだろう。
「どうだ、いい条件だろ? その勝ち気な性格、気に入ったんだ。悪いようにはしないぞ?」
「……お断りします」
「よく聞こえないなぁ。簡単に断れると思ったら大間違いだぞ、嬢ちゃん。ワシが動けばここの漁場一つどうにかすることくらい簡単にできるんだ。なにかはしてもらわねぇとなぁ」
男は言い合ううちにすっかりヒートアップしているのか、周りが見えていないらしい。
公衆の面前にもかかわらず、胸糞悪いやりとりが交わされる。
このままでは、見ているこちらの心まで荒んできそうだ。
我慢ならず私が足を踏み出しかけたところ、ホセさんが腕を出して制止してきた。
「迂闊に手を出せないな。豪商相手じゃ面倒だ。だが、これ以上無理強いするようなら、僕が止める。あんたは下がっててよ。危険な目にあわせないために旦那に付き添いを頼まれたんだし――」
が、私が聞いていたのはそこまでだった。
どうしても肌の裏がむず痒くて、耐えられなかったのだ。
「言いがかりはそこまでになさい‼」
気づいたときには、もう前に出ていた。
「なんだぁ、嬢ちゃん……? いきなり出てきて、このワシに意見しようっていうんかい」
「そんなところですわね。だって、あんまり間違ったことを言うんですもの」
周りを囲んでいた買い物客らがざわつき始める。
ホセさんが「あんたは本当に……」とため息を漏らすのが耳に入った。
けれど、もうあとには引けない。
私は女性販売員さんに大丈夫だと目配せをしてから、腰に両手を当てた。
「あなたの買ったお魚、見せてもらってもいいです?」
「……ワシはなんの嘘も言ってないぞ? この鯛は身が小さくて、本当に骨が多い。一匹捌いてみたから、間違いない」
そう言って豪商の男が冷却箱から取り出したのは、手のひらサイズの鯛だ。
なるほど、たしかに小ぶりではある。
けれど、身に傷があったり、変色したりしているわけではない。
単に、大きくならない種類の鯛なのだろう。
「綺麗な鯛じゃないですの。これが安く手に入るなら、むしろお得ですわね」
「ふん、見た目が綺麗でも食べるところがなければ意味がないじゃないか」
「それも使い方次第ですわ。むしろこの一匹で、三つ以上は料理ができますわよ」
「三つとは大きく出たな、嬢ちゃん。はは、冗談はよしたほうがいい」
「冗談は言いませんわよ。私、これでも料理人ですもの」
それも、節約料理を専門にしているしね! なんなら自分の領分だ。
身の端まで余すことなく利用するのは、お手のものである。
しかし、それをここで証明できないのが弱かった。
「ふん、どうせ口だけだろ」
男はそう決めつけて、鼻息荒くふんぞりかえる。
ぐぬぬ……! 私は歯痒さを噛み締める。すると――
「あの、裏にある調理場でよければお貸しできますけど」
それを見かねたらしい販売員の女性が、救いの手を差しのべてくれた。
「ほんとですか! 貸してくださいな、三十分ほどいただければ、すぐに作ってみせますから」
「えっ、そんな時間で三品も?」
「ふふ、十分ですわよ。大船に乗ったつもりで任せてください。では、ちょーっとばかりお待ちくださいな?」
私は男に対して、いつもの必殺笑顔をお見舞いする。
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