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五章 深川めし

五章 深川めし(9)

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 六


 翌日から『郷土料理屋・いち』は、平常営業に戻った。

ありがたいことに、初日から店は大入りだった。ちょうど梅雨明けが宣言されたこともあったのだろう。
常連さんに、ご新規さん、それから事件があったと聞いてきた野次馬的な客など、よりどりみどりで賑やかだった。

おかげで店の売上は続伸し、二日間営業していなかったにもかかわらず、六月も大きく黒が出たそうだ。
そして迎えた七月一日、私はついに、正社員になった。

祝いの品だと、江本さんは新しい手ぬぐいをくれた。色違いのお揃いだ。それだけなら嬉しかったのだが、どっさり記入必須の用紙も渡されたので、少しげんなりした。

でも書くごとに、実感がわいて、心が躍る。最後は、文字が上に向いてしまった。
それを見た江本さんはじっと見つめてやっと分かるくらい、かすかに笑う。事件の日はよく表情が変わったのに、今やまた石版を貼ったような顔だ。

「…………結衣さんらしいですね」

そのくせ、下の名前で呼んでくれる。
どうやら、距離感を掴みかねているらしい。それは私もだった。
江本さん、いっくん、はじめ。どう呼んだらいいのやら分からない。初恋の人だったと分かったところで、別々に出来上がった印象は簡単には重ならなかった。

でも、少しずつでも壁は壊したい。

「これでいい? 書き直した方がいいかな」

だから、まず敬語はやめることにした。少なくとも、「営業時間外は」という条件付きではあるが。
告白してしまえ、と一度は思ったことを考えれば、小さな努力だ。

けれど、これからもここで仕事をできるなら、ゆっくり溝を埋めて関係を深めていくのもいい。

「とりあえず受け取っておきます。では、用意に戻りましょうか。もう開店時間です」
「うん。今日からいよいよランチタイムだもんね。えっと、新しいメニュー表は……」
「こちらにございます。これは、僕がテーブルに置いておきますので、結衣さんは外をお願いします。入り口に一式まとめてありますので」

いつものごとく準備が早い。少し感心してしまってから、私は店の看板を抱えて戸口から出る。
店の前に看板を据え付けてから、あまりの眩しさに空を見上げた。
午前十一時、ほとんど真上にある太陽は、路地裏をも燦々と照らす。正社員に、満を持してのランチ営業に、新しい
船出には、もってこいの日和だった。
凛とぬるい風が風鈴をなびかせる。私は夏色を帯び始めた空気を大きく吸って、よし、と気合を入れた。

「元気いいですね、店員さん」

不意に声がしたと思ったら、真後ろにビジネスバックを提げた男の人がいた。どうやらランチタイムのお客様第一号がいらっしゃったようだ。

「ありがとうございます! 中へどうぞ!」

私は身を引いて、扉を開ける。一名様です、と声を張った。
さて、今日のお客様はなにをご注文なさるのだろう。宮崎県名物のチキン南蛮か、群馬のおっきりこみか。はたまた、謎解きかもしれない。

とにかく今日も、御徒町の路地裏に小さな明かりが灯る。
                                      (了)
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