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三章 火野カブ漬け

三章 火野カブ漬け(1)

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 バイトへ行く時は、いつも努めて静かに家を出る。

なるたけ音を立てないよう、そろりと移動しなくてはならない。とくに、リビングを通る時は要注意だ。ワイドショーに釘付けの母・加奈子の気をそらさぬよう、そーっと廊下へと抜ける必要がある。もし少しでも音を立てようものなら、

「また飲食でバイト? 暇ねぇ」

ほら、こんな風に小言が飛び出る。もう耳にタコができそうなほど聞いたフレーズだ。

「忙しいよ」

私はこう愛想のない返事をして、母の前から去る。

表立って対立しても、ただ決着の出ない揉め事に発展するのは、経験上分かっていた。「やめろ」とは口にせず、今みたく遠回しにぶつくさ言われ続けるのだ。

だから、煙が燻り始める前に私はそそくさと外へ避難した。
五時だけれど、まだまだ日ははっきりと明るかった。マンションのエントランスを出たところ、すーっと深呼吸をすると、下町の住宅街でも少しは新緑の香りがする。

季節はたしかに春から移りゆこうとしていた。けれど、母の態度はまるで変わらない。一貫して、私がバイトをすることには批判的な態度を取っている。

三ヶ月と期限も設けた。目標も決めた。いたずらにフリーターとして過ごしているわけではないのだから、文句を言われる筋合いはないはずなのだけど。

それに、母は私の目標に追い風が吹き始めているのを知らないのだ。

看板効果か、国見さんによるインスタグラムでの宣伝効果か、『郷土料理屋・いち』を訪れる人はこの一月で徐々に増え始めていた。私個人としても、江本さんに迷惑をかけないぐらいには仕事も覚えてきている。
そろそろバイトの一つ、認めてくれてもいい。

ただそう思いこそすれ、母が簡単に意見を翻すとも思えなかった。

二十年以上、生活を共にしているのだから、それくらいは理解できている。きわめて頑固なのだ、母は。本人が言うに、彼女の生まれ故郷である秋田県人の一般的な気質らしい。けれど小学校低学年の頃には東京に移り住んだというから、それは言い訳だと私は思っている。

そろそろ愚痴を吐いてもいいかもしれない。幸い、母の話をするにはもってこいの適任が一人いた。
私はその人にメッセージを打ち込みながら、『郷土料理屋・いち』の裏口の戸を引く。表にいるだろう江本さんに挨拶をせんとして、

「おっ来た! 結衣~」

思いがけず、その人にでくわした。まだ表には準備中の札が下げてあるはずなのに、彼女はさも当たり前のように客席にいた。

竹楊枝で和菓子をつまみ、湯呑みでお茶を飲む。彼女のシックな装いといい、郷土料理屋というより、まるで京都の茶屋のような雰囲気を醸していた。

「えっここでなにしてるの、紗栄子おばさん」
「久しぶりに会ってそれが一言目? 可愛くない姪だなぁ」
「だってびっくりするじゃん。どうしたの」

叔母は、当ててみて、と面倒な構い方をしてくる。

「分かるわけないじゃん」

齢五十にして未婚。私に似た切れた目に、艶のある肌、姿が年齢不相応に若く美しいのと同じく、中身もいつまでも子供っぽい。

大人の色気があるのは、服と仕草だけだ。彼女はパーマのかかった亜麻色の長い髪を手櫛でまとめ、肩口に垂らす。じっと見ていたら、女の私でもどきりとしてしまった。

私がいい加減教えてよ、と焦れていたら、後ろから足音がする。
すでに制服姿、江本さんだった。

「ういろうをお出ししております。ういろうは言わずと知れた山口県の郷土菓子でして、あんこを──」
「そうじゃなくて! なんで紗栄子おばさんがここに?」

彼も彼で変わっている。この状況でまずお菓子の解説を求める人がいるだろうか。

「あぁ、そちらですか。なにやら佐田さんと僕に用事があるとのことです。開店時間よりずっと早くから店の前にいらっしゃったので」
「中に入ってもらった、と」

江本さんは首肯する。いぇーいと二十代でも引いてしまうようなVサインを掲げたのは、叔母だ。なんとなく身内の私が恥ずかしくなってきた。

「おー怖、目が尖ってるよ、結衣。笑顔笑顔!」
「あのね、誰のせいでこうなってると」
「ほらクールダウンしな。結衣もういろうもらったら? 落ち着くよ。ねぇいいでしょ、はじめくん」

叔母は首を傾げ、女優顔負けのスマイルを江本さんに放つ。
下の名前で呼ぶなんて、馴れ馴れしくないだろうか。

「はい。ではお持ちいたします。僕もちょうど甘味を欲しておりました」

だが、江本さんはとくに指摘もせず用意に取り掛かる。そんな彼をどういうことかと目で追っていたら、

「なぁに、嫉妬? いやー姪の彼氏をそそのかせるなんて、私もまだまだ捨てたものじゃないわね」
「嫉妬でも彼氏でもないから!!」
「あぁごめんごめん。結衣には許嫁がいるもんね。幼馴染の秋山くん。このところ、どうなの?」

叔母も知り合いとはいえ、ここでその嫌な名前を出すかと思う。最近は忙しいのか、しつこく会おうとこそ言ってこないけれど、メッセージが毎日数通届いて迷惑しているところだ。

告白には、もう一度きちんとノーを出した。けれど、それからも連絡は続いている。たぶん、私が旧知の仲である彼を、完全に邪険にはできないことを分かっているのだ。

「結婚式やるなら呼んでね~」
「もうやめてよ、おばさん!」

背中に悪寒が走り、私は反射的にどんとカウンターを手のひらで打つ。思いのほか力が余って、湯呑みが揺れ、お茶がこぼれた。紙ナプキンに緑のシミができていく。

「……ごめんなさい」

たしかに、ういろうを楽しむくらいの余裕は、持ったほうがいいかもしれない。


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