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二章 とり天

二章 とり天(7)

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「そ、それ! 返してください!」

国見さんは、ばっと顔を上げる。瞳孔の開いた目で江本さんの手からそれを奪わんと勢い立ち上がった。しかし、高く掲げられてはリーチが及ばない。

江本さんは、両側からその木を引っ張った。すると、上半分が外れる。
金属部が現れて、USBだと分かった。

「なんや国見、それ発表用のデータか?」

教授の言葉による追及と、江本さんの静かなる訴えが彼女に向けられる。

なくしたはずのデータが出てきた。めでたしめでたし、という話ではないようだ。
私は、かばうこともできなくなって、どちらにも回れず、立ち尽くした彼女を見守る。

「そうだろうと僕は推測しております。帰りがけに慌てた理由は、僕が代役をするという話が蒸し返されたからでしょう。話題に上れば、嘘がバレるかもしれませんから。
……データをなくしたわけじゃないのだろうことは、佐田さんのおかげで分かりました」
「へ? 私?」

傍観者になりかけていたから、抜けた声になってしまった。

「はい。佐田さんと喋る中で彼女はスマホを手慣れた様子で触っていましたから電子機器に弱いわけでないのだろう、と。であれば、たとえデータを紛失したとしても全てをなくしてしまうのはおかしい。それも二日前になって東京に来てからとこれば、なくし方の都合がよすぎるというものでしょう。
そしてすぐに明るく話をされていたので、もしくは本当に落ち込んでいるわけではないのかもしれないと考えました。割に先生のお酌に甲斐甲斐しく当たっていたのも、演技と見抜く一つのきっかけでした」

江本さんは坂倉教授と論議しつつも、私たちの会話にも耳を傾けていたらしい。そう言われて思い返せば、たしかに立ち直りは早かった。

ほう、と教授は聞き入る。国見さんの顔は、すっかり青ざめていた。

「……もう理由も分かってるんですか」

くぐもった声で言う。そこには、演技に興じる余裕はなさそうだった。

「大方、プレッシャーに耐えかねていたのでは? 学部生唯一の発表は、たしかに荷が重いですから」
「……その通りですよ。私には、注目を浴びながら発表するなんて無理なんです」

国見さんは、ぽつりぽつりと吐露していく。
そもそも彼女は、人前に立つのが大の苦手だそうだ。そのうえ、自分よりもよっぽどその分野に理解のある教授を相手にするとなると、詰問されるのが目に見えるようで、及び腰になってしまったらしい。
練習してもしても納得がいかない。そのうちに発表の日が近づき、東京まできたところで、限界を迎え、今回の逃亡を図ったのだそうだ。

「妖怪や怪異って最近一般的にも人気が出始めてて。中途半端な発表になって、ミーハーだって思われるのが嫌で」

研究者たちの期待を集めている、との坂倉教授の発言が頭によぎる。期待が重圧になって彼女を押し潰し、逃げるような選択肢を取らせたわけだ。

「本当は発表してみたいとも思っていたのでは」
「なんであなたがそんなこと分かるんですか」
「発表を全くしたくないなら、このUSBはそもそも京都に置いてこればよかったではありませんか」
「それは、その……」

私は、もう仲裁に入ろうかと思った。
江本さんの無感情をも思わせる言葉は、彼女を着実に追い込んでいるように見える。私が「あの」と口を開いたところ、大きな手が私の顔に影を作った。

江本さんは、大丈夫ですと私にだけ聞こえるようかすかに囁く。その声音には優しさが灯っているかのようで、私は舌を引っ込めた。

「このUSB、几帳面そうなあなたにしては、少し汚れております。よほど発表のために力を尽くしてきた証拠でしょう。ミーハーだなんて誰も言えない、とても素晴らしい努力でございます。
けれど、発表しなかったら、どれだけ偉大な研究でも意味がなくなってしまう世界でございます。先ほどの幻の一週間かけた料理と同じ話です。人に届かなければ意味がない」
「……でも酷い発表になるくらいだったら」
「その方がいくらもいい。どんな酷い発表になろうが、これきりで人生が終わるわけではありませんから。失敗は挑戦につきものでございます」

私が一度め、鶏の天ぷらを炭にしてしまった時と同じ言葉だった。国見さんへ向けたものなのに、私の胸はじーんと熱くなってくる。

江本さんはこれを自ら実践していたわけだ。だから、どれだけ失敗しようとも、看板作りのために筆を握った。

「今日のとり天は、佐田さんが揚げてくれました。昨日は失敗しましたが、それでも今日はほぼ完璧な加減でございました。自分にはできないと決めつけ、やっていなかったなら今日の成功はなかったでしょう」
「わ、私のことはいいですから!」

嬉しがるべきか、恥ずかしがるべきか。でも揶揄うようではなかったから素直に褒めてもらえたと受け取っていいのだろう。

「もちろん、強制はいたしません。発表するしないはあなたご自身でお決めください。でも、失敗を過度に怖がるのはおすすめいたしません、とそういうことでございます」

国見さんはそれをじっと聞いていた。拳を固め涙を堪えているのかと思えば、頭を大きく振り上げる。

「…………やりたいです、発表」

乱れた髪の毛の合間から覗いた目に宿っていたのは、闘志ともいえそうなものだった。江本さんは納得したように小さく息を吐いて、彼女にUSBを返す。先輩から後輩へ、バトンが受け継がれた瞬間だった。

「……ほな、江本。今日はもう帰るわ」

ずっと教え子二人の様子を黙って見ていた坂倉教授は、ここで口を開く。人差し指でクロスを組んだ。おあいその合図だ。

「国見の論文発表に付き合ってやらなあかんからなぁ。今日ばかりは酔っとる場合ちゃうな」
「いいんですか、教授!」
「あぁ。そらぁ、国見の発表は俺も楽しみにしとるからな」

事が綺麗に収まろうとしていた。
私はようやく昨日の江本さんの態度を合点する。彼は、国見さんが偽りを言っていることばかりか、その本心では「発表してみたい」と思っていることまで、早くから見抜いていたのだ。だから私が頼もうとも、頑なに自分が登壇することを否定したのだろう。

国見さんは、退店するまで何度も私たちにお礼を述べた。結果を報告します、と私に連絡先まで教えてくれる。
そんなやりとりの横で、

「ほな、気向いたらまたくるわ」

教授と江本さんは、別れの挨拶、手をがっちり握り合う。

「次は僕を変な使い方しないでいただけると幸いです」
「ははっ、江本はほんま食えん奴やなぁ」

なにの話だろう。教師と生徒の関係でしか通じ合えない話なのかもしれない。
ぼんやり思っていたら、教授は私と江本さんを見比べ思案顔で顎に手をやる。

「江本は食えんけど、食う側かもしれへんな。ははっ」

意味は、残念なことに分かってしまった。ちょっと「食われている」イメージが浮かびかけるのを頭を振って払う。江本さんは、珍しく顔を歪めていた。それから金色の髪をしきりに目下へ伸ばす。
いわば言葉の爆弾だった。置き逃げ魔は、ふんふん鼻歌を口ずさんで陽気に去っていく。

「す、すいません! 変なこと言って! 悪気はないんです」

たぶん、坂倉教授はどこにでも撒いてくる無差別犯だ。ならば、国見さんは爆弾処理班とも言えるかもしれない。

「でも、私もお二人はお似合いだと思いますよ! 東京に来ることあったら、また来ますね!」

ただ、コードを切り間違えてしまう新人だった。第二の爆発事故がどーんと起きて後の祭りのお店に残されるのは二人きりだ。

どくどくと心臓が鳴る。噂されるだけで意識してしまうなんて中学生までだと思っていたら、とんでもない。倍近い年齢になっても、照れてしまうものみたい。

話題を変えなければ、今にどうにかなりそうだ。

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