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二章 とり天
二章 とり天(5)
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四
次の日、開店の一時間前、五時に『郷土料理屋・いち』へ行くと、料理の匂いではなく絵具の匂いが漂っていた。
なにかと思えば、江本さんがホールの床にしゃがみ、筆を振るっている。
またしても絵はぐにゃんと歪んでいた。局所で見ると悪くないが、上から引きで見てみたらバランスが全く取れていない。
「私がやりましょうか?」
そう横にしゃがむと、彼はこちらを一瞥する。
「おはようございます」
形式ばった挨拶をくれたあと、いえ、と彼は断りを入れた。
「お任せしてしまうのはよくありません。やってみなくてはなにごともーー」
その傍らで、ぽたぽたと音がした。
見れば、なんたることか筆先から絵具が滴り、もっとも大事な情報である店名が隠れてしまっていた。
「……江本さん、絵心ない?」
「はい。こればかりは昔から。仕方ありません、次ですね」
彼は、ダメになってしまった絵を丸めればいいものを丁寧に折りたたむ。
新しい画用紙を画板がわりの段ボールの上へ滑らせたはいいが、じっと白紙を眺めるだけだった。
「……この用紙でラストでございます」
「そんなに失敗したんですか! というか、それだけ描こうとしたんんですね」
たしか用紙のストックは三十枚近くあったはずだ。
「時間があったので」
同じく器用さを要する料理での完璧ぶりを見ているだけに、別人かのようだった。助けてあげたいところだが、私は私で平凡すぎる。私たちを合わせて二で割ったような人がいれば、ちょうどいいんだけど……と、そこで思いついた。
そんな人はいなくても、二では割れるではないか。私はパレットに寝ていた太筆に黒の絵具を染み込ませる。
「えい!」
そして、用紙に思い切り撫でつけてやった。
「……佐田さん? なにを」
「血迷ったわけじゃないですよ。私が大枠を描いて、江本さんが細かいところのデザインをするってどうかなと!」
店名を大きく書く。うん、我ながらバランスは悪くない。
「下書きは描かないのですね」
あ、忘れていた。
「だ、大丈夫ですよ! ほら、端っこの方にお料理の絵描いててください!」
「……かしこまりました」
一日一回やらかさないといけない決まりでもあるのだろうか、私は。
いずれにしても、こうなった以上は仕方ない。
全体を見ながら、二人で少しずつ筆を入れていく。
かなり集中していた。
まだ半ばも完成しないところで、はっとした。なにとはなく直感が走ったのだ。ばっとスマホを取り出してみると、時間は五並び。ゾロ目でラッキー、なんて悠長にはしていられない。
「江本さん、あと五分で六時です!! 開店しなきゃ!」
「そうですか。では片付けましょう。佐田さんは、表の準備をしてください」
いつも通り、抑揚のない言いようだった。けれど、絵具をしまう手つきには、焦りが出ていた。規定の配置と違う順序に入れてしまったのだろう、パズルをするみたいに入れ替えている。
「は、はい!」
私は、テーブル席に垂らしてあったのれんをひっ掴むと、腰巻に結んでいたキーケースを手にする。
店の合鍵をもらっていたのだ。万が一があったときのため、とのことだったが、こうも早く使う機会くるとは思わなかった。緊急時とはいえ、使えるのは、なんだか嬉しい。
これで外に開店待ちの人がいれば最高なのだけど。
そう思いつつ戸を引いて、本当に出くわした。
「おぉ、やっと開くんか。待っとったで」「……こんばんは」
坂倉教授と国見さんだった。
次の日、開店の一時間前、五時に『郷土料理屋・いち』へ行くと、料理の匂いではなく絵具の匂いが漂っていた。
なにかと思えば、江本さんがホールの床にしゃがみ、筆を振るっている。
またしても絵はぐにゃんと歪んでいた。局所で見ると悪くないが、上から引きで見てみたらバランスが全く取れていない。
「私がやりましょうか?」
そう横にしゃがむと、彼はこちらを一瞥する。
「おはようございます」
形式ばった挨拶をくれたあと、いえ、と彼は断りを入れた。
「お任せしてしまうのはよくありません。やってみなくてはなにごともーー」
その傍らで、ぽたぽたと音がした。
見れば、なんたることか筆先から絵具が滴り、もっとも大事な情報である店名が隠れてしまっていた。
「……江本さん、絵心ない?」
「はい。こればかりは昔から。仕方ありません、次ですね」
彼は、ダメになってしまった絵を丸めればいいものを丁寧に折りたたむ。
新しい画用紙を画板がわりの段ボールの上へ滑らせたはいいが、じっと白紙を眺めるだけだった。
「……この用紙でラストでございます」
「そんなに失敗したんですか! というか、それだけ描こうとしたんんですね」
たしか用紙のストックは三十枚近くあったはずだ。
「時間があったので」
同じく器用さを要する料理での完璧ぶりを見ているだけに、別人かのようだった。助けてあげたいところだが、私は私で平凡すぎる。私たちを合わせて二で割ったような人がいれば、ちょうどいいんだけど……と、そこで思いついた。
そんな人はいなくても、二では割れるではないか。私はパレットに寝ていた太筆に黒の絵具を染み込ませる。
「えい!」
そして、用紙に思い切り撫でつけてやった。
「……佐田さん? なにを」
「血迷ったわけじゃないですよ。私が大枠を描いて、江本さんが細かいところのデザインをするってどうかなと!」
店名を大きく書く。うん、我ながらバランスは悪くない。
「下書きは描かないのですね」
あ、忘れていた。
「だ、大丈夫ですよ! ほら、端っこの方にお料理の絵描いててください!」
「……かしこまりました」
一日一回やらかさないといけない決まりでもあるのだろうか、私は。
いずれにしても、こうなった以上は仕方ない。
全体を見ながら、二人で少しずつ筆を入れていく。
かなり集中していた。
まだ半ばも完成しないところで、はっとした。なにとはなく直感が走ったのだ。ばっとスマホを取り出してみると、時間は五並び。ゾロ目でラッキー、なんて悠長にはしていられない。
「江本さん、あと五分で六時です!! 開店しなきゃ!」
「そうですか。では片付けましょう。佐田さんは、表の準備をしてください」
いつも通り、抑揚のない言いようだった。けれど、絵具をしまう手つきには、焦りが出ていた。規定の配置と違う順序に入れてしまったのだろう、パズルをするみたいに入れ替えている。
「は、はい!」
私は、テーブル席に垂らしてあったのれんをひっ掴むと、腰巻に結んでいたキーケースを手にする。
店の合鍵をもらっていたのだ。万が一があったときのため、とのことだったが、こうも早く使う機会くるとは思わなかった。緊急時とはいえ、使えるのは、なんだか嬉しい。
これで外に開店待ちの人がいれば最高なのだけど。
そう思いつつ戸を引いて、本当に出くわした。
「おぉ、やっと開くんか。待っとったで」「……こんばんは」
坂倉教授と国見さんだった。
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