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第2章:鳥の羽ばたく、海の彼方へ
A seabird in the sky
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カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
薄闇の部屋を見回すが、セイジの姿はない。いつ帰ったのか気づかなかった。
痛みと熱で夜中に何度か目が醒めた。瞼を開いて、視界にセイジの姿を認める度に安堵を覚えてまた眠りにつく。その繰り返しの一夜だった。
まどろみの中、時折汗を拭いてくれた手ぬぐいの冷たさが心地よかった。
手を伸ばしてカーテンを開くと、歪みの多い窓の向こうを海鳥が滑空している。
ぼんやりと空を眺めていると、階下から階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
足音は聞きなれた梅子のそれよりも重い。
「先生? 起きていますか」
声はやはりセイジだった。散々寝姿を見られた後だが、中弥は寝間着の襟元を合わせなおし、手櫛で髪を整えた。
「ああ、今起きたところだ」
「入りますね」
セイジは何故か着流し姿だった。目の下にクマができていることを申し訳なく思う。
「良かった、顔色がよくなってますね」
「おかげさまで。一晩中いてくれたんだな、ありがとう」
「大事な先生のためですから。朝食、どうしますか? ここで食べます?」
「病人じゃあるまいし、寝床で飯はないだろ。着替えて下に降りるよ。おまえ、その着物、どうしたんだ?」
水浅黄に流水の柄は見覚えがあるものだ。セイジは、西洋風の仕草でくるりと回り、胸に手を当てて一礼して見せた。
「梅子ちゃんが、昨日と同じ服は嫌だろうからって叔父様の着物を貸してくれたんです。似合ってますか?」
「似合ってるよ。丈もぴったりだな」
「本当は先生の着物をお借りしたかったんですけど、サイズが合わなさそうだったので」
「おまえ、何気なく俺の身長が低いって言わなかったか」
「言いませんよ。先生は今の体形が素敵です」
軽口を叩きながら、セイジは箪笥から着替えの着物を出してくれた。茶館なので日中は洋装を着ていたいのだが、この脚ではズボンを履くのも難儀だ。
立つのは平気だし、そろそろとなら歩けるが、足を大きく踏み出そうとすると痛みが走る。茶館はしばらく休むしかなさそうだ。
「着替えるの、お手伝いします」
「着付け、できるのか」
「さっき梅子ちゃんに教わりました」
地頭も感も良いなのだろう。普通は一回で会得できるものではないのに、セイジは器用に長襦袢の腰紐を結んでいる。
「先生、どうして俺を部屋に入れてくれたんですか?」
「何の話だ?」
「梅子ちゃんから、先生は他人を部屋には入れないと聞いたので」
答えに詰まって、中弥は室内を見回した。書籍の詰まった本棚や壁に飾った絵や古地図。机や棚には、古道具屋や蚤の市で買い集めた雑貨や置物、絵皿なんかを細々と並べている。
自分の趣味と思想の塊。部屋を見られることは、心の中を見られるようで嫌だった。
そのはずなのに、セイジがこの部屋に入ることには何の躊躇いも感じなかった。
躊躇いどころか、彼がここにいることをごく自然に感じたのだ。
前世の、征次の記憶があるからだろうか。優しく情熱的に中弥を愛した男の記憶が。
そこまで考えて、中弥ははたと気づく。
思えば最近は夢を見ていない。あんなにも頻繁に見ていたのに。
いつからだ?
「先生?」
襦袢の袖を着物の袖に入れ込みながら、セイジは怪訝そうに首を傾げた。
「すみません、おかしな質問をしてしまって。答えなくてもいいですから」
そうだ、セイジと出会ってから。あの日以来、征次の夢を見ていない。
「悪い、うまく説明できない。ただ、おまえならいいと思ったんだ。側にいてくれて、すごく安心した。ありがとう」
なんとか言葉を紡ぐと、袖を操っていたセイジの動きがぴたりと止まった。
「……っ」
「どうした?」
「せん、せい」
「セイジ?」
呻くように中弥を呼んだセイジは、奥歯を噛み締めている。
宙に浮いた手は躊躇うように何度か空気を掴んでから、やがて中弥の腰に回ってきた。
そのまま強く抱き寄せられ、腕の中にすっぽりと納まってしまう。
いつもつけている柑橘系のコロンの香りは夜の間に飛んでいて、樟脳に混じって今はセイジ自身の肌の匂いがする。
「……セイ、ジ」
「……先生、すみません。少しだけ、このままで」
触れ合った胸元の鼓動がうるさい。首筋にかかる息は驚くほど熱い。
首筋に柔らかいものが触れて、それが唇なのだとすぐに分かって、中弥は身体を震わせた。
耳朶のすぐ下、敏感な皮膚を強く吸われてその刺激にまた震える。
「セイジ、やめろ」
「先生、キスをしてもいいですか」
「おまえ、人の話を聞いてないだろ」
「してもいいですか?」
「いつもは聞かずにするくせに」
甘い雰囲気をどうにかしたくて茶化すように言うと、セイジは腕の力を脱いた。
安心したのも束の間、セイジは中弥を見おろすと指先で唇をなぞった。
「そうじゃなくて、ここに」
普段他人に触られることがない部分だ。感触を確かめるように何度もなぞられ、音声を発することができない。
「5秒待ちます。逃げるなら、5秒以内に」
囁く声の切なさに眩暈がする。
目の前で、色素の薄い睫毛が震えている。その繊細な震えは何故かさっき見た鳥を思い出させた。自由に空を飛んでいた、美しい白い鳥の羽ばたき。そうだ、俺は、セイジのことが。
中弥は逃げなかった。代わりに、指先でセイジの羽織の袖を摘まんだ。
初めてのキスは、ダージリンの香りがした。
それは触れるだけの優しい口づけであった。
ただ触れているだけなのに、自分が何かこれまでとは違うものに作り変えられる心地がする。中弥は目を閉じてその奇妙な感覚に身を委ねた。
気が遠くなるほど長いキスを終えると、セイジはようやく中弥を解放した。
「どうしよう、中毒になりそうです」
真顔で頭の悪いことを言うセイジの頬は上気している。
「理性を総動員して舌入れるの我慢してました」
更に恥ずかしいことを言い出す教え子に、中弥は枕を投げつけた。
「そういうことを口に出すな! ほら、もういいからさっさと下に降りよう。あんまり遅いと梅子が心配する。今度こそ、肩を貸してくれよ」
漂う甘い空気と羞恥に耐え切れず、中弥は早口で言う。一方のセイジは、キャッチした枕を抱えたままもじもじしている。
「すみません、ちょっと落ち着くまで待ってください」
「落ち着くって何が……あ」
察した。
「……すみません。でも、先生のせいです」
「人のせいにするな。円周率でも数えろ」
「5桁しか知らないので素数にします」
真面目に返すセイジがおかしくて、中弥は痛みを忘れて笑った。
薄闇の部屋を見回すが、セイジの姿はない。いつ帰ったのか気づかなかった。
痛みと熱で夜中に何度か目が醒めた。瞼を開いて、視界にセイジの姿を認める度に安堵を覚えてまた眠りにつく。その繰り返しの一夜だった。
まどろみの中、時折汗を拭いてくれた手ぬぐいの冷たさが心地よかった。
手を伸ばしてカーテンを開くと、歪みの多い窓の向こうを海鳥が滑空している。
ぼんやりと空を眺めていると、階下から階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
足音は聞きなれた梅子のそれよりも重い。
「先生? 起きていますか」
声はやはりセイジだった。散々寝姿を見られた後だが、中弥は寝間着の襟元を合わせなおし、手櫛で髪を整えた。
「ああ、今起きたところだ」
「入りますね」
セイジは何故か着流し姿だった。目の下にクマができていることを申し訳なく思う。
「良かった、顔色がよくなってますね」
「おかげさまで。一晩中いてくれたんだな、ありがとう」
「大事な先生のためですから。朝食、どうしますか? ここで食べます?」
「病人じゃあるまいし、寝床で飯はないだろ。着替えて下に降りるよ。おまえ、その着物、どうしたんだ?」
水浅黄に流水の柄は見覚えがあるものだ。セイジは、西洋風の仕草でくるりと回り、胸に手を当てて一礼して見せた。
「梅子ちゃんが、昨日と同じ服は嫌だろうからって叔父様の着物を貸してくれたんです。似合ってますか?」
「似合ってるよ。丈もぴったりだな」
「本当は先生の着物をお借りしたかったんですけど、サイズが合わなさそうだったので」
「おまえ、何気なく俺の身長が低いって言わなかったか」
「言いませんよ。先生は今の体形が素敵です」
軽口を叩きながら、セイジは箪笥から着替えの着物を出してくれた。茶館なので日中は洋装を着ていたいのだが、この脚ではズボンを履くのも難儀だ。
立つのは平気だし、そろそろとなら歩けるが、足を大きく踏み出そうとすると痛みが走る。茶館はしばらく休むしかなさそうだ。
「着替えるの、お手伝いします」
「着付け、できるのか」
「さっき梅子ちゃんに教わりました」
地頭も感も良いなのだろう。普通は一回で会得できるものではないのに、セイジは器用に長襦袢の腰紐を結んでいる。
「先生、どうして俺を部屋に入れてくれたんですか?」
「何の話だ?」
「梅子ちゃんから、先生は他人を部屋には入れないと聞いたので」
答えに詰まって、中弥は室内を見回した。書籍の詰まった本棚や壁に飾った絵や古地図。机や棚には、古道具屋や蚤の市で買い集めた雑貨や置物、絵皿なんかを細々と並べている。
自分の趣味と思想の塊。部屋を見られることは、心の中を見られるようで嫌だった。
そのはずなのに、セイジがこの部屋に入ることには何の躊躇いも感じなかった。
躊躇いどころか、彼がここにいることをごく自然に感じたのだ。
前世の、征次の記憶があるからだろうか。優しく情熱的に中弥を愛した男の記憶が。
そこまで考えて、中弥ははたと気づく。
思えば最近は夢を見ていない。あんなにも頻繁に見ていたのに。
いつからだ?
「先生?」
襦袢の袖を着物の袖に入れ込みながら、セイジは怪訝そうに首を傾げた。
「すみません、おかしな質問をしてしまって。答えなくてもいいですから」
そうだ、セイジと出会ってから。あの日以来、征次の夢を見ていない。
「悪い、うまく説明できない。ただ、おまえならいいと思ったんだ。側にいてくれて、すごく安心した。ありがとう」
なんとか言葉を紡ぐと、袖を操っていたセイジの動きがぴたりと止まった。
「……っ」
「どうした?」
「せん、せい」
「セイジ?」
呻くように中弥を呼んだセイジは、奥歯を噛み締めている。
宙に浮いた手は躊躇うように何度か空気を掴んでから、やがて中弥の腰に回ってきた。
そのまま強く抱き寄せられ、腕の中にすっぽりと納まってしまう。
いつもつけている柑橘系のコロンの香りは夜の間に飛んでいて、樟脳に混じって今はセイジ自身の肌の匂いがする。
「……セイ、ジ」
「……先生、すみません。少しだけ、このままで」
触れ合った胸元の鼓動がうるさい。首筋にかかる息は驚くほど熱い。
首筋に柔らかいものが触れて、それが唇なのだとすぐに分かって、中弥は身体を震わせた。
耳朶のすぐ下、敏感な皮膚を強く吸われてその刺激にまた震える。
「セイジ、やめろ」
「先生、キスをしてもいいですか」
「おまえ、人の話を聞いてないだろ」
「してもいいですか?」
「いつもは聞かずにするくせに」
甘い雰囲気をどうにかしたくて茶化すように言うと、セイジは腕の力を脱いた。
安心したのも束の間、セイジは中弥を見おろすと指先で唇をなぞった。
「そうじゃなくて、ここに」
普段他人に触られることがない部分だ。感触を確かめるように何度もなぞられ、音声を発することができない。
「5秒待ちます。逃げるなら、5秒以内に」
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目の前で、色素の薄い睫毛が震えている。その繊細な震えは何故かさっき見た鳥を思い出させた。自由に空を飛んでいた、美しい白い鳥の羽ばたき。そうだ、俺は、セイジのことが。
中弥は逃げなかった。代わりに、指先でセイジの羽織の袖を摘まんだ。
初めてのキスは、ダージリンの香りがした。
それは触れるだけの優しい口づけであった。
ただ触れているだけなのに、自分が何かこれまでとは違うものに作り変えられる心地がする。中弥は目を閉じてその奇妙な感覚に身を委ねた。
気が遠くなるほど長いキスを終えると、セイジはようやく中弥を解放した。
「どうしよう、中毒になりそうです」
真顔で頭の悪いことを言うセイジの頬は上気している。
「理性を総動員して舌入れるの我慢してました」
更に恥ずかしいことを言い出す教え子に、中弥は枕を投げつけた。
「そういうことを口に出すな! ほら、もういいからさっさと下に降りよう。あんまり遅いと梅子が心配する。今度こそ、肩を貸してくれよ」
漂う甘い空気と羞恥に耐え切れず、中弥は早口で言う。一方のセイジは、キャッチした枕を抱えたままもじもじしている。
「すみません、ちょっと落ち着くまで待ってください」
「落ち着くって何が……あ」
察した。
「……すみません。でも、先生のせいです」
「人のせいにするな。円周率でも数えろ」
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