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第2章:鳥の羽ばたく、海の彼方へ
Pie & Kiss
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控えめに言ってもセイジは優秀な生徒だった。
当初は所詮お坊ちゃんの遊学程度だろうと高を括っていたのだが、元々素養がある上に勉強熱心だ。特に日本語への熱意は中弥も引くほどだ。
単調な漢字の書き取りも覚えられるまで何度も繰り返しているし、日本語に堪能な友達がいるとかで、四字熟語やことわざの語彙も着々と増やしている。
3時間の授業を終えた後は、サンルームでお茶とケーキを頂く。
頻繁にお相伴に預かるのは悪いと思っていたのだが、セイジはこのティータイムを楽しみにしているらしく、毎回茶葉や菓子に趣向を凝らしている。今日のお茶請けは夏らしいレモン・パイだった。
「日本語って同じ言葉を繰り返すことが多いですよね。人々とか、それぞれとか」
ケーキを取り分けてくれながら、セイジが言った。断面に覗くピールの黄色が鮮やかだ。
「アジアの言語は音の繰り返しが多いみたいだよ」
「そうなんですね。父から、先生は何か国語も操れると聞きました。どうやって習得したんですか?」
「神戸は外国人が多いだろ。子供同士で遊んでるうちになんとなく覚えたんだよ。と言っても、母語レベルで使えるのは英語だけで、中国語やフランス語は日常会話程度。君の日本語と同じレベルだよ。あ、このパイ美味しい。爽やかで甘酸っぱい」
「お口にあって良かったです。ちなみに俺の今のお気に入りの言葉は、悲喜交々と死屍累々です」
あんまりなチョイスに中弥は笑った。そんな言葉、どこで覚えてくるのだろう。
勿論言葉の意味は知っているが、中弥とて自分の口に出したことはない。
「発音のリズムが面白いじゃないですか。こもごもとか、るいるいって。何だか動物の鳴き声みたいです」
「言われてみれば響きだけは可愛らしいな。残念ながら、日常会話ではあまり使う機会がないけれど」
「使ってみたかったのに」
「特に後者は使うことがない方が幸せだろう」
「それもそうですね。あ、でも「この恐怖小説は死屍累々な場面が多いよ」とかだったら使えますよね」
セイジは大真面目に例文を考えているが、不自然すぎる。そんな喋り方をする18歳日本男子はいない。
「日常会話でそんな言い方はしないよ」
「日本語は、辞書に載っているのに現実では使わない言葉が多すぎます」
セイジは肩をすくめると、中弥を見てくすりと笑った。
「どうした?」
「先生、またパイの欠片がついています」
「え、あ、悪い」
「取りますよ」
パイは美味いのだが、何度食べても食べ方が難しい。
セイジはフォーク一本で綺麗に食べるのに、中弥の皿ははらはらとパイ皮が零れ散っている。
セイジの指が伸びてきて唇の端を撫でていく。みっともない話だが、この年下の男の子に口元を拭われることにも慣れてしまった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「このパイもセイジが作ったのか?」
「はい。焼菓子は分量さえ守れば案外簡単ですから」
「これって、うちでも作れるのかな。梅子が西洋菓子にはまっていて、上手く作れたものは茶館でも出しているんだ。まだ、クッキーやビスケットくらいだけど」
セイジは少し考えてから、「お教えすれば作ることはできると思いますが、お店で出すのはちょっと」と言った。珍しく歯切れが悪い。
中弥はパイを見つめて、ああそうかとすぐに思い当たった。
「材料費か」
「はい。パイは砂糖やバターを大量に使うんです。商品として売り出すにはコストがかかりすぎるし、材料の入手自体も手間ですよね」
「確かに。さすが実業家のご子息だ」
「からかわないでください」
褒めたつもりだったが、セイジは嫌そうな顔をする。
セイジは実家の恩恵を十分に享受しているくせに、グレナリー氏の息子という肩書きを嫌っている。そういう意固地さは十代の子供らしい。
「パイは無理ですけど、もっと簡単に作れるお菓子だったら、いくつか教えましょうか?」
「いいのか?」
「勿論。先生のお願いなら何だって叶えます」
戯言はスルーして中弥は手帳のカレンダーを開いた。
「じゃあ、今週の日曜日はどうかな。定休日だし、通訳や翻訳の仕事も入れていないから」
「では日曜の午後に伺いますね」
「ありがとう」
「お礼にはキスを所望します」
セイジは紅茶の湯気越しにいたずらっぽい視線を送ってくる。
「却下する」
「口とは言いませんよ。頬でいいですから」
「それなら、いつもしてるだろ」
セイジは別れの挨拶だと言って、いつも帰り際に頬にキスをしてくる。
外国人でも男同士でそんな挨拶はしないと分かっているが、断るとセイジは悲しそうな顔をするし、正直嫌ではないので毎回受け入れている。
「だから、たまには先生からしてください」
「後払いなら考えてもいい」
「前払いです」
セイジは立ち上がると、中弥の横に回り込み、床に片膝をついた。
きらきら光る大きな瞳で見上げてくる。
「駄目ですか?」
顔面を武器に使うのは反則だと思う。セイジのちょっと情けなさそうな顔には弱いのだ。
中弥は拒絶するのを諦める。
「せめて目を閉じてくれないか」
「嫌です。先生の顔が見えなくなるじゃないですか」
注文が多い生徒だ。
流石に見られながらは無理なので、中弥は自分の左手でセイジの目元を覆った。右手で前髪をかき上げ、腰をかがめて額に口づける。セイジの首元からはコロンの爽やかな香りがした。緊張で胸が痛いほどだ。
そうするつもりはなかったのに、唇が額に触れるとちゅっと音が立った。
「これで我慢して」
頬はハードルが高すぎる。両手を離して距離を取ると、緊張に次いで羞恥が襲ってくる。
セイジはふらりと立ち上がると、椅子に戻って突っ伏した。珍しく行儀の悪い姿勢だ。
「セイジ? どうした?」
声をかけると、セイジは伏せたまま吐息を漏らした。
「どうしよう。めちゃめちゃ嬉しいです」
焦げ茶の髪から覗く耳は真っ赤に染まっていた。
当初は所詮お坊ちゃんの遊学程度だろうと高を括っていたのだが、元々素養がある上に勉強熱心だ。特に日本語への熱意は中弥も引くほどだ。
単調な漢字の書き取りも覚えられるまで何度も繰り返しているし、日本語に堪能な友達がいるとかで、四字熟語やことわざの語彙も着々と増やしている。
3時間の授業を終えた後は、サンルームでお茶とケーキを頂く。
頻繁にお相伴に預かるのは悪いと思っていたのだが、セイジはこのティータイムを楽しみにしているらしく、毎回茶葉や菓子に趣向を凝らしている。今日のお茶請けは夏らしいレモン・パイだった。
「日本語って同じ言葉を繰り返すことが多いですよね。人々とか、それぞれとか」
ケーキを取り分けてくれながら、セイジが言った。断面に覗くピールの黄色が鮮やかだ。
「アジアの言語は音の繰り返しが多いみたいだよ」
「そうなんですね。父から、先生は何か国語も操れると聞きました。どうやって習得したんですか?」
「神戸は外国人が多いだろ。子供同士で遊んでるうちになんとなく覚えたんだよ。と言っても、母語レベルで使えるのは英語だけで、中国語やフランス語は日常会話程度。君の日本語と同じレベルだよ。あ、このパイ美味しい。爽やかで甘酸っぱい」
「お口にあって良かったです。ちなみに俺の今のお気に入りの言葉は、悲喜交々と死屍累々です」
あんまりなチョイスに中弥は笑った。そんな言葉、どこで覚えてくるのだろう。
勿論言葉の意味は知っているが、中弥とて自分の口に出したことはない。
「発音のリズムが面白いじゃないですか。こもごもとか、るいるいって。何だか動物の鳴き声みたいです」
「言われてみれば響きだけは可愛らしいな。残念ながら、日常会話ではあまり使う機会がないけれど」
「使ってみたかったのに」
「特に後者は使うことがない方が幸せだろう」
「それもそうですね。あ、でも「この恐怖小説は死屍累々な場面が多いよ」とかだったら使えますよね」
セイジは大真面目に例文を考えているが、不自然すぎる。そんな喋り方をする18歳日本男子はいない。
「日常会話でそんな言い方はしないよ」
「日本語は、辞書に載っているのに現実では使わない言葉が多すぎます」
セイジは肩をすくめると、中弥を見てくすりと笑った。
「どうした?」
「先生、またパイの欠片がついています」
「え、あ、悪い」
「取りますよ」
パイは美味いのだが、何度食べても食べ方が難しい。
セイジはフォーク一本で綺麗に食べるのに、中弥の皿ははらはらとパイ皮が零れ散っている。
セイジの指が伸びてきて唇の端を撫でていく。みっともない話だが、この年下の男の子に口元を拭われることにも慣れてしまった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「このパイもセイジが作ったのか?」
「はい。焼菓子は分量さえ守れば案外簡単ですから」
「これって、うちでも作れるのかな。梅子が西洋菓子にはまっていて、上手く作れたものは茶館でも出しているんだ。まだ、クッキーやビスケットくらいだけど」
セイジは少し考えてから、「お教えすれば作ることはできると思いますが、お店で出すのはちょっと」と言った。珍しく歯切れが悪い。
中弥はパイを見つめて、ああそうかとすぐに思い当たった。
「材料費か」
「はい。パイは砂糖やバターを大量に使うんです。商品として売り出すにはコストがかかりすぎるし、材料の入手自体も手間ですよね」
「確かに。さすが実業家のご子息だ」
「からかわないでください」
褒めたつもりだったが、セイジは嫌そうな顔をする。
セイジは実家の恩恵を十分に享受しているくせに、グレナリー氏の息子という肩書きを嫌っている。そういう意固地さは十代の子供らしい。
「パイは無理ですけど、もっと簡単に作れるお菓子だったら、いくつか教えましょうか?」
「いいのか?」
「勿論。先生のお願いなら何だって叶えます」
戯言はスルーして中弥は手帳のカレンダーを開いた。
「じゃあ、今週の日曜日はどうかな。定休日だし、通訳や翻訳の仕事も入れていないから」
「では日曜の午後に伺いますね」
「ありがとう」
「お礼にはキスを所望します」
セイジは紅茶の湯気越しにいたずらっぽい視線を送ってくる。
「却下する」
「口とは言いませんよ。頬でいいですから」
「それなら、いつもしてるだろ」
セイジは別れの挨拶だと言って、いつも帰り際に頬にキスをしてくる。
外国人でも男同士でそんな挨拶はしないと分かっているが、断るとセイジは悲しそうな顔をするし、正直嫌ではないので毎回受け入れている。
「だから、たまには先生からしてください」
「後払いなら考えてもいい」
「前払いです」
セイジは立ち上がると、中弥の横に回り込み、床に片膝をついた。
きらきら光る大きな瞳で見上げてくる。
「駄目ですか?」
顔面を武器に使うのは反則だと思う。セイジのちょっと情けなさそうな顔には弱いのだ。
中弥は拒絶するのを諦める。
「せめて目を閉じてくれないか」
「嫌です。先生の顔が見えなくなるじゃないですか」
注文が多い生徒だ。
流石に見られながらは無理なので、中弥は自分の左手でセイジの目元を覆った。右手で前髪をかき上げ、腰をかがめて額に口づける。セイジの首元からはコロンの爽やかな香りがした。緊張で胸が痛いほどだ。
そうするつもりはなかったのに、唇が額に触れるとちゅっと音が立った。
「これで我慢して」
頬はハードルが高すぎる。両手を離して距離を取ると、緊張に次いで羞恥が襲ってくる。
セイジはふらりと立ち上がると、椅子に戻って突っ伏した。珍しく行儀の悪い姿勢だ。
「セイジ? どうした?」
声をかけると、セイジは伏せたまま吐息を漏らした。
「どうしよう。めちゃめちゃ嬉しいです」
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