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第2章:鳥の羽ばたく、海の彼方へ
Jealousy
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甘露茶館の朝一番の客はいつも水田だ。
常連の水田は毎朝開店10分後にやってきて、紅茶を一杯嗜んでから仕事場に行く。
今日もそろそろかなとお湯を沸かし始めたタイミングで、水田がやって来た。
「おはようございます、水田先生。いらっしゃいませ」
出迎えると、水田は和服の裾を払ってから「おはよう、中弥君」と挨拶を返した。
水田はいつもカウンター席に座る。窓際の席の方が海が望めて気持ち良いのだが、中弥の手作業を見るのが好きなのだという。
「いつものお茶でよろしいですか?」
「うん、お願いするよ」
中弥は沸騰したポットとティーカップを温め、棚からセイロンの茶缶を取り出す。
水田はまだ若いが西洋医学の医師で、父親と二人で医院を切り盛りしている。
中弥も梅子も健康優良児なので水田医院にかかったことはないのだが、柔和ですらりと背が高く、眼鏡姿が知的な水田は、ご婦人からも子供からも人気だという。
輸入量が増えてきているとはいえ、珈琲や紅茶はまだまだ高価だ。毎日、外の店で紅茶を飲んでから出勤するなんて優雅な生活だと思う。
水田は紅茶を一口飲んで、「うん、美味いよ。ありがとう」と褒めた。
紅茶は温度にも時間にも気を遣う。水田は舌が肥えているので、毎回緊張の一瞬だ。
「良かったです」
「梅子ちゃん、今日のビスケット、いい出来だね」
最近、梅子は西洋菓子の習得に力を入れていて、出来の良いものは飲み物と一緒に客にサービスしている。声をかけらえた梅子はぴょんと飛び上がった。
「嬉しい、ありがとうございます!」
「こら梅子。店内で飛び跳ねるな」
「ごめんなさーい」
「ははっ、賑やかでいいね」
水田は穏やかに笑うと、思い出したかのように胸ポケットを探った。
「時に中弥君。患者さんから多聞座の切符を2枚譲りうけたんだけど、良かったら一緒にどうかな?」
多聞座は湊川神社にある人気の芝居小屋だ。魅力的な誘いだっだが、中弥は首を振った。
「すみません。いつもお誘いいただいて申し訳ないのですが、お客様と外で会うのは叔父から禁じられているので」
「やっぱり駄目か、残念」
「水田先生なら、一緒に行ってくださる女性が沢山いるんじゃないですか?」
「残念ながら、僕には婚約者がいるからね。今は遠方にいるんだが、女性を誘って妙な噂が伝わると良くないから」
水田は切符をしまうと、それ以上は食い下がらずに紅茶を啜った。
来客を告げるベルが鳴り、梅子が軽やかなステップで扉に向かう。
「いらっしゃいませ! えっ……きゃあ!」
梅子の甲高い叫び声に何事かと入り口を見やると、新たな客はセイジだった。
真っ赤になって口を押えている梅子を困ったように見ている。
「あの、すみません。俺、何か驚かせましたか?」
「え、えっと、だって……どうしよう!」
「梅子、いいから下がって」
ひとりで興奮している梅子を店の奥へ押しやり、中弥はセイジを見上げた。
「セイジ。どうしたんだ?」
「先生の働いているところが見たくて来てみたんですが、迷惑でしたか? あの子、俺を見るなり叫び出すし」
「いや、大丈夫。お客様は大歓迎だよ。彼女はちょっと、賑やかすぎる子なんだ」
窓際の席に案内してメニューを渡すが、セイジはメニューを開きもせずに、「中弥さんが一番好きなものをください」と即答した。
「どういう注文だよ」
「好きな人が好きなものを知りたいって思うのは、自然なことでしょう?」
「いくら英語だからって、もうちょっと発言を慎んでくれ」
「ちゃんとボリュームを落としています」
「そういう問題じゃない」
「それに俺、日本語のメニューはあんまり読めないです」
「あ、そうか。ごめん。ええと、じゃあ、珈琲でいいかな」
「お願いします」
伝票を切ってカウンターに戻ると、梅子に従業員用スペースに引きずり込まれた。
「梅子? どうした?」
梅子はまだ興奮していて、「カッコいい!」と無声音で叫んだ。
「何あれ何あれ。倉橋様なのに倉橋様じゃない! 若いししゅっとしてるし洋装だし、倉橋様より素敵!」
それは夢の中の征次に失礼ではなかろうか。
中弥はため息をついて、店の方を指さした。
「分かったから、仕事に戻ってくれ。注文は珈琲だよ」
「ねえ、もう付き合っちゃいなよ。そうしなよ」
全然話を聞いていない。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ」
「ねえ、さっき倉橋様と……じゃない、セイジさんと何を話してたの? 英語だから分からなかったんだけど」
「挨拶だけだよ」
好きな人の好きなものを云々など話したら、この娘は更に興奮して職場を放棄しそうだ。
「ほら、働かないなら給金を差っ引くぞ」
「はあい!」
梅子はようやく動き出して、珈琲豆の袋を手に取った。
「中弥君、お勘定をお願いできるかな」
「はい、ありがとうございます。2銭頂戴いたします」
「ご馳走様」
水田は財布を仕舞うと、内緒ごとをするように顔を近づけた。
「水田先生?」
「芝居の件、気が変わったらいつでも連絡して。叔父上には僕が話をするから」
「はい、ありがとうございます」
中弥の叔父は中々の色男で、昔、客のひとりと外で会ったことが他の女性客の耳に入り一悶着あったのだ。叔父のルールは絶対なので連絡するつもりはなかったが、丁寧に礼を言って水田を送り出した。
煎れたての珈琲を出すと、セイジは何故だか不機嫌そうだった。
「ごめん、待たせちゃったな」
「そんなことないです、ありがとうございます。ねえ先生、さっきの男性は誰ですか?」
「常連さんだよ。山本通にある水田医院って知らないかな。そこの先生だよ」
「芝居がどうとか聞こえましたけど」
「耳がいいんだな。患者さんから切符や商品券をよく頂くらしくて、芝居や食事に誘ってくれるんだ」
それを聞くと、セイジは益々眉をひそめた。ハンサムな子の不機嫌顔は迫力がある。
「一緒に行ったんですか、芝居や食事」
「行かないよ。セイジ、何か怒ってるのか?」
「怒りますよ。好きな人が別の男に誘われてるんですから」
「馬鹿だな」
見当違いの方向に嫉妬しているのがおかしくて、中弥は笑った。他のお客さんがいなかったので、セイジの向かいの席に座る。
「水田先生はただの常連さんだよ。先生には婚約者がいらっしゃるそうだし、君が心配するようなことは何もないよ」
「婚約者って、その話、本当ですか?」
「嘘をつく必要なんてないだろう」
「だけどあの男、あからさまに先生のことをいやらしい目で見てました」
今日のセイジはやけに絡んでくる。
「君の目が曇っているだけだろう。水田先生は良いお客さんだよ。よく知らない人のことを無闇に悪く言うものじゃない」
「……分かりました」
流石に口がすぎるだろう。強めに叱ると、セイジは大人しくなって珈琲を啜った。
その様子は落ち込んだ大型犬のようで、思わずセイジの頭に手を伸ばす。焦げ茶色の髪は整髪料でしっとりとしている。
「先生?」
「ん? ああ、ごめん。なんだか犬みたいで」
「犬って……ペット扱いですか」
「ふふ」
拗ねる様子が可愛くて、柔らかい髪を指先で撫で梳いた。
常連の水田は毎朝開店10分後にやってきて、紅茶を一杯嗜んでから仕事場に行く。
今日もそろそろかなとお湯を沸かし始めたタイミングで、水田がやって来た。
「おはようございます、水田先生。いらっしゃいませ」
出迎えると、水田は和服の裾を払ってから「おはよう、中弥君」と挨拶を返した。
水田はいつもカウンター席に座る。窓際の席の方が海が望めて気持ち良いのだが、中弥の手作業を見るのが好きなのだという。
「いつものお茶でよろしいですか?」
「うん、お願いするよ」
中弥は沸騰したポットとティーカップを温め、棚からセイロンの茶缶を取り出す。
水田はまだ若いが西洋医学の医師で、父親と二人で医院を切り盛りしている。
中弥も梅子も健康優良児なので水田医院にかかったことはないのだが、柔和ですらりと背が高く、眼鏡姿が知的な水田は、ご婦人からも子供からも人気だという。
輸入量が増えてきているとはいえ、珈琲や紅茶はまだまだ高価だ。毎日、外の店で紅茶を飲んでから出勤するなんて優雅な生活だと思う。
水田は紅茶を一口飲んで、「うん、美味いよ。ありがとう」と褒めた。
紅茶は温度にも時間にも気を遣う。水田は舌が肥えているので、毎回緊張の一瞬だ。
「良かったです」
「梅子ちゃん、今日のビスケット、いい出来だね」
最近、梅子は西洋菓子の習得に力を入れていて、出来の良いものは飲み物と一緒に客にサービスしている。声をかけらえた梅子はぴょんと飛び上がった。
「嬉しい、ありがとうございます!」
「こら梅子。店内で飛び跳ねるな」
「ごめんなさーい」
「ははっ、賑やかでいいね」
水田は穏やかに笑うと、思い出したかのように胸ポケットを探った。
「時に中弥君。患者さんから多聞座の切符を2枚譲りうけたんだけど、良かったら一緒にどうかな?」
多聞座は湊川神社にある人気の芝居小屋だ。魅力的な誘いだっだが、中弥は首を振った。
「すみません。いつもお誘いいただいて申し訳ないのですが、お客様と外で会うのは叔父から禁じられているので」
「やっぱり駄目か、残念」
「水田先生なら、一緒に行ってくださる女性が沢山いるんじゃないですか?」
「残念ながら、僕には婚約者がいるからね。今は遠方にいるんだが、女性を誘って妙な噂が伝わると良くないから」
水田は切符をしまうと、それ以上は食い下がらずに紅茶を啜った。
来客を告げるベルが鳴り、梅子が軽やかなステップで扉に向かう。
「いらっしゃいませ! えっ……きゃあ!」
梅子の甲高い叫び声に何事かと入り口を見やると、新たな客はセイジだった。
真っ赤になって口を押えている梅子を困ったように見ている。
「あの、すみません。俺、何か驚かせましたか?」
「え、えっと、だって……どうしよう!」
「梅子、いいから下がって」
ひとりで興奮している梅子を店の奥へ押しやり、中弥はセイジを見上げた。
「セイジ。どうしたんだ?」
「先生の働いているところが見たくて来てみたんですが、迷惑でしたか? あの子、俺を見るなり叫び出すし」
「いや、大丈夫。お客様は大歓迎だよ。彼女はちょっと、賑やかすぎる子なんだ」
窓際の席に案内してメニューを渡すが、セイジはメニューを開きもせずに、「中弥さんが一番好きなものをください」と即答した。
「どういう注文だよ」
「好きな人が好きなものを知りたいって思うのは、自然なことでしょう?」
「いくら英語だからって、もうちょっと発言を慎んでくれ」
「ちゃんとボリュームを落としています」
「そういう問題じゃない」
「それに俺、日本語のメニューはあんまり読めないです」
「あ、そうか。ごめん。ええと、じゃあ、珈琲でいいかな」
「お願いします」
伝票を切ってカウンターに戻ると、梅子に従業員用スペースに引きずり込まれた。
「梅子? どうした?」
梅子はまだ興奮していて、「カッコいい!」と無声音で叫んだ。
「何あれ何あれ。倉橋様なのに倉橋様じゃない! 若いししゅっとしてるし洋装だし、倉橋様より素敵!」
それは夢の中の征次に失礼ではなかろうか。
中弥はため息をついて、店の方を指さした。
「分かったから、仕事に戻ってくれ。注文は珈琲だよ」
「ねえ、もう付き合っちゃいなよ。そうしなよ」
全然話を聞いていない。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ」
「ねえ、さっき倉橋様と……じゃない、セイジさんと何を話してたの? 英語だから分からなかったんだけど」
「挨拶だけだよ」
好きな人の好きなものを云々など話したら、この娘は更に興奮して職場を放棄しそうだ。
「ほら、働かないなら給金を差っ引くぞ」
「はあい!」
梅子はようやく動き出して、珈琲豆の袋を手に取った。
「中弥君、お勘定をお願いできるかな」
「はい、ありがとうございます。2銭頂戴いたします」
「ご馳走様」
水田は財布を仕舞うと、内緒ごとをするように顔を近づけた。
「水田先生?」
「芝居の件、気が変わったらいつでも連絡して。叔父上には僕が話をするから」
「はい、ありがとうございます」
中弥の叔父は中々の色男で、昔、客のひとりと外で会ったことが他の女性客の耳に入り一悶着あったのだ。叔父のルールは絶対なので連絡するつもりはなかったが、丁寧に礼を言って水田を送り出した。
煎れたての珈琲を出すと、セイジは何故だか不機嫌そうだった。
「ごめん、待たせちゃったな」
「そんなことないです、ありがとうございます。ねえ先生、さっきの男性は誰ですか?」
「常連さんだよ。山本通にある水田医院って知らないかな。そこの先生だよ」
「芝居がどうとか聞こえましたけど」
「耳がいいんだな。患者さんから切符や商品券をよく頂くらしくて、芝居や食事に誘ってくれるんだ」
それを聞くと、セイジは益々眉をひそめた。ハンサムな子の不機嫌顔は迫力がある。
「一緒に行ったんですか、芝居や食事」
「行かないよ。セイジ、何か怒ってるのか?」
「怒りますよ。好きな人が別の男に誘われてるんですから」
「馬鹿だな」
見当違いの方向に嫉妬しているのがおかしくて、中弥は笑った。他のお客さんがいなかったので、セイジの向かいの席に座る。
「水田先生はただの常連さんだよ。先生には婚約者がいらっしゃるそうだし、君が心配するようなことは何もないよ」
「婚約者って、その話、本当ですか?」
「嘘をつく必要なんてないだろう」
「だけどあの男、あからさまに先生のことをいやらしい目で見てました」
今日のセイジはやけに絡んでくる。
「君の目が曇っているだけだろう。水田先生は良いお客さんだよ。よく知らない人のことを無闇に悪く言うものじゃない」
「……分かりました」
流石に口がすぎるだろう。強めに叱ると、セイジは大人しくなって珈琲を啜った。
その様子は落ち込んだ大型犬のようで、思わずセイジの頭に手を伸ばす。焦げ茶色の髪は整髪料でしっとりとしている。
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