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第2章:鳥の羽ばたく、海の彼方へ
Pride and Prejudice
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頬にキスをした時の先生の可愛らしさといったら、どれほど言葉を尽くしても語り切れない。
思い出しては身悶えしてしまうので、セイジは勉強を諦めて散歩に出た。
初夏の昼下がり。外は陽射しが強くて、イチョウは青々と葉を茂らせている。秋にはこの葉がすべて黄色に染まるのだという。楽しみだ。
あてどなく歩いていると、十字路にひときわ美しい二階建ての洋館が現れた。
数年前に加納町に移転してきた外国人社交倶楽部「神戸クラブ」だ。瀟洒な建築は煉瓦作りで、まだ新しい煉瓦は陽の光を受けてきらきら輝いている。
倶楽部では18歳は立派な大人として扱われる。父のお供で何度か来たことがあるので、セイジは気負わずに敷居をくぐった。
室内は落ち着いた雰囲気で、外国人達の様々な香水や整髪料、体臭が混じった独特の匂いがする。セイジにとっては、不快ではない懐かしい匂いだ。
バーでは大人たちが昼間から酒を飲み葉巻をふかしている。それを横目に絨毯敷きの廊下を進み、図書室に入る。
セイジは小説を読むのを好むが、両親ともそのことをよく思っていない。屋敷の本棚に並ぶのは古典か哲学書、実用書ばかりなので、アメリカに住んでいた時から、小説を読むのはいつも図書館だった。
本棚を眺めているジェイン・オースティンの「高慢と偏見」があった。既読の書だが、なんとなく手に取ってソファーに腰を落ち着ける。
小一時間、ひとり静かにページを繰っていると、「やあ、セイジ」と声をかけられた。
見上げると、友人の佐川だ。グレンチェックのスリーピース姿で脇にシェイクスピアの詩集を抱えている。
セイジは立ち上がって握手をし、向かいの席を佐川に勧めた。
「家庭教師を雇ったと聞いたよ」
佐川は、テーブルのコーヒーをちょっと嫌そうな顔で見ると、紅茶を注文した。
佐川の父は英国人実業家だ。佐川は日本人の母の苗字を名乗って日本の戸籍に入っているが、外見にも性格にも英国の血の方が色濃く出ている。
「耳が早いな」
「外国人社会は狭いからね。居留地に住んでいれば、飲んでいるウィスキーの種類までお互い筒抜けだろう」
「俺は酒は飲まない」
「例え話だよ。どうだい? 日本語の勉強の調子は」
「ライティングが一番難しい。漢字っていうのはどうしてあんなに種類が多いんだ。どれもこれも窓みたいだし」
「窓?」
「窓みたいな四角が多いだろう。うちの庭師は黒田と言うんだが、2文字目なんか窓そのものだろう」
「あれは窓じゃなく水田を表してるんだよ。昔の日本には窓なんてなかったらしい」
「そうなのか」
佐川は神戸生まれ神戸育ちで今は神戸商業講習所に通っている。当然日本語はネイティヴだが、漢字の習得は日本人の子供でも難儀するのだと肩をすくめた。
「それで、その難解な日本語を教えてくれるのは、どんな家庭教師なんだ?」
佐川は質問しておきながらさして興味はなさそうだったが、セイジが「美人で可愛い」と答えると、分かりやすく片眉を上げた。
「最高じゃないか。だけど、日本人の女は痩せているし胸が小さいだろう」
「胸はないよ、男だから。告白したら速攻で振られたよ」
途端に、いつも飄々としている佐川が、ハトが豆鉄砲を食ったような顔になった。十数秒かけて平静を取り戻してから、髪をかき上げている。いちいち仕草が面白い男だ。
「情報処理が追い付かん」
佐川は苦虫をかみ潰したように呟いて、他に誰もいないのに声を潜めた。
「君は同性愛者だったのか?」
「どうだろう。あまり考えたことはなかったけど、先生を好きになったってことはそうなのかな」
「そうなのかな、じゃないだろ。大体、男のどこがいいんだ」
「男じゃなくて先生がいいんだよ。泣き顔も笑顔も全部可愛いし、先生が話す日本語はすごく耳障りがいいんだ」
「泣き顔って、君、何をやらかしたんだ」
「何もしてないよ」
初対面でいきなり泣かれたのには驚いたが、思わず抱きしめたい衝動に駆られ、その衝動を抑えるためにずっと拳を握りしめていた。
佐川は優雅な手つきで二杯目の紅茶を注ぎ、疑い深い眼差しを送ってくる。
「何もしなくて大の男が泣くものか。まあ、君には気の毒だが、既に振られたんなら安心だな」
「諦めるつもりはないよ。独り立ちしたら考えてくれるって言われたし」
あの時の先生は、心底困った顔をしていたのに頬は薄く染まっていた。
冗談だろうと笑い飛ばすことも、男同士など気持ち悪いと拒絶することもできたのに、そうしなかった。優しくて嘘がつけない人なのだ。
佐川は組んでいた脚をほどいて、正面からセイジを見た。いつになく真剣な顔つきだ。
「セイジ。誰を好きになろうと君の勝手だが、気をつけろよ」
「分かってる。居留地の噂は千里を走る、だろ」
「分かっているならいい。友達相手に忠告なんて俺の柄じゃないが、ご両親の名誉を辱める真似だけはするな。グレナリー商会の一人息子が跡継ぎを残せないなんて、洒落にならない」
ずくりと胸が痛んだ。嫌な気持ちが腹の底から沸き起こってくる。
「俺が先生に恋をすることが、親の名誉と関わるのか? それに、会社なんて、誰だって能力がある人間が継げばいいことだ」
そう反論したいのに、できなかった。コーヒーを飲んでいるのに、喉が渇いて舌が張り付くようだ。
佐川の言葉はこの社会では真実で、けれどだからこそセイジを傷つけた。
「大体、なんで俺に話したんだよ。秘密事の共犯者なんで御免だよ」
「好きな人のことって、誰かに話したくなるんだな。こんな気持ち、知らなかった」
「君、この期に及んでノロけるなよ。言っておくが、俺は応援はしないからな」
「してくれないのか」
「しないって言ってるんだろ。こら、落ち込んだ犬みたいな顔をするな」
「そんなこと言っても、実際は応援してくれるのが佐川が佐川たる所以だろ。君に話したのは、居留地で一番仲が良いし、信用できるからだよ」
それは正直な気持ちだった。なんだかんだ言っても、佐川はいい奴なのだ。
別れ際、クラブの玄関でパナマ帽をかぶりながら、佐川が尋ねた。
「その先生、なんていう名前なんだ?」
「押領司先生だよ。押領司中弥先生」
思い出しては身悶えしてしまうので、セイジは勉強を諦めて散歩に出た。
初夏の昼下がり。外は陽射しが強くて、イチョウは青々と葉を茂らせている。秋にはこの葉がすべて黄色に染まるのだという。楽しみだ。
あてどなく歩いていると、十字路にひときわ美しい二階建ての洋館が現れた。
数年前に加納町に移転してきた外国人社交倶楽部「神戸クラブ」だ。瀟洒な建築は煉瓦作りで、まだ新しい煉瓦は陽の光を受けてきらきら輝いている。
倶楽部では18歳は立派な大人として扱われる。父のお供で何度か来たことがあるので、セイジは気負わずに敷居をくぐった。
室内は落ち着いた雰囲気で、外国人達の様々な香水や整髪料、体臭が混じった独特の匂いがする。セイジにとっては、不快ではない懐かしい匂いだ。
バーでは大人たちが昼間から酒を飲み葉巻をふかしている。それを横目に絨毯敷きの廊下を進み、図書室に入る。
セイジは小説を読むのを好むが、両親ともそのことをよく思っていない。屋敷の本棚に並ぶのは古典か哲学書、実用書ばかりなので、アメリカに住んでいた時から、小説を読むのはいつも図書館だった。
本棚を眺めているジェイン・オースティンの「高慢と偏見」があった。既読の書だが、なんとなく手に取ってソファーに腰を落ち着ける。
小一時間、ひとり静かにページを繰っていると、「やあ、セイジ」と声をかけられた。
見上げると、友人の佐川だ。グレンチェックのスリーピース姿で脇にシェイクスピアの詩集を抱えている。
セイジは立ち上がって握手をし、向かいの席を佐川に勧めた。
「家庭教師を雇ったと聞いたよ」
佐川は、テーブルのコーヒーをちょっと嫌そうな顔で見ると、紅茶を注文した。
佐川の父は英国人実業家だ。佐川は日本人の母の苗字を名乗って日本の戸籍に入っているが、外見にも性格にも英国の血の方が色濃く出ている。
「耳が早いな」
「外国人社会は狭いからね。居留地に住んでいれば、飲んでいるウィスキーの種類までお互い筒抜けだろう」
「俺は酒は飲まない」
「例え話だよ。どうだい? 日本語の勉強の調子は」
「ライティングが一番難しい。漢字っていうのはどうしてあんなに種類が多いんだ。どれもこれも窓みたいだし」
「窓?」
「窓みたいな四角が多いだろう。うちの庭師は黒田と言うんだが、2文字目なんか窓そのものだろう」
「あれは窓じゃなく水田を表してるんだよ。昔の日本には窓なんてなかったらしい」
「そうなのか」
佐川は神戸生まれ神戸育ちで今は神戸商業講習所に通っている。当然日本語はネイティヴだが、漢字の習得は日本人の子供でも難儀するのだと肩をすくめた。
「それで、その難解な日本語を教えてくれるのは、どんな家庭教師なんだ?」
佐川は質問しておきながらさして興味はなさそうだったが、セイジが「美人で可愛い」と答えると、分かりやすく片眉を上げた。
「最高じゃないか。だけど、日本人の女は痩せているし胸が小さいだろう」
「胸はないよ、男だから。告白したら速攻で振られたよ」
途端に、いつも飄々としている佐川が、ハトが豆鉄砲を食ったような顔になった。十数秒かけて平静を取り戻してから、髪をかき上げている。いちいち仕草が面白い男だ。
「情報処理が追い付かん」
佐川は苦虫をかみ潰したように呟いて、他に誰もいないのに声を潜めた。
「君は同性愛者だったのか?」
「どうだろう。あまり考えたことはなかったけど、先生を好きになったってことはそうなのかな」
「そうなのかな、じゃないだろ。大体、男のどこがいいんだ」
「男じゃなくて先生がいいんだよ。泣き顔も笑顔も全部可愛いし、先生が話す日本語はすごく耳障りがいいんだ」
「泣き顔って、君、何をやらかしたんだ」
「何もしてないよ」
初対面でいきなり泣かれたのには驚いたが、思わず抱きしめたい衝動に駆られ、その衝動を抑えるためにずっと拳を握りしめていた。
佐川は優雅な手つきで二杯目の紅茶を注ぎ、疑い深い眼差しを送ってくる。
「何もしなくて大の男が泣くものか。まあ、君には気の毒だが、既に振られたんなら安心だな」
「諦めるつもりはないよ。独り立ちしたら考えてくれるって言われたし」
あの時の先生は、心底困った顔をしていたのに頬は薄く染まっていた。
冗談だろうと笑い飛ばすことも、男同士など気持ち悪いと拒絶することもできたのに、そうしなかった。優しくて嘘がつけない人なのだ。
佐川は組んでいた脚をほどいて、正面からセイジを見た。いつになく真剣な顔つきだ。
「セイジ。誰を好きになろうと君の勝手だが、気をつけろよ」
「分かってる。居留地の噂は千里を走る、だろ」
「分かっているならいい。友達相手に忠告なんて俺の柄じゃないが、ご両親の名誉を辱める真似だけはするな。グレナリー商会の一人息子が跡継ぎを残せないなんて、洒落にならない」
ずくりと胸が痛んだ。嫌な気持ちが腹の底から沸き起こってくる。
「俺が先生に恋をすることが、親の名誉と関わるのか? それに、会社なんて、誰だって能力がある人間が継げばいいことだ」
そう反論したいのに、できなかった。コーヒーを飲んでいるのに、喉が渇いて舌が張り付くようだ。
佐川の言葉はこの社会では真実で、けれどだからこそセイジを傷つけた。
「大体、なんで俺に話したんだよ。秘密事の共犯者なんで御免だよ」
「好きな人のことって、誰かに話したくなるんだな。こんな気持ち、知らなかった」
「君、この期に及んでノロけるなよ。言っておくが、俺は応援はしないからな」
「してくれないのか」
「しないって言ってるんだろ。こら、落ち込んだ犬みたいな顔をするな」
「そんなこと言っても、実際は応援してくれるのが佐川が佐川たる所以だろ。君に話したのは、居留地で一番仲が良いし、信用できるからだよ」
それは正直な気持ちだった。なんだかんだ言っても、佐川はいい奴なのだ。
別れ際、クラブの玄関でパナマ帽をかぶりながら、佐川が尋ねた。
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「押領司先生だよ。押領司中弥先生」
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