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第2章:鳥の羽ばたく、海の彼方へ
Call me Seiji.
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***
「梅子。おまえは超能力者か?」
店に戻るなり開口一番詰め寄る中弥に、店じまいをしていた梅子は怪訝な顔をした。
「どうしたのよ、いきなり」
「梅子の言ったとおりだった」
「何の話?」
「グレナリー商会の息子、征次だった」
一呼吸置いて、梅子はえええ?と大声を上げた。両手で頬を押さえて、脚をじたばたさせている。
「嘘! そんなことって! やだ、どうしましょう」
梅子の慌てっぷりが面白くて、中弥は笑った。
きつく締めていたタイを緩めて、水で喉を潤す。屋敷を出てから興奮治まらず街中を歩き回ったので、汗を掻いていた。
「別にどうもしないよ」
「どうもしないって、だって、前世の恋人よ? 運命の再会とはまさにこのことじゃない」
「再会も何も、あいつは何も覚えていなかったよ」
「……そう、なんだ」
梅子は表情を曇らせ、それでもとりなすように続けた。
「でも、確かに征次さんだったんでしょ」
「うん。記憶と同じ顔だった。髪は茶色で背広姿だったけどな」
記憶の中の征次の服装と髪型を脳内変換しているのだろう。数秒の沈黙を経て、梅子はまた大きな声を出した。
「そんなの絶対カッコいいじゃない!」
「うん。カッコよかったよ」
「「カッコよかったよ」って、それだけ?」
中弥の口調を真似て問い質してくる。
「それだけって?」
「また恋に落ちたのって聞いてるのよ」
中弥はグラスを洗って食器棚に戻した。棚に並ぶ色とりどりのティーカップに向かって答える。
「……落ちないよ」
「本当に?」
「本当に」
中弥は短く答えて戸棚を閉めた。
喜びでも悲しみでもない。
知らない感情が沸き上がってきて、溢れ出て、零れた。
どうして自分が泣いてしまったのか、歩きながらずっと考えていたが、ちっとも分からなかった。
あんなのは初めてだった。
会いたかったわけじゃない。会いたくなかったわけでもない。
「……なんなんだ、これ」
胸がざわつく。水を飲んだばかりなのに、また喉が渇く。
「中弥君? 大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。少し疲れたから、上に上がるよ。帳簿合わせは部屋でやっておく」
梅子は、現金を納めた金庫の鍵と売上票を差し出し、控えめに言った。
「中弥君。私、はしゃぎすぎちゃってごめんね。でも、前のこととか除いても、家庭教師の仕事、楽しくできるといいね」
「俺、梅子のそういう前向きなところ、いいと思ってるよ」
「やあだ、中弥君。私は好きな人がいるんだから、惚れないでよね」
「子供がませたこと言うんじゃないよ」
「子供じゃありません! 16歳なんて、お嫁に行く子だっているんだから」
梅子はいーっと歯を出して見せ、店の明かりを落とした。
***
恋に落ちるも何も、今のセイジは18歳で6つも年下だ。おまけに雇い主の息子である。
「先日はみっともないところを見せて申し訳なかった。これ、ありがとう」
家庭教師1日目。洗濯してアイロンを当てたハンカチを差し出したが、セイジは受け取らなかった。
「差し上げますよ」
「どうして」
資産家の息子である。一度他人が使ったものなど使えないということだろうか。
新品を買うことも考えたが、イニシャルが刺繍された絹製のハンカチの代替を見つけるのは難しかった。
ハンカチを持った手が宙を彷徨う。セイジはハンカチを取り上げると、中弥のジャケットのポケットに差し入れた。
「持っていてください。そうしてほしいんです」
セイジが微笑む。外国育ちの青年は年齢よりも随分大人びて見える。
「やっぱり、新しいのを買ってくるべきだったか」
「そういう意味じゃありませんよ。ハンカチのことはもういいですから、勉強を始めましょう」
セイジはそう言って、中弥のために椅子を引いてくれる。いちいち仕草が欧米流だ。
セイジはこの5月に高校を卒業したばかりで、1年間、日本で見聞を広めてから大学に進学するのだという。アメリカらしい、贅沢でスケールの大きい話だ。
教えるのは日本語と日本史。日本史は歴史書を元に嚙み砕いて説明していくとして、問題は日本語だ。
日本人に英語やフランス語を教えたことはあるが、外国人に日本語を教えるのは初めてだ。
「セイ…失礼。まずは、ミスター・グレナリーの日本語のレベルを確かめようか」
そう切り出すと、セイジは思い切り眉をひそめた。
「ミスター・グレナリーはやめてくれませんか。父を呼ばれているような気分です」
「そうか。じゃあ、ミスター・グレナリー・ジュニア?」
「もっとやめてください」
「ジュニアだけ?」
「一番嫌です」
声が大きくなった。本気で嫌がっている様は子供っぽくて少し可愛い。
「普通にセイジって呼んでください」
「分かった。からかって悪かったよ」
「いえ。俺も、貴方のことを中弥と呼んでいいですか?」
「駄目」
「どうして」
「俺は家庭教師で君は生徒。日本ではそういう関係の場合、ファーストネームは使わないんだよ。押領司さんか、押領司先生と呼ぶように」
「オウ、リョウ、ジ。発音しづらいです」
「母音が多い発音に慣れるのも勉強だよ、頑張って」
セイジは仮名と簡単な感じは読み書きできるし、日常会話程度の日本語も話せるとのことだった。
「じゃあ、今から文章を読むからよく聞いて、どういう意味だったか説明してみて」
中弥は持参した今日の新聞の一部を読み上げた。
「大阪新報の発行停止。大阪新報第百七十三号は治安に妨害ありと認められ自今発行を停止し未配布の分発売頒布を禁する旨を其筋より達せられたり」
案の定、セイジはきょとんとしている。
「え、今の日本語ですか?」
「日本語だよ。全く分からなかった?」
「最初の、大阪新聞の発行が停止されたというところは分かりました」
「発行が停止された理由は?」
尋ねると、セイジはすぐに「分かりませんでした」と答えた。
素直で良い。勉強には素直が一番だ。
「うん、いいよ」
いくつかの新聞記事や書籍の一部でテストし、セイジの日本語の語彙・文章力は10歳前後程度だと判じた。
家庭教師は週3回2時間ずつ。その日は、セイジの目標を聞きながら、使うテキストと今後一か月の学習計画を決めて終わった。
「じゃあ、次は明後日だね。できれば、テキストの最初の5ページを読んでおいて」
「はい。ね、先生。時間があったら、お茶を飲んで行きませんか?」
「いや、遠慮しておくよ。俺も次の授業の準備をしないと」
断ると、セイジは目に見えて肩を落としている。しゅんとした様子が叱られた大型犬のようだ。
大人びて紳士然としているのに、表情がよく変わるのが見ていて面白い。
夢の中の征次は、こんな表情をすることはなかった。当たり前だが、違う人間なのだ。
「菓子もあるのか?」
聞いてやると、今度はぱっと顔を上げて、「あります!」と大きな声を出す。
「じゃあ、お相伴に預かろうかな」
「すぐ用意します」
セイジは足早に部屋を出ていく。その後ろ姿に尻尾が見えた気がした。
「梅子。おまえは超能力者か?」
店に戻るなり開口一番詰め寄る中弥に、店じまいをしていた梅子は怪訝な顔をした。
「どうしたのよ、いきなり」
「梅子の言ったとおりだった」
「何の話?」
「グレナリー商会の息子、征次だった」
一呼吸置いて、梅子はえええ?と大声を上げた。両手で頬を押さえて、脚をじたばたさせている。
「嘘! そんなことって! やだ、どうしましょう」
梅子の慌てっぷりが面白くて、中弥は笑った。
きつく締めていたタイを緩めて、水で喉を潤す。屋敷を出てから興奮治まらず街中を歩き回ったので、汗を掻いていた。
「別にどうもしないよ」
「どうもしないって、だって、前世の恋人よ? 運命の再会とはまさにこのことじゃない」
「再会も何も、あいつは何も覚えていなかったよ」
「……そう、なんだ」
梅子は表情を曇らせ、それでもとりなすように続けた。
「でも、確かに征次さんだったんでしょ」
「うん。記憶と同じ顔だった。髪は茶色で背広姿だったけどな」
記憶の中の征次の服装と髪型を脳内変換しているのだろう。数秒の沈黙を経て、梅子はまた大きな声を出した。
「そんなの絶対カッコいいじゃない!」
「うん。カッコよかったよ」
「「カッコよかったよ」って、それだけ?」
中弥の口調を真似て問い質してくる。
「それだけって?」
「また恋に落ちたのって聞いてるのよ」
中弥はグラスを洗って食器棚に戻した。棚に並ぶ色とりどりのティーカップに向かって答える。
「……落ちないよ」
「本当に?」
「本当に」
中弥は短く答えて戸棚を閉めた。
喜びでも悲しみでもない。
知らない感情が沸き上がってきて、溢れ出て、零れた。
どうして自分が泣いてしまったのか、歩きながらずっと考えていたが、ちっとも分からなかった。
あんなのは初めてだった。
会いたかったわけじゃない。会いたくなかったわけでもない。
「……なんなんだ、これ」
胸がざわつく。水を飲んだばかりなのに、また喉が渇く。
「中弥君? 大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。少し疲れたから、上に上がるよ。帳簿合わせは部屋でやっておく」
梅子は、現金を納めた金庫の鍵と売上票を差し出し、控えめに言った。
「中弥君。私、はしゃぎすぎちゃってごめんね。でも、前のこととか除いても、家庭教師の仕事、楽しくできるといいね」
「俺、梅子のそういう前向きなところ、いいと思ってるよ」
「やあだ、中弥君。私は好きな人がいるんだから、惚れないでよね」
「子供がませたこと言うんじゃないよ」
「子供じゃありません! 16歳なんて、お嫁に行く子だっているんだから」
梅子はいーっと歯を出して見せ、店の明かりを落とした。
***
恋に落ちるも何も、今のセイジは18歳で6つも年下だ。おまけに雇い主の息子である。
「先日はみっともないところを見せて申し訳なかった。これ、ありがとう」
家庭教師1日目。洗濯してアイロンを当てたハンカチを差し出したが、セイジは受け取らなかった。
「差し上げますよ」
「どうして」
資産家の息子である。一度他人が使ったものなど使えないということだろうか。
新品を買うことも考えたが、イニシャルが刺繍された絹製のハンカチの代替を見つけるのは難しかった。
ハンカチを持った手が宙を彷徨う。セイジはハンカチを取り上げると、中弥のジャケットのポケットに差し入れた。
「持っていてください。そうしてほしいんです」
セイジが微笑む。外国育ちの青年は年齢よりも随分大人びて見える。
「やっぱり、新しいのを買ってくるべきだったか」
「そういう意味じゃありませんよ。ハンカチのことはもういいですから、勉強を始めましょう」
セイジはそう言って、中弥のために椅子を引いてくれる。いちいち仕草が欧米流だ。
セイジはこの5月に高校を卒業したばかりで、1年間、日本で見聞を広めてから大学に進学するのだという。アメリカらしい、贅沢でスケールの大きい話だ。
教えるのは日本語と日本史。日本史は歴史書を元に嚙み砕いて説明していくとして、問題は日本語だ。
日本人に英語やフランス語を教えたことはあるが、外国人に日本語を教えるのは初めてだ。
「セイ…失礼。まずは、ミスター・グレナリーの日本語のレベルを確かめようか」
そう切り出すと、セイジは思い切り眉をひそめた。
「ミスター・グレナリーはやめてくれませんか。父を呼ばれているような気分です」
「そうか。じゃあ、ミスター・グレナリー・ジュニア?」
「もっとやめてください」
「ジュニアだけ?」
「一番嫌です」
声が大きくなった。本気で嫌がっている様は子供っぽくて少し可愛い。
「普通にセイジって呼んでください」
「分かった。からかって悪かったよ」
「いえ。俺も、貴方のことを中弥と呼んでいいですか?」
「駄目」
「どうして」
「俺は家庭教師で君は生徒。日本ではそういう関係の場合、ファーストネームは使わないんだよ。押領司さんか、押領司先生と呼ぶように」
「オウ、リョウ、ジ。発音しづらいです」
「母音が多い発音に慣れるのも勉強だよ、頑張って」
セイジは仮名と簡単な感じは読み書きできるし、日常会話程度の日本語も話せるとのことだった。
「じゃあ、今から文章を読むからよく聞いて、どういう意味だったか説明してみて」
中弥は持参した今日の新聞の一部を読み上げた。
「大阪新報の発行停止。大阪新報第百七十三号は治安に妨害ありと認められ自今発行を停止し未配布の分発売頒布を禁する旨を其筋より達せられたり」
案の定、セイジはきょとんとしている。
「え、今の日本語ですか?」
「日本語だよ。全く分からなかった?」
「最初の、大阪新聞の発行が停止されたというところは分かりました」
「発行が停止された理由は?」
尋ねると、セイジはすぐに「分かりませんでした」と答えた。
素直で良い。勉強には素直が一番だ。
「うん、いいよ」
いくつかの新聞記事や書籍の一部でテストし、セイジの日本語の語彙・文章力は10歳前後程度だと判じた。
家庭教師は週3回2時間ずつ。その日は、セイジの目標を聞きながら、使うテキストと今後一か月の学習計画を決めて終わった。
「じゃあ、次は明後日だね。できれば、テキストの最初の5ページを読んでおいて」
「はい。ね、先生。時間があったら、お茶を飲んで行きませんか?」
「いや、遠慮しておくよ。俺も次の授業の準備をしないと」
断ると、セイジは目に見えて肩を落としている。しゅんとした様子が叱られた大型犬のようだ。
大人びて紳士然としているのに、表情がよく変わるのが見ていて面白い。
夢の中の征次は、こんな表情をすることはなかった。当たり前だが、違う人間なのだ。
「菓子もあるのか?」
聞いてやると、今度はぱっと顔を上げて、「あります!」と大きな声を出す。
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