花鳥風月

ナムラケイ

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第1章:花ひらく頃、三条大橋にて

In a blaze

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 その後の日々はまさに蜜月だった。
 甘く優しく激しく。中弥と征次は溺れるように夜ごと互いを求めあった。
 心の痞えが取れたように、中弥は絵の腕を上げた。どの線をどう引いてどの色を乗せれば映えるのか、頭を使うより先に手が動いた。
 先輩のるいから花丸を貰えるようになり、師匠の須磨が「手放すのが惜しいな。いっそあの男を殺してしまおうか」と物騒な冗談を飛ばすまでに。

 そして、二条城の桜が満開に花開いたその日、征次は馬上の人となった。
 二条在番の入れ替わりは春の風物詩だ。江戸を旅立つ在番衆の行列を、京の人々は拍手で見送った。
 溢れかえる見物客の中から、征次は即座に中弥を見つけ出した。
 笠の下で大きな目がやわらかに微笑む。
 それは、征次の思いが全部溢れるような、言葉では言い尽くせないほどの愛に満ちた微笑だった。
 胸に手を当てると、とくとく鳴っている。
 ああ、俺は征次のこの顔を、きっと一生、事あるごとに思い出すんだろうな。
 そう思うと自然に笑顔が零れ出た。征次は口の動きだけで「江戸で待っている」と告げる。
 中弥は頷いて、大きく手を振った。

 そして中弥は、征次の不在を寂しがる暇もないくらい忙しく過ごした。
 受注済の絵の仕事を急ピッチで終わらせ、須磨の目に叶う後任の絵師を見つけ出し、工房のあれこれを引き継いだ。
 長屋を引き払う準備に、通行手形と旅費の工面も必要だった。引っ越し荷物は仕事道具を含めても風呂敷ひとつ分だが、江戸までは多めに見積もると20日はかかるので、宿代や食事代もそれなりに嵩む。
 そうこうしているうちに4月は飛ぶように過ぎていった。
 4月27日、江戸への出立を3日後に控えたその日、友彦がうめやで別れの飯を奢ってくれた。
 普段は好きなことを喋り散らして賑やかなのに、今日はどうしたってしんみりしてしまう。

「寂しくなるなあ」

 大黒柱に背を預け、友彦がぼそりと呟いた。いつも元気で気っ風の良い友彦が切なげな顔つきをするので、中弥は胸が痛くなる。

「今生の別れでもあるまいし」

 そう言ってみるが、気休めにしか過ぎないことは分かっていた。友彦とは二度と会えないかもしれない。
 江戸は遠い。費用を工面して何日も歩き続けてようやく辿り着く場所だ。滅多なことでは行き来することはない。
 江戸から京へ来る時も、もう二度と江戸へ戻ることはないだろうと覚悟していた。

「身体を大事にしろよ、おまえは筆が乗るとすぐ食事を疎かにするから」
「ああ。気を付けるよ」
「あの武士と喧嘩したら、いつでも戻ってこいよ」
「喧嘩をしないようにするよ」
「そうだな。優しくして、優しくしてもらえ」
「そうするよ」

 友彦は母のようにいくつもの助言を与え、中弥はそのひとつひとつに頷いた。

「ほら、もっと食べよう。追加で注文するぞ。中弥、何が食べたい? おまえが好きな茄子か?」
「茄子の季節はとっくに終わっただろ」
「そうか。じゃあ、蛸の酢の物なんてどうだ」
「いいな」
「他には、何か食い残したものはないか? うめやのメシもこれで食い納めだろう。心残りがないようにしろよ」
「友彦じゃないんだから、食い物にそこまでの執着はないよ。俺が心残りなのは、おまえの子を抱けないことだけだ」

 そう言うと、調子よく喋っていた友彦は急に口をつぐみ、ぐしゃりと顔を歪ませた。

「っ、おっまえ、前振りなくそういうことを言うなよな」
「でかい図体して泣くなよ」
「泣いてねえよ。ったく、おまえは本当に、急に泣かすようなことを言ってくれる」
「悪い。でも、本当のことだから。友彦」
「おう」
「お藤さんによろしくな。元気な子が産まれることを心から願っている」

 友彦は涙をこぼさないように天井を仰ぐ。そして、上を向いたまま言った。

「あー、くそ。不本意だけど、おまえは本当に、マジで最高の友だよ」


 最後だから特別だと言って、店主の守蔵は閉店後も二人のために酒を出してくれた。
 夜明け前に、吹き込む風の冷たさに目が覚めた。
 身を起こして目をこする。横では、仰向けになった友彦が盛大にいびきをかいている。
 昔話をしながら日付が変わるまで酒を酌み交わし、2階の座敷でそのまま雑魚寝をしてしまったのだ。
 まだ酒が残っていて、頭が重い。
 水をもらおうと階下に降りる。窓越しに外を見ると、京の街は異世界のように青に包まれている。
 透明で清冽で、けれどどこか温かい青。いつか、こんな青を描いてみたい。
 建付けの悪い木戸が音を立てている。春の嵐だろうか。今日は風が強い。
 外を眺めながらぼんやりと柄杓に口をつけていると、嗅ぎなれない匂いが鼻をついた。

「なんだ?」

 香ばしいような焦げるような、何かが燃えるような匂い。
 燃える? まさか。
 中弥は柄杓を投げ捨て木戸を開く。外に飛び出すと、すぐ近くの平屋から煙が立ち昇っていた。
 現実とは思えない光景に息を飲んでいると、黒煙の中から、ぶわりと大きな炎が翻った。
 彼岸の光のような、鮮やかな朱。美しいのに、恐ろしい光。
 竦みそうになる脚を無理矢理動かして室内に戻り、台所の奥の部屋で寝ているお梅を叩き起こした。

「ん、中弥くん? なに?」

 寝ぼけるお梅の身体を無理矢理引き起こし、大声で告げる。

「お梅、火事だ! 走って外に逃げろ!」

 お梅が頷くのを確認してから、二階へ続く階段に向かう。木戸にはもう火が燃え移っていた。
 一瞬前まではまだ遠くに見えたのにもう飛び火している。風が強い分、火の回りが早いのだ。
 中弥が階段を駆け上がるより前に、上から友彦が飛び降りてきた。
 階段を使わずに直に着地した友彦は床の上に転んだがすぐに立ち上がった。

「友彦! 守蔵さんは」
「奥の部屋はもう火の海だ。近づけなかった。行くぞ!」

 早口で言葉を交わす間にも、柱が壁が調度品が火に包まれていく。
 充満する煙で視界が遮られる。

 カンカンカンカン!!
 外ではようやく鳴らされた半鐘が鋭く響いている。

 駆けだす二人の横を、小さな影が横切っていく。
 外に逃げたと思い込んでいたお梅が、階段を駆け上がろうとしていた。

「お梅! 何してる!」

 小さな体を無理矢理抑え込むと、お梅は力の限りに抵抗した。
 普段は大人びて冷静なお梅が、顔を涙と煤でぐちゃぐちゃにしながら喚いている。

「守蔵さんが、まだ上に!」
「お梅、もう無理だ!」
「無理じゃない!」

 中弥だけでは抵抗を抑えきれない。煌々と燃える木戸を叩き壊して退路を作る友彦に叫んだ。

「友彦! お梅を連れてけ!」
「梅! こっちへ来い!」
「嫌っ! 守蔵さんを助ける!」

 駄々をこねるお梅に腹が立って、中弥はその頬をぱしんと両手で挟んだ。
 視線を合わせる。

「お梅。守蔵さんは俺が助ける。だから、先に行け」

 気持ちは分かる。だけど、頼むから言うことを聞いてくれ。
 ありったけの思いを込めて言葉を紡ぐと、お梅はパニックを治めて頷いた。

「……分かった」

 お梅が泣き止んだ瞬間、爆発したように炎が白く輝いた。
 身体をまるごと焼かれるような熱波に、頭上の柱がばちんと大きく燃え爆ぜる。
 二階の床が落ちてくるのが見えて、咄嗟にお梅を身体の中に引き込んだ。床に伏せたのと同時に、焼け焦げた木材が雪崩落ちてくる。
 痛みはなかった。ただ、重い塊に押しつぶされた背中が熱くて苦しくて息が詰まった。脚の感覚がない。まだ脚があるのかも分からなくて、そのことにぞっとする。

「中弥! 大丈夫か、すぐどけてやる!」

 友彦が柱に手をかけようとするが、素手では熱くて触れるものではない。橙色の炎が布を広げたように3人を飲み込んでいく。駄目だ。間に合わない。
 道具を探して炎の中をうろつく友彦に言った。

「友彦。梅を先に逃がせ」

 発した声は自分でも驚くほど冷静だった。
 友彦の逡巡は一瞬だった。咄嗟の判断が早くなくては大工はできない。火事場では男よりも女子供だ。

「すぐに戻る」

 友彦は短く言い置いて、中弥の下からお梅を引きずり出した。抱え上げたお梅の身体を水瓶に突っ込んで引き上げると、炎を突っ切って外に駆けていく。霞む視界に二人の無事を確認して、安堵の溜息が漏れた。
 木戸の向こう側で、こちらに戻ってこようとする友彦の身体を何人もの男達が押さえつけている。友彦は大声で怒鳴っているが、炎が爆ぜる音に遮られて声は届かない。
 助けてくれと叫びたかった。同時に、来るなと叫びたかった。
 友彦はもうすぐ父になる。友より妻子を優先するべきだ。

 肌が熱い。熱気で目が開けていられない。木材の数本くらい自力でどうにかできそうなのに、身体がうまく動かせない。
 自分から焦げ臭い匂いがする。髪が燃えているのかもしれない。

 あ、組紐。

 燃える前に懐に入れようと唯一自由になる右手で項に手を伸ばすが、熱くてどこに触れているのか分からなかった。
 熱さよりも肺の方が痛い。吸いこんだ空気が針みたいに内臓に突き刺さる。
 苦しい。こんなところで死ぬわけにはいかない。死ねるわけがない。
 俺が死んだら、征次はきっと泣くだろう。それは、駄目だ。
 歯を食いしばって、背中に渾身の力を入れた。材木は熱い金属のように背中に張り付いている。両肘を支えに上半身を起こし、燃え続ける床の上をずりりと這った。
 こんなことなら、何もかも放り出して征次と一緒に江戸に行けば良かった。

「征次」

 名を呼びたかったが、もう声は出なかった。
 熱も色も匂いも音も、あれだけうるさかったのに、もう何も感じなかった。

 それが、京の街を焼き尽くした宝永の大火だと知ったのは、ずっと後のことだ。
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