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第1章:花ひらく頃、三条大橋にて
夜の告白
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寝屋の中で絵の被写体となった人達は、男も女も恍惚として身をよがらし嬌声を上げていたから、自分も自然にそうなるものだと思い込んでいた。
なのに。
中弥は情けない気持ちでいっぱいになる。
好いた人に抱かれているというのに、身体の中を暴かれる違和感と圧迫感に耐えられず、出るのは喘ぎではなく呻きばかりで。色気も何もあったもんじゃなかった。
征次だって幻滅したに違いない。
けれど、裸の腹や素足をぴたりと絡め合うのは心地よかったし、征次とひとつに繋がっているのだと思うとそれだけで涙が出た。
征次の腕の中で目覚めた時、身体はどこもかしこも痛くて重いのに、頭は驚くくらいクリアだった。
とても美しいものが描けそうな気がした。
全部忘れて、仕事に没頭しよう。
そう思って意気揚々と二条城を後にしたのに、長屋に辿りつくなり高熱が出た。
風邪とは違う。喉の痛みも咳もくしゃみも鼻水も出ないのに、ただ熱ばかりが出てぐったりする。
新手の病を疑って長屋に住むもぐりの医師が来てくれたが、知恵熱だから寝ていれば治るという。
知恵熱ってなんだ、子供じゃあるまいしと思ったが、声を出すのも億劫で眠り続けた。
長い夢を見た。
夢の中の中弥と征次はどこか違う時代の違う国で一緒に暮らしていた。二人ともずっと笑っていて。ただただ幸せな夢だったはずなのに、目が覚めた時にはほとんど覚えていなかった。
目覚めたら、室内は夜の気配に満ちていた。
蝋燭の明かりの中に征次の姿を見つけ、中弥は瞬いた。
部屋の隅で、胡坐を掻いて壁に背をもたせている。中弥の視線に気づいたのか、「大丈夫か?」と小さな声で尋ねた。
頭の痛みも重みも治っている。半身を起こしても倦怠感はなかった。
にじり寄った征次の手が額に触れる。
「熱も引いたみたいだな」
征次が安心したように言う。
肌に触れる布の感触が知らないものだったので暗がりで目を凝らすと、見覚えがある柄だが中弥の着物ではない。
「汗を掻いていたから、着替えさせた。その着物は、長屋の、ほら、背の高いおかみさんがいるだろう。彼女がご子息のもの貸してくれた」
「おきみさん」
「そう、おきみと名乗っていた。おまえは、長屋の皆に好かれているんだな」
差し入れを沢山持たせてくれたと征次が蜜柑を見せた。
「食うか? 粥と、あとお梅が持ってきた焼いた握り飯もある。隣の青年は酒を持ってきたが、酒は今はやめておけ。ああ、卵酒にすれば良いのかな」
征次は沈黙を恐れるようによく話した。
中弥は蜜柑に手を伸ばす。指先を皮に差し込むと橙色の香気が立った。
小ぶりの蜜柑は大して甘くはなくて、その水っぽさが渇いた喉には逆に心地よかった。
「どうして長屋に来たんだ?」
尋ねると、征次はようやく少し黙って、それから中弥の手首を指さした。
「忘れ物を届けにきた」
左手を持ち上げると、気持ちと一緒に置いてきたはずの組紐が巻かれている。蜜柑と同じ色の、あの組紐。
「忘れたんじゃなくて、返したんだ」
「これはおまえにあげたものだ。中弥、おまえ、俺の身体を半ば無理矢理奪っておいて勝手にさようならなんて、随分と薄情な男なんだな」
「奪ってなんてない。第一、おまえは俺のものなんかじゃないだろう」
「俺は全部おまえのものだ」
征次があまりに真剣に嘘を吐くので、中弥は薄く笑った。
「薄情なのはどっちだ。江戸に、結婚する相手がいるくせに」
言うつもりはなかった言葉が口から滑り出た。
征次は胡乱な顔になって、距離を詰めた。
「結婚とは何の話だ」
「時子さんと言うのだろう」
「何故彼女のことをおまえが知っている?」
「……どうでもいいだろ、そんなこと」
「佐川か。いや、あいつは無闇にそういう話はしないな。となると、出所は黒井あたりか」
鋭すぎる推測だが、他の誰かに迷惑がかかるのは嫌だったので、中弥は口をつぐんだ。
「まあいい。時子殿は俺の兄上の妻女だ。来月には子供も生まれる」
「……え?」
「時子殿がかつて俺の許嫁であったことは事実だが、家の中で色々と面倒な事情があって、兄上と祝言を上げたのだ。武士が自らの家の事情をべらべらと話すわけにもいかないから、佐川にも話していない。つまり、おまえの勘違いだ」
「勘違い」
「そうだ」
だからと言ってほっとするわけでもなかった。
中弥は京で絵師として生きるし、征次は江戸で武士として生きる。何も変わらない。この先は、もうない。
放心状態で、中弥は3つめの蜜柑に手を伸ばした。その手を征次に握られる。
「もうやめておけ。病み上がりに食いすぎると、腹を壊す」
大人しく蜜柑は諦めたが、征次は手を放さない。
両の手を包み込むように握られた。祈るように。
「中弥。江戸で一緒に暮らそう」
征次が言った。その意味は分かるのに、分からなかった。
「江戸で、俺とおまえの二人で暮らそう。おまえの腕なら、江戸のどこの工房でも雇ってもらえる」
そんな絵空事か現実になればどんなに幸せか。でも。
「無理だ」
「おまえは試してもみずに諦める癖があるな」
「癖とかそんな話じゃないだろ。武士と町人が一緒に暮らすなんて、そんなことできるわけない」
「何故できない」
「身分が違う」
「身分違いで結ばれている者は結構いるぞ。御上に禁止されているわけでもないし、俺は周りの目などどうでもいい。家族のことも心配ない。俺は誰とも結婚しないと家族に宣言している」
手を握る力が強くなる。
「……本当にできるのか、そんなこと」
「難しいことじゃないだろう。俺は江戸に戻る。おまえは仕事の後始末をして江戸に来る。家は俺が整えておくから、おまえはそこに転がり込んでくるだけでいい」
「なんで、そんなこと」
展開について行けずに狼狽していると、ぽんぽんと背中を叩かれた。それから、指先で唇に触れられた。
ふにふにと感触を確かめられ、息が漏れた。
「中弥。俺はおまえが好きなんだ。あの日、三条大橋でおまえに出会ってから、日ごとに思いが募った」
「俺が、誰かに似ているからとかじゃないのか」
ずっと心に燻っていた疑念を口にすると、征次は「違う」と即座に断言した。
「おまえはおまえでしかない。俺が好いているのは、今、俺の目の前にいる中弥だ」
征次の瞳の中には中弥自身が映りこんでいる。征次は緊張した面持ちで中弥の決断を待っている。
上手くいかないかもしれない。駄目になるかもしれない。
正直、怖い。だけど、どんな関係だって駄目になる時は駄目になる。身分や性別を言い訳にして逃げ続けて、その先に何がある。
夜の空気を一呼吸する。握られた手が熱を持つ。薄闇に手首の橙だけが鮮やかだ。
「江戸に行く」
見つめ返して答えると、征次は表情を緩めた。
ありがとうと言って、中弥を抱きしめる。
白檀の香りと征次自身の匂いに包まれてくらりとした。
なのに。
中弥は情けない気持ちでいっぱいになる。
好いた人に抱かれているというのに、身体の中を暴かれる違和感と圧迫感に耐えられず、出るのは喘ぎではなく呻きばかりで。色気も何もあったもんじゃなかった。
征次だって幻滅したに違いない。
けれど、裸の腹や素足をぴたりと絡め合うのは心地よかったし、征次とひとつに繋がっているのだと思うとそれだけで涙が出た。
征次の腕の中で目覚めた時、身体はどこもかしこも痛くて重いのに、頭は驚くくらいクリアだった。
とても美しいものが描けそうな気がした。
全部忘れて、仕事に没頭しよう。
そう思って意気揚々と二条城を後にしたのに、長屋に辿りつくなり高熱が出た。
風邪とは違う。喉の痛みも咳もくしゃみも鼻水も出ないのに、ただ熱ばかりが出てぐったりする。
新手の病を疑って長屋に住むもぐりの医師が来てくれたが、知恵熱だから寝ていれば治るという。
知恵熱ってなんだ、子供じゃあるまいしと思ったが、声を出すのも億劫で眠り続けた。
長い夢を見た。
夢の中の中弥と征次はどこか違う時代の違う国で一緒に暮らしていた。二人ともずっと笑っていて。ただただ幸せな夢だったはずなのに、目が覚めた時にはほとんど覚えていなかった。
目覚めたら、室内は夜の気配に満ちていた。
蝋燭の明かりの中に征次の姿を見つけ、中弥は瞬いた。
部屋の隅で、胡坐を掻いて壁に背をもたせている。中弥の視線に気づいたのか、「大丈夫か?」と小さな声で尋ねた。
頭の痛みも重みも治っている。半身を起こしても倦怠感はなかった。
にじり寄った征次の手が額に触れる。
「熱も引いたみたいだな」
征次が安心したように言う。
肌に触れる布の感触が知らないものだったので暗がりで目を凝らすと、見覚えがある柄だが中弥の着物ではない。
「汗を掻いていたから、着替えさせた。その着物は、長屋の、ほら、背の高いおかみさんがいるだろう。彼女がご子息のもの貸してくれた」
「おきみさん」
「そう、おきみと名乗っていた。おまえは、長屋の皆に好かれているんだな」
差し入れを沢山持たせてくれたと征次が蜜柑を見せた。
「食うか? 粥と、あとお梅が持ってきた焼いた握り飯もある。隣の青年は酒を持ってきたが、酒は今はやめておけ。ああ、卵酒にすれば良いのかな」
征次は沈黙を恐れるようによく話した。
中弥は蜜柑に手を伸ばす。指先を皮に差し込むと橙色の香気が立った。
小ぶりの蜜柑は大して甘くはなくて、その水っぽさが渇いた喉には逆に心地よかった。
「どうして長屋に来たんだ?」
尋ねると、征次はようやく少し黙って、それから中弥の手首を指さした。
「忘れ物を届けにきた」
左手を持ち上げると、気持ちと一緒に置いてきたはずの組紐が巻かれている。蜜柑と同じ色の、あの組紐。
「忘れたんじゃなくて、返したんだ」
「これはおまえにあげたものだ。中弥、おまえ、俺の身体を半ば無理矢理奪っておいて勝手にさようならなんて、随分と薄情な男なんだな」
「奪ってなんてない。第一、おまえは俺のものなんかじゃないだろう」
「俺は全部おまえのものだ」
征次があまりに真剣に嘘を吐くので、中弥は薄く笑った。
「薄情なのはどっちだ。江戸に、結婚する相手がいるくせに」
言うつもりはなかった言葉が口から滑り出た。
征次は胡乱な顔になって、距離を詰めた。
「結婚とは何の話だ」
「時子さんと言うのだろう」
「何故彼女のことをおまえが知っている?」
「……どうでもいいだろ、そんなこと」
「佐川か。いや、あいつは無闇にそういう話はしないな。となると、出所は黒井あたりか」
鋭すぎる推測だが、他の誰かに迷惑がかかるのは嫌だったので、中弥は口をつぐんだ。
「まあいい。時子殿は俺の兄上の妻女だ。来月には子供も生まれる」
「……え?」
「時子殿がかつて俺の許嫁であったことは事実だが、家の中で色々と面倒な事情があって、兄上と祝言を上げたのだ。武士が自らの家の事情をべらべらと話すわけにもいかないから、佐川にも話していない。つまり、おまえの勘違いだ」
「勘違い」
「そうだ」
だからと言ってほっとするわけでもなかった。
中弥は京で絵師として生きるし、征次は江戸で武士として生きる。何も変わらない。この先は、もうない。
放心状態で、中弥は3つめの蜜柑に手を伸ばした。その手を征次に握られる。
「もうやめておけ。病み上がりに食いすぎると、腹を壊す」
大人しく蜜柑は諦めたが、征次は手を放さない。
両の手を包み込むように握られた。祈るように。
「中弥。江戸で一緒に暮らそう」
征次が言った。その意味は分かるのに、分からなかった。
「江戸で、俺とおまえの二人で暮らそう。おまえの腕なら、江戸のどこの工房でも雇ってもらえる」
そんな絵空事か現実になればどんなに幸せか。でも。
「無理だ」
「おまえは試してもみずに諦める癖があるな」
「癖とかそんな話じゃないだろ。武士と町人が一緒に暮らすなんて、そんなことできるわけない」
「何故できない」
「身分が違う」
「身分違いで結ばれている者は結構いるぞ。御上に禁止されているわけでもないし、俺は周りの目などどうでもいい。家族のことも心配ない。俺は誰とも結婚しないと家族に宣言している」
手を握る力が強くなる。
「……本当にできるのか、そんなこと」
「難しいことじゃないだろう。俺は江戸に戻る。おまえは仕事の後始末をして江戸に来る。家は俺が整えておくから、おまえはそこに転がり込んでくるだけでいい」
「なんで、そんなこと」
展開について行けずに狼狽していると、ぽんぽんと背中を叩かれた。それから、指先で唇に触れられた。
ふにふにと感触を確かめられ、息が漏れた。
「中弥。俺はおまえが好きなんだ。あの日、三条大橋でおまえに出会ってから、日ごとに思いが募った」
「俺が、誰かに似ているからとかじゃないのか」
ずっと心に燻っていた疑念を口にすると、征次は「違う」と即座に断言した。
「おまえはおまえでしかない。俺が好いているのは、今、俺の目の前にいる中弥だ」
征次の瞳の中には中弥自身が映りこんでいる。征次は緊張した面持ちで中弥の決断を待っている。
上手くいかないかもしれない。駄目になるかもしれない。
正直、怖い。だけど、どんな関係だって駄目になる時は駄目になる。身分や性別を言い訳にして逃げ続けて、その先に何がある。
夜の空気を一呼吸する。握られた手が熱を持つ。薄闇に手首の橙だけが鮮やかだ。
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見つめ返して答えると、征次は表情を緩めた。
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