花鳥風月

ナムラケイ

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第1章:花ひらく頃、三条大橋にて

白河夜船

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「……は?」

 二条在番組頭の倉橋征次は、朝の寝床で間抜けな声を出した。
 幸福に満ちて眠りに落ちたのに、目覚めたら一人きり。

「中弥?」

 湿り気を残した夜具が切ない。寝起きの寒さに身が震えた。
 枕元。畳の上に残された橙色の組紐が、愛しい人の不在が厠や散歩の類いではないと告げている。

「え、何これ。ヤリ逃げ?」

 生まれてこの方、こんなに心を乱されたことも、ぞんざいに扱われたこともない。
 征次は焦る心をおさえ、火事場の早さで着物を着込んだ。

「おっかあ、お侍さんが走っとうよ」
「捕り物やろか。こら、そんなじろじろ見たらあかんよ」

 母子の会話が風に流れていく。既に陽は高い。
 全力疾走すれば、二条城内の征次の家から須磨の工房までは5分もかからなかった。
「絵師 須磨」と墨で書かれた扉を開き、「御免」と声をかけた。

 京の長屋は鰻の寝床だ。
 張り上げた声に、主の須磨が億劫そうに奥の部屋から出てきた。

「突然申し訳ない。中弥はこちらにいますか?」
「人の弟子をいきなり呼び捨てとは、二条のお城で随分仲良くしていただいたのですね」

 須磨は綿入れの袂を整え、長く伸ばした髪を気だるげに掻き上げた。
 征次は正直、年齢も性別も不詳なこの絵師が苦手だ。話していると、こちらまでアンニュイになりそうなのだ。

「中弥は来ていませんよ」
「火急の用件にて、こちらで待たせていただいても良いでしょうか」
「そちらでの仕事は昨日で終わったはずですが、不具合があったのなら私が伺います」
「いえ、修復は完璧でした。今日は、中弥殿と個人的な話をするために来ました」
「こんなに朝早くからそんなに焦ったご様子で、個人的なお話ですか」
「無礼はお詫びする」

 個人的な用件だと分かると、須磨は態度を変えた。
 不躾な視線で征次の上から下まで値踏みすると、「ああ、ふーん。つまり君か」と呟いた。

「どういう意味でしょうか」

 征次の問いには答えず、須磨は鴨居からぶら下がる絵の一枚を指さした。

「あれは、中弥の作品だ」

 月明かりの中で三味線を弾く女の絵だった。よくあるモチーフなのだろうが、ぞっとするような情念がある。

「中弥は良くも悪くもクールな絵を描く子だったんだけど、近頃急に情のこもった画風になってね。良い人ができたんだろうとは察していたが、相手は君か」

 怖いほどの察しの良さだ。征次は姿勢を正して認めた。

「はい。ご挨拶には二人で改めて伺います」

 二人で、を強調して伝えると、須磨は片眉を上げた。

「中弥(あれ)は良い絵師になる」
「はい」
「失いたくない」
「申し訳ありません」
「つまらない男だな」
「それは、自分が一番よく承知しています」

 禅問答めいたやりとりのあと、須磨は中弥の居場所を教えてくれた。

「三条大橋を越えて西に2間入ったところにある伊助長屋だ。熱を出したので今日は仕事を休むと先ほど手紙を寄越した」
「熱?」

 昨夜の行為のせいだ。丁寧に触れたつもりだったが、どこかを傷つけたのかもしれない。酷使した身体で寒空の下を帰らせてしまった。
 惰眠を貪ってしまったことを悔やむが後の祭りだ。

「あれは俺の秘蔵っ子でね。遊びや酔狂なら行かないでくれ」
「俺は真剣です」
「だろうね。足袋も忘れて駆けてくるほどだから」

 そこで初めて、素足のまま草履を履いていたことに気づいた。走ったので、足の皮が鼻緒ですり切れている。気にせずにまた走り出した。


 ***

 入り組んだ道を迷いに迷って辿り着いた伊助長屋の木戸をくぐると、元気な住民たちに取り囲まれた。
 
「おいおまえ、武士なら筋を通せよ。ぜってええ、中弥のこと泣かせんな」
「ちょいと、お侍さんが看病なんて出来はんの? お粥さん、多めに炊いてるから持っていって」
「中弥さん、蝋燭切らしてるて言うてはったから、これ使おてください。まだまだ乾燥してるから、火の後始末はしっかりしてくださいね」
「あ、そやそや、ついでにこの蜜柑も持っていって。中弥さん、お蜜柑好きやから」

 何をどこまで知っているのか、住民たちは好き勝手な事を好き放題に喋り散らし、中弥の部屋に上がるまでに両腕が差し入れでいっぱいになった。
 小さく薄暗い部屋で、中弥は胎児のように身体を丸めて眠っていた。
 額に触れると確かに熱い。手ぬぐいを濡らして額に置こうとするが、横を向いているので上手くいかない。
 代わりに朝の冷気で冷えた手を当てると、中弥は静かな吐息を漏らした。

 昨夜の中弥はどこかおかしかった。
 妙に苛ついていたし、なのに脅すように誘ってきて。
 震えながら征次を受け入れている時の泣きそうな顔と苦しそうな吐息、抑えきれずに漏れるかすかな悲鳴は、無理をしているのが明らかなのにたまらなく扇情的だった。絵具の滲む指先はずっと畳の上を泳いでいて、だが最後は縋るように征次の肩を掴んでいた。
 布団から除く手の甲には征次の跡が残っている。
 持ってきた組紐を懐から取り出し、その手首に巻き付けた。

 ずっと中弥を探していた。
 いつか必ず再会できると、確証はないが確信していた。
 三条大橋で中弥を見つけた時は、ああやっぱり俺たちはずっと星のさだめの下にあるのだと感激した。
 そして、迷った。
 中弥は征次のことを覚えてはいなくて、昔のことを何をどこまで話すべきか判断がつかなかった。
 気ばかり急いて、中弥と言葉を交わすたびに触れ合うたびに好意が募って抑えられなくて、身勝手なやり方で関係を進めてしまった。その結果がこれだ。
 恋愛偏差値ゼロとはよく言ったものだ。

「中弥。ごめんな」

 中弥の熱で温まった右手を外し、代わりに冷えたままの左手を額に当てる。
 そうして長い間、中弥の寝息を見守っていた。
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