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第1章:花ひらく頃、三条大橋にて
君の半生
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二条城の敷地には、本丸と二の丸のふたつの御殿のほかに、蔵や在番衆の住まいなどの多くの建物が点在している。
中弥の作業場としてあてがわれたのは、木造平屋建ての一室だった。南向きで日当たりが良いので光源は十分だ。
天井画や襖絵はすべて嵌め込み式になっているので、修復を行う部分は番士達が取り外して作業場に搬入してくれた。
絵具や金箔は中弥が注文したとおりに揃えられ、水瓶には、毎日新しく綺麗な水をたっぷり満たしてくれている。さすが御公儀だ。
仕事中は基本的にひとりだが、見張りの者が時々様子を見に来る。
サボってはいないか、絵具をくすねたりしていないかの見回りなのかもしれない。そんなことはする気もないので安心してほしい。
見回りの番士達の様子は様々だった。
窓の格子越しにちらりと見るだけの者もいれば、修復作業が物珍しいのか、土間に上がりこんで長い時間見ていく者もいる。
午後には茶菓の差し入れもしてくれる。有難いことだ。
師匠の須磨は多種多様な仕事を引き受けてくる。文字通り、多種多様だ。
幽霊画や地獄絵なんかは多い方だがそんなのはまだ可愛い方で、拷問や死体の絵なんてのもある。似顔絵の早描き大会の出場を依頼されたこともあるし、女の身体に絵を描いてほしいと言われたこともある。
当然、春画の注文も多い。
それもただ男女の交わりを描くものではなく、女とまぐわっている様子を写生してほしいとか、大人数や同性同士や犬畜生との交わりなど、一方変わった趣味のものが多い。
それに比べれば、静かな作業場で黙々と草木だの花だのに筆を走らせていられるこの仕事は楽なものだ。
お侍なんて堅苦しい奴らばかりだと思いこんでいたけれど、ここの番士達は、気が知れてくると大概気安い人ばかりだった。
「昼だぞ。休憩にしよう」
作業場に差し込む冬の光がより一層強く明るくなった頃、征次が顔を覗かせた。
いつものように、茶瓶と湯呑を載せた盆を持っている。
「組頭が毎日毎日、なんで茶運びなんかしてんだよ」
「息抜きだ。書類仕事と武芸の稽古だけでは肩が凝るのだ。おまえを見ていると飽きないし、楽しい」
「なんだそれ。俺は暇つぶしかよ」
征次は盆を置くと、草履を脱いで板張りの床にあぐらをかいた。
袴が床に擦れ、焚きしめた香がふわりと香る。白檀をすこし甘くしたような良い香りだ。
征次は、絵具を調合する中弥の手元をじっと見つめている。
中弥の手は綺麗ではない。指の長さに比して爪は小さいし、筆だこが目立つし、爪の奥や皮膚に残った絵具が色素沈着を起こしている。それが気恥ずかしかった。
仕事ぶりを人に見られることには慣れているはずなのに、変に意識してしまい、体温が上がった。なんだか緊張する。
「征次。そんなに見つめられるとやりにくいし、近い」
「気にしなくていい。俺のことはそのへんの芋か茄子とでも思っておけ。カボチャでもいい」
「そんな図体のデカい芋があるか」
征次が大真面目に芋だの茄子だの言うのが面白くて、中弥は笑って筆を置いた。
一区切りはついていたので、作業を中断して、昼餉を取ることにする。
前掛けを外し、顔を洗い、乱れた髪をひとつに結びなおし、汚れた手を肘まですすいだ。冬の水は冷たくて、触れるだけで目が覚める。
昼飯は、行きつけの飯屋「うめや」が詰めてくれる弁当を持参している。握り飯と惣菜を竹の皮で包んだだけの簡単なものだ。
握り飯にかぶりつく中弥の横で、征次は茶を飲みながら、修復部の図案の骨書きを手に取って眺めている。
中弥が書き散らした芙蓉の花弁の練習描きだ。和紙に、筆の先だけで描いた細い曲線が幾重にも流れている。
「相変わらず手先が器用だな」
その言いようが不自然で、中弥は握り飯を茶で流し込んだ。
「相変わらずってなんだ? 前も思ったが、征次と俺はどこかで会ってるのか?」
「いや、そうじゃない。言葉を間違えただけだ。忘れてくれ」
「はっきりしねえなあ」
征次は悲しいような諦めのようななんとも言えない顔つきをしている。
気にはなるが、言いたくないのだろうから無理に聞き出すわけにもいかないので、話を変えた。
「メシは食ったのか?」
「この後、番所に戻って食べる」
「なら、さっさと戻って食えよ」
「中弥が食べている姿を見ていたいんだが、迷惑か?」
「迷惑だ」
きっぱり言い放つと、あからさまにしゅんと落ち込んでいる。
「嘘だよ。迷惑ってわけじゃないけど、野郎がメシ食ってるの見て何が楽しいんだ」
「中弥を見ているのは楽しいよ」
「だから、俺は見世物じゃねえって」
わざとらしく大口を開けて握り飯にかぶりつくと、征次は楽しそうに笑った。
大きな瞳を細めた笑顔は、明るくて太陽みたいだ。
「征次は、毎日楽しそうだな」
思わずそう言うと、征次は謙遜することもなく認めた。
「そうだな。在番の仕事を気にいっているし、上司にも部下にも恵まれている。何より、中弥と出会えたからな」
「なんだそれ」
やっぱりおかしな奴だ。
征次は二つの湯呑に茶を注いでから、中弥を真正面から見た。
「中弥は、楽しく毎日を暮らしているか? これまでに、苦しかったり、辛かったりしたことはないか?」
「随分面妖なことを聞くんだな」
「おまえの半生が知りたいんだよ。これまで、どうやって生きてきたのか」
「どうやっても何も、ドラマチックな話は何にもねえよ」
「聞かせてくれ」
「聞かせるような大層な話はないけどな。俺は、江戸の深川で絵師の三男坊として生まれて、何人かの師匠のもとで絵の勉強をして、偶然芝居小屋で見かけた須磨師匠の絵に惚れて、弟子にしてもらうために京に来た。友達は少ないが、気の置けない隣人が1人いるし、長屋はボロだが大家はいい人だ。金はないが食うには困ってねえし、悩みは、そうだな。己の絵師としての腕がまだまだだってことくらいだな」
征次は黙って話を聞いていた。そして、どこか緊張した声で聞いた。
「親しい女性はいないのか?」
「今も昔もいねえよ」
中弥は竹の皮を片付け、あぐらで固くなっていた膝を伸ばして座った。
「俺は色恋には興味がないんだ。男女のあれこれは絵の中だけで腹いっぱいだからな」
エロいのもグロいのも散々見て描かされて、色恋や寝屋の知識だけは博士級だが、中弥には一切そういう経験がない。
正直、経験をしたいとも思っていない。
友彦には童貞だの初心だの冷やかされるが、別に構わなかった。
「そうか」
征次は頷いて膝を寄せてくると、するりと中弥の頬を撫でた。
大きな掌に頬を包まれ、何故か心臓が跳ねる。
甘やかな香に混じって征次自身の匂いがする。なんだか懐かしいような匂いだ。
何をされているわけでもないのに、眩暈がしそうだった。触られた頬が熱い。
「おまえの人生に、苦しみや悲しみがなくて良かった」
征次は慈愛とも言えるようにそれはそれは優しく微笑み、噛み締めるように言った。そして、すっと立ち上がると作業場を出て行った。
「なんだ、これ。顔、あつい…」
熱を持った顔は水瓶で冷やすことができたが、心臓の高鳴りは、昼休憩が終わっても治まらなかった。
中弥の作業場としてあてがわれたのは、木造平屋建ての一室だった。南向きで日当たりが良いので光源は十分だ。
天井画や襖絵はすべて嵌め込み式になっているので、修復を行う部分は番士達が取り外して作業場に搬入してくれた。
絵具や金箔は中弥が注文したとおりに揃えられ、水瓶には、毎日新しく綺麗な水をたっぷり満たしてくれている。さすが御公儀だ。
仕事中は基本的にひとりだが、見張りの者が時々様子を見に来る。
サボってはいないか、絵具をくすねたりしていないかの見回りなのかもしれない。そんなことはする気もないので安心してほしい。
見回りの番士達の様子は様々だった。
窓の格子越しにちらりと見るだけの者もいれば、修復作業が物珍しいのか、土間に上がりこんで長い時間見ていく者もいる。
午後には茶菓の差し入れもしてくれる。有難いことだ。
師匠の須磨は多種多様な仕事を引き受けてくる。文字通り、多種多様だ。
幽霊画や地獄絵なんかは多い方だがそんなのはまだ可愛い方で、拷問や死体の絵なんてのもある。似顔絵の早描き大会の出場を依頼されたこともあるし、女の身体に絵を描いてほしいと言われたこともある。
当然、春画の注文も多い。
それもただ男女の交わりを描くものではなく、女とまぐわっている様子を写生してほしいとか、大人数や同性同士や犬畜生との交わりなど、一方変わった趣味のものが多い。
それに比べれば、静かな作業場で黙々と草木だの花だのに筆を走らせていられるこの仕事は楽なものだ。
お侍なんて堅苦しい奴らばかりだと思いこんでいたけれど、ここの番士達は、気が知れてくると大概気安い人ばかりだった。
「昼だぞ。休憩にしよう」
作業場に差し込む冬の光がより一層強く明るくなった頃、征次が顔を覗かせた。
いつものように、茶瓶と湯呑を載せた盆を持っている。
「組頭が毎日毎日、なんで茶運びなんかしてんだよ」
「息抜きだ。書類仕事と武芸の稽古だけでは肩が凝るのだ。おまえを見ていると飽きないし、楽しい」
「なんだそれ。俺は暇つぶしかよ」
征次は盆を置くと、草履を脱いで板張りの床にあぐらをかいた。
袴が床に擦れ、焚きしめた香がふわりと香る。白檀をすこし甘くしたような良い香りだ。
征次は、絵具を調合する中弥の手元をじっと見つめている。
中弥の手は綺麗ではない。指の長さに比して爪は小さいし、筆だこが目立つし、爪の奥や皮膚に残った絵具が色素沈着を起こしている。それが気恥ずかしかった。
仕事ぶりを人に見られることには慣れているはずなのに、変に意識してしまい、体温が上がった。なんだか緊張する。
「征次。そんなに見つめられるとやりにくいし、近い」
「気にしなくていい。俺のことはそのへんの芋か茄子とでも思っておけ。カボチャでもいい」
「そんな図体のデカい芋があるか」
征次が大真面目に芋だの茄子だの言うのが面白くて、中弥は笑って筆を置いた。
一区切りはついていたので、作業を中断して、昼餉を取ることにする。
前掛けを外し、顔を洗い、乱れた髪をひとつに結びなおし、汚れた手を肘まですすいだ。冬の水は冷たくて、触れるだけで目が覚める。
昼飯は、行きつけの飯屋「うめや」が詰めてくれる弁当を持参している。握り飯と惣菜を竹の皮で包んだだけの簡単なものだ。
握り飯にかぶりつく中弥の横で、征次は茶を飲みながら、修復部の図案の骨書きを手に取って眺めている。
中弥が書き散らした芙蓉の花弁の練習描きだ。和紙に、筆の先だけで描いた細い曲線が幾重にも流れている。
「相変わらず手先が器用だな」
その言いようが不自然で、中弥は握り飯を茶で流し込んだ。
「相変わらずってなんだ? 前も思ったが、征次と俺はどこかで会ってるのか?」
「いや、そうじゃない。言葉を間違えただけだ。忘れてくれ」
「はっきりしねえなあ」
征次は悲しいような諦めのようななんとも言えない顔つきをしている。
気にはなるが、言いたくないのだろうから無理に聞き出すわけにもいかないので、話を変えた。
「メシは食ったのか?」
「この後、番所に戻って食べる」
「なら、さっさと戻って食えよ」
「中弥が食べている姿を見ていたいんだが、迷惑か?」
「迷惑だ」
きっぱり言い放つと、あからさまにしゅんと落ち込んでいる。
「嘘だよ。迷惑ってわけじゃないけど、野郎がメシ食ってるの見て何が楽しいんだ」
「中弥を見ているのは楽しいよ」
「だから、俺は見世物じゃねえって」
わざとらしく大口を開けて握り飯にかぶりつくと、征次は楽しそうに笑った。
大きな瞳を細めた笑顔は、明るくて太陽みたいだ。
「征次は、毎日楽しそうだな」
思わずそう言うと、征次は謙遜することもなく認めた。
「そうだな。在番の仕事を気にいっているし、上司にも部下にも恵まれている。何より、中弥と出会えたからな」
「なんだそれ」
やっぱりおかしな奴だ。
征次は二つの湯呑に茶を注いでから、中弥を真正面から見た。
「中弥は、楽しく毎日を暮らしているか? これまでに、苦しかったり、辛かったりしたことはないか?」
「随分面妖なことを聞くんだな」
「おまえの半生が知りたいんだよ。これまで、どうやって生きてきたのか」
「どうやっても何も、ドラマチックな話は何にもねえよ」
「聞かせてくれ」
「聞かせるような大層な話はないけどな。俺は、江戸の深川で絵師の三男坊として生まれて、何人かの師匠のもとで絵の勉強をして、偶然芝居小屋で見かけた須磨師匠の絵に惚れて、弟子にしてもらうために京に来た。友達は少ないが、気の置けない隣人が1人いるし、長屋はボロだが大家はいい人だ。金はないが食うには困ってねえし、悩みは、そうだな。己の絵師としての腕がまだまだだってことくらいだな」
征次は黙って話を聞いていた。そして、どこか緊張した声で聞いた。
「親しい女性はいないのか?」
「今も昔もいねえよ」
中弥は竹の皮を片付け、あぐらで固くなっていた膝を伸ばして座った。
「俺は色恋には興味がないんだ。男女のあれこれは絵の中だけで腹いっぱいだからな」
エロいのもグロいのも散々見て描かされて、色恋や寝屋の知識だけは博士級だが、中弥には一切そういう経験がない。
正直、経験をしたいとも思っていない。
友彦には童貞だの初心だの冷やかされるが、別に構わなかった。
「そうか」
征次は頷いて膝を寄せてくると、するりと中弥の頬を撫でた。
大きな掌に頬を包まれ、何故か心臓が跳ねる。
甘やかな香に混じって征次自身の匂いがする。なんだか懐かしいような匂いだ。
何をされているわけでもないのに、眩暈がしそうだった。触られた頬が熱い。
「おまえの人生に、苦しみや悲しみがなくて良かった」
征次は慈愛とも言えるようにそれはそれは優しく微笑み、噛み締めるように言った。そして、すっと立ち上がると作業場を出て行った。
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