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第1章:花ひらく頃、三条大橋にて
絵師三人
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話は1週間前に遡る。
中弥が師と仰ぐ町絵師、須磨は四条堀川のはずれに工房を抱えている。
工房といっても、こじんまりとした二階建ての長屋の1階を店舗兼作業場としているだけだ。
おまけに散らかり放題で、板張りの床には紙と絵皿と筆立てが所狭しと並び、天井と階段に張り巡らされた洗濯紐には作業中の絵がずらりと干されている。
工房のメンバーは、主の須磨、一番弟子の女流絵師るい、二番弟子の中弥。繁忙期には手伝いの絵師を雇うこともあるが、基本は3人きりだ。
朝から夕暮れまで、3人銘々にひたすら筆を動かす毎日だ。
「るいさん、見ていただけますか? お茶屋さん用の掛け軸です」
中弥が、下書きを終えた酒呑童子の絵を差し出すと、るいは手を止めて身を起こした。
工房には作業台もあるが、るいは床に這いつくばって描くのを好む。
彼女の手元の和紙では、目元が崩れたお岩が薄く笑っている。そこだけ冷気が漂っているようで、うすら寒くなるほどの出来栄えだ。
るいは目を細めて中弥の絵を観ると、細い指先で宙に丸をひとつ描いた。
るいは口がきけないので、会話は身振りと筆談だ。
丸ひとつは4段階評価の上から二番目。二重丸を貰えたことは、まだない。
中弥は数えで30歳になる。
絵師の家に生まれ、幼少から筆を握っていた。
町絵師としてはそこそこ良い線を行っているのではないかと自負しているが、須磨とるいの前ではまだまだひよっこだ。
色付けにかかろうと、細かく砕いた絵具の粉を湯に溶かしていると、1階で接客をしていた須磨が戻ってきた。
黒の着流しの下から、緋色の襦袢が覗いている。
須磨は男性だが、女物の着物も好む。着崩れて袷は開いているし、伸ばしっぱなしの髪は結んでもおらず背中に流れている。
客の相手をしていたとは思えないだらしのない恰好だ。
行きつけの飯屋の店員お梅が「須磨先生の色気は犯罪レベル」とよく言っているが、中弥には全く理解ができない。
一流なのは腕だけだ。
「新しい注文ですか?」
中弥が尋ねると、須磨は頷いた。
「中弥。おまえ、狩野派は十八番だな」
「はい」
中弥の父は狩野派に属し、幕府の御用絵師だった。御用絵師は、町人ながらその身分は御目見え以下の御家人と同等とされる。
息子の中弥は狩野派の一門には加わらなかったが、父の指南でその技法は身についている。
「二条のお城で、口が堅い絵師を探しているそうだ。障壁画の修復をしたいらしいが、理由あって秘密裡に作業を行いたいらしい。おまえ、行ってくれるか」
須磨の工房にはこの手の訳アリ仕事が多い。というか、寧ろそちらでメシを食っている。
役者や美人画、風景画といったスタンダードな依頼は大手の寡占状態なので、須磨のところには幽霊だの妖怪だの、地獄だの死体だのエログロだののニッチな依頼が多い。
須磨は公序良俗に反するような題材でも快く仕事を受け、例え岡っ引きに問い詰められても仕事の中身を漏らすことがないので、依頼は途絶えることがない。しかし、ご公儀からの依頼というのは珍しい。
正直、乗り気はしない。堅苦しい場所で堅苦しい絵の修復作業など息が詰まること間違いない。
「るいさんではなく、俺ですか。るいさんの方が腕は段違いに良いし、口の固さって意味でもるいさんほど信頼できる人はいないでしょう」
囁かな抵抗を試みるが、「るいは美人だからな。助けも呼べない女を男だらけの城に単身送り込めるか」と一蹴された。
口は聞けないが耳はばっちり聞こえているるいは、反故紙にさらさらと筆を走らせた。
「中弥だって男にしちゃあ美人なんだから、襲われないように気を付けて」
「女のいない城だぞ。何で俺が襲われんだよ」
「衆道は当世の文化なり。坊主と武家には男好きが多い」
るいの文字を読んだ須磨はにやりとし、行儀悪く胡坐をかいた中弥の膝小僧を扇子でぱしぱし叩いた。
「男色の侍がいたとしても、こんな痩せっぽっちで陰キャで口が悪い男に手は出さないだろ。少々顔が良くても、色気がないと勃つものも勃たん。中弥に比べれば、12や13の陰間の方が余程艶がある」
「あの子たちは女より女らしい。陰間に走る殿方の気持ちも分からなくはない」
「俺は分からないなあ。女の方が良いに決まっている。春画も男女物の方が断然描いていて楽しい」
「須磨師匠はどちらでもいけそうなのに」
「お、言ってくれるね」
言いたい放題の師匠と姉弟子である。
「まあ、男だ女だはともかく、色恋は人生の妙だな」
そうまとめて、須磨は扇子を開いた。焚きしめた香木が香る。るいは中弥を流し見て、筆を滑らせた。
「まさに。中弥も色恋を知れば」
しかし、その先は続かなかった。言葉を探すように宙を彷徨った筆はそのまま硯に置かれる。
知ればなんですかと中弥は問いただす。
「知れば、絵が上手くなりますか。俺はそうは思わない。幽霊を見たことがなくても幽霊は描けるし、人を殺したことがなくても人斬りの絵は描けます」
畳みかけると、るいは同意を示すように頷いてから、再び筆を取った。
「いつか、知れば分かる」
るいはそれだけ伝えると、背を向けて幽霊画の続きを描き出す。
まとめあげた黒髪の下の首は細く、背中も小さい。夫を火事で失って、以来ひとりきりの未亡人。
中弥は押し黙った。大切な人を失う悲しみを、俺は知らない。
工房がしんと静かになる。弟子二人のやりとりを傍観していた須磨は、沈んだ空気を断ち切るように、ぱちりと扇子を鳴らした。
「とにかく、来週からだ。必要な道具は向こうで揃えるらしいから、筆だけ持ってゆけ。あ、その酒呑童子は今週中に仕上げるんだぞ」
なんだかんだ言っても、師匠の命令は絶対である。
はいと大人しく頷くと、須磨は「いい子だ。必ず勉強になるから、頑張っておいで」と中弥の頭を撫でた。
中弥が師と仰ぐ町絵師、須磨は四条堀川のはずれに工房を抱えている。
工房といっても、こじんまりとした二階建ての長屋の1階を店舗兼作業場としているだけだ。
おまけに散らかり放題で、板張りの床には紙と絵皿と筆立てが所狭しと並び、天井と階段に張り巡らされた洗濯紐には作業中の絵がずらりと干されている。
工房のメンバーは、主の須磨、一番弟子の女流絵師るい、二番弟子の中弥。繁忙期には手伝いの絵師を雇うこともあるが、基本は3人きりだ。
朝から夕暮れまで、3人銘々にひたすら筆を動かす毎日だ。
「るいさん、見ていただけますか? お茶屋さん用の掛け軸です」
中弥が、下書きを終えた酒呑童子の絵を差し出すと、るいは手を止めて身を起こした。
工房には作業台もあるが、るいは床に這いつくばって描くのを好む。
彼女の手元の和紙では、目元が崩れたお岩が薄く笑っている。そこだけ冷気が漂っているようで、うすら寒くなるほどの出来栄えだ。
るいは目を細めて中弥の絵を観ると、細い指先で宙に丸をひとつ描いた。
るいは口がきけないので、会話は身振りと筆談だ。
丸ひとつは4段階評価の上から二番目。二重丸を貰えたことは、まだない。
中弥は数えで30歳になる。
絵師の家に生まれ、幼少から筆を握っていた。
町絵師としてはそこそこ良い線を行っているのではないかと自負しているが、須磨とるいの前ではまだまだひよっこだ。
色付けにかかろうと、細かく砕いた絵具の粉を湯に溶かしていると、1階で接客をしていた須磨が戻ってきた。
黒の着流しの下から、緋色の襦袢が覗いている。
須磨は男性だが、女物の着物も好む。着崩れて袷は開いているし、伸ばしっぱなしの髪は結んでもおらず背中に流れている。
客の相手をしていたとは思えないだらしのない恰好だ。
行きつけの飯屋の店員お梅が「須磨先生の色気は犯罪レベル」とよく言っているが、中弥には全く理解ができない。
一流なのは腕だけだ。
「新しい注文ですか?」
中弥が尋ねると、須磨は頷いた。
「中弥。おまえ、狩野派は十八番だな」
「はい」
中弥の父は狩野派に属し、幕府の御用絵師だった。御用絵師は、町人ながらその身分は御目見え以下の御家人と同等とされる。
息子の中弥は狩野派の一門には加わらなかったが、父の指南でその技法は身についている。
「二条のお城で、口が堅い絵師を探しているそうだ。障壁画の修復をしたいらしいが、理由あって秘密裡に作業を行いたいらしい。おまえ、行ってくれるか」
須磨の工房にはこの手の訳アリ仕事が多い。というか、寧ろそちらでメシを食っている。
役者や美人画、風景画といったスタンダードな依頼は大手の寡占状態なので、須磨のところには幽霊だの妖怪だの、地獄だの死体だのエログロだののニッチな依頼が多い。
須磨は公序良俗に反するような題材でも快く仕事を受け、例え岡っ引きに問い詰められても仕事の中身を漏らすことがないので、依頼は途絶えることがない。しかし、ご公儀からの依頼というのは珍しい。
正直、乗り気はしない。堅苦しい場所で堅苦しい絵の修復作業など息が詰まること間違いない。
「るいさんではなく、俺ですか。るいさんの方が腕は段違いに良いし、口の固さって意味でもるいさんほど信頼できる人はいないでしょう」
囁かな抵抗を試みるが、「るいは美人だからな。助けも呼べない女を男だらけの城に単身送り込めるか」と一蹴された。
口は聞けないが耳はばっちり聞こえているるいは、反故紙にさらさらと筆を走らせた。
「中弥だって男にしちゃあ美人なんだから、襲われないように気を付けて」
「女のいない城だぞ。何で俺が襲われんだよ」
「衆道は当世の文化なり。坊主と武家には男好きが多い」
るいの文字を読んだ須磨はにやりとし、行儀悪く胡坐をかいた中弥の膝小僧を扇子でぱしぱし叩いた。
「男色の侍がいたとしても、こんな痩せっぽっちで陰キャで口が悪い男に手は出さないだろ。少々顔が良くても、色気がないと勃つものも勃たん。中弥に比べれば、12や13の陰間の方が余程艶がある」
「あの子たちは女より女らしい。陰間に走る殿方の気持ちも分からなくはない」
「俺は分からないなあ。女の方が良いに決まっている。春画も男女物の方が断然描いていて楽しい」
「須磨師匠はどちらでもいけそうなのに」
「お、言ってくれるね」
言いたい放題の師匠と姉弟子である。
「まあ、男だ女だはともかく、色恋は人生の妙だな」
そうまとめて、須磨は扇子を開いた。焚きしめた香木が香る。るいは中弥を流し見て、筆を滑らせた。
「まさに。中弥も色恋を知れば」
しかし、その先は続かなかった。言葉を探すように宙を彷徨った筆はそのまま硯に置かれる。
知ればなんですかと中弥は問いただす。
「知れば、絵が上手くなりますか。俺はそうは思わない。幽霊を見たことがなくても幽霊は描けるし、人を殺したことがなくても人斬りの絵は描けます」
畳みかけると、るいは同意を示すように頷いてから、再び筆を取った。
「いつか、知れば分かる」
るいはそれだけ伝えると、背を向けて幽霊画の続きを描き出す。
まとめあげた黒髪の下の首は細く、背中も小さい。夫を火事で失って、以来ひとりきりの未亡人。
中弥は押し黙った。大切な人を失う悲しみを、俺は知らない。
工房がしんと静かになる。弟子二人のやりとりを傍観していた須磨は、沈んだ空気を断ち切るように、ぱちりと扇子を鳴らした。
「とにかく、来週からだ。必要な道具は向こうで揃えるらしいから、筆だけ持ってゆけ。あ、その酒呑童子は今週中に仕上げるんだぞ」
なんだかんだ言っても、師匠の命令は絶対である。
はいと大人しく頷くと、須磨は「いい子だ。必ず勉強になるから、頑張っておいで」と中弥の頭を撫でた。
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