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第1章:花ひらく頃、三条大橋にて
冬の再会
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「中弥?」
宝永3年(1706年)、冬の昼下がり。三条大橋のふもとで、見知らぬ男に名を呼ばれた。
先を急ぎたかったが、相手の身なりを見て中弥は歩みを止めた。右手に下げた風呂敷包みを持ち直す。指先が木枯らしで冷えていた。
「おまえ、中弥だろう」
立ちはだかった男の声は確信めいていたが、中弥はその男を知らなかった。
誰だ、こいつ。随分と不躾な男だ。
心の中で毒づくが、口には出さない。
件の男の月代は青々として鬢はぴたりと撫でつけられており、羽織袴の腰には大小2本の刀がずしりと下がっている。
町人、それも貧乏絵師の中弥がお武家様に楯突けるわけがない。
どのように応答すべきか判断がつかず、中弥は視線を落として「はい」とだけ答えた。
男は腰をかがめ、うつむく中弥の顔を覗き込んでくる。
そっと視線を合わせると、その瞳は失くしものを見つけた子供のように輝いている。
「変わらないな」
懐かし気に言う。しかし中弥の方には本当に身に覚えがない。
侍は、間近で見ると相当の色男だった。西洋人のように大きな目と通った鼻筋をしている。歳は中弥より若そうだ。
身分違いながらも、相手が年下であることが中弥に余裕を与えた。
「失礼ながら、どちらかでお目にかかりましたでしょうか」
控えめに尋ねると、男は目を細めた。
「やはり、覚えていないか」
「申し訳ございません」
「いや、それはそうだろう」
どういう意味だろうか。
不思議に思ったが、それよりも早くこの場を立ち去りたかった。新しく引き受けた仕事の作業場へ向かう途中だ。初日から遅刻など許されることではない。
気が急く中弥の気配を察したのか、男は行き先を尋ねた。
「ところで中弥。どこへ向かうところだ」
「二条城でございます」
「二条城? 何用でだ」
町人が二条城に何の用事だといぶかっているのだろう。
中弥は工房勤めの町絵師だ。師匠の須磨は銭さえ良ければどんな仕事でも引き受けるに奇特な男だ。
今回の仕事は二条のお城にある障壁画の修復だったが、ご公儀の仕事ということで、仕事の内容については口外無用と釘を刺されていた。
「ちょっとした雑用を頼まれておりまして」
曖昧にごまかすと、男は中弥の身なりに目を走らせた。仕事着にしている安価な着物にも絵道具を包んだ風呂敷にも絵具の汚れが散っている。
「もしや、中弥は須磨殿の工房の者か?」
ひと時の観察だけで身元を当てられ、中弥は顔を上げた。
男は嬉しそうに笑い、中弥の疑問を解くように続けた。
「名乗り遅れたが、俺は二条在番の倉橋征次。須磨殿に、城に絵師を寄越すように依頼したのは俺だ」
中弥は男の言葉を口の中で咀嚼した。つまり。
「つまり、倉橋様が雇い主ということですか」
「そういうことだ。俺はちょうど昼餉を済ませて城へ戻るところだ。二条城まで、共に参ろう。仕事の子細は城に着いてから説明する」
京の町は碁盤目状に道が走っている。南北に流れる鴨川に架けられた三条大橋から三条通りを西にまっすぐ進んでゆけば、すぐに二条城だ。
聳え立つ城の壁は白くまばゆく輝いており、1キロ先からもよく見えた。
時は徳川綱吉公の治世。京の街は、江戸に劣らず豊かで華やかだ。大通りは人と物で溢れ、様々な色彩が目に眩しい。
武士兼雇い主と肩を並べるのは憚られ、中弥は倉橋の半歩後ろを歩いた。
倉橋は散策でもするようにゆったりと歩き、道中、よく喋った。
やれ、今日は天気が良いだの、あの茶屋の団子は美味いだの、おお、あそこに蛙がいたぞなど。
根っから明るい男なのだろう。
中弥は饒舌な方ではないので、非礼にならぬ程度に相槌だけを打つ。
倉橋が、あそこの角の飯屋はいつも混んでいて気になっているのだと言った時だけ、そこが行きつけの店だったので言葉を返した。
「あそこは、茄子のしぎ焼が美味いです」
それを聞くと、倉橋は大層嬉しそうに微笑んだ。二人の吐く息が白く空気に溶けてゆく。
「茄子か、それはいい。茄子は好物なんだ。今度、連れて行っておくれ」
二条城は、今からおよそ100年前、慶長年間に家康公が築城した城だ。
内裏(京都御所)の南西に位置している。長い白壁の内側には日本庭園が広がり、その中心に建つ豪奢な本丸と二の丸はまさに徳川の栄華の象徴であった。
大阪冬の陣を経て、寛永11年(1634年)に3代将軍の家光公が二条城に入城。その家光公が城を去った後、二条城は将軍を迎え入れていない。
主不在の城は今、江戸から派遣された100人ほどの武士たちが細々と城の警備と管理を行っていると聞いている。倉橋はその一人ということであった。
仕事で、羽振りの良い大店や大名のお屋敷に入ったことはあるが、城に立ち入るのは初めてだ。
二条城の広大な敷地はお濠と壁に囲まれており、随所に立派な門が備えられている。どこもかしこも立派で綺麗だ。
白壁に黒瓦のコントラストは目に眩しく、門の飾金具は冬の陽光を受けてきらきらと輝いている。
「ここが東大手門だ。門はいくつもあるが、普段の出入りにはここを使うといい。後で通行証を渡すから、それを忘れずにな」
お濠の石橋を渡りながら、倉橋が説明をしてくれる。
中弥は見上げた門のあまりの豪華さに視線を下に落とした。石橋の下のお濠ではたっぷりの水がたゆたっている。
その水面に鴨の群れを見つけ、中弥は腰をかがめた。
「中弥? 気分でも悪いのか?」
「鴨がいます」
「そりゃあ、お濠だからな」
鴨の親子がすいすいと水面を動いている。
鴨の動きに合わせ、扇形の波紋が均等に広がっていく。餌を見つけたのか、時折とぷりと水に潜り、また頭を覗かせる。その度に水が揺れて流れる。
動物や鳥類の動作は描くのが難しい。とくに走ったり飛んだりしている姿は。長屋に住み着いている猫の新三郎でさえ、毎日触っていてもいざ紙に写し取ろうとすると、筆が迷う。
鴨の動きを観察していると、倉橋が横に並ぶように腰を落とした。
「鴨が好きなのか?」
「好きというか、可愛いらしいし、動きが独特で面白いです」
「ふむ。毎日通るからまじまじと見たことはないが、愛らしいものだな」
眺めているうちに、鴨の親子はお尻を振りながら石橋の下に隠れてしまった。
水面から目を上げれば、石橋の上では自分の粗末な着物と倉橋の立派な袴が並んでいる。
横を向けばすぐ近くに倉橋の顔があって、中弥は仰け反った。
「あ、も、申し訳ありません」
「何を謝る」
「案内を受けている最中で、鴨などに気を取られてしまいました」
深々と頭を下げると、立ち上がった倉橋は可笑しそうに笑った。
「いや、構わない。俺も楽しんだ。気が済んだなら、行こう。番所へ案内する」
先に立って歩きながら、倉橋はふと振り返って言った。
「鴨を描きたければ、休憩時間にでも来るといい。門番には言っておくから」
優しい人だ。なんだか嬉しくなって、中弥はありがとうございますとまた頭を下げた。
宝永3年(1706年)、冬の昼下がり。三条大橋のふもとで、見知らぬ男に名を呼ばれた。
先を急ぎたかったが、相手の身なりを見て中弥は歩みを止めた。右手に下げた風呂敷包みを持ち直す。指先が木枯らしで冷えていた。
「おまえ、中弥だろう」
立ちはだかった男の声は確信めいていたが、中弥はその男を知らなかった。
誰だ、こいつ。随分と不躾な男だ。
心の中で毒づくが、口には出さない。
件の男の月代は青々として鬢はぴたりと撫でつけられており、羽織袴の腰には大小2本の刀がずしりと下がっている。
町人、それも貧乏絵師の中弥がお武家様に楯突けるわけがない。
どのように応答すべきか判断がつかず、中弥は視線を落として「はい」とだけ答えた。
男は腰をかがめ、うつむく中弥の顔を覗き込んでくる。
そっと視線を合わせると、その瞳は失くしものを見つけた子供のように輝いている。
「変わらないな」
懐かし気に言う。しかし中弥の方には本当に身に覚えがない。
侍は、間近で見ると相当の色男だった。西洋人のように大きな目と通った鼻筋をしている。歳は中弥より若そうだ。
身分違いながらも、相手が年下であることが中弥に余裕を与えた。
「失礼ながら、どちらかでお目にかかりましたでしょうか」
控えめに尋ねると、男は目を細めた。
「やはり、覚えていないか」
「申し訳ございません」
「いや、それはそうだろう」
どういう意味だろうか。
不思議に思ったが、それよりも早くこの場を立ち去りたかった。新しく引き受けた仕事の作業場へ向かう途中だ。初日から遅刻など許されることではない。
気が急く中弥の気配を察したのか、男は行き先を尋ねた。
「ところで中弥。どこへ向かうところだ」
「二条城でございます」
「二条城? 何用でだ」
町人が二条城に何の用事だといぶかっているのだろう。
中弥は工房勤めの町絵師だ。師匠の須磨は銭さえ良ければどんな仕事でも引き受けるに奇特な男だ。
今回の仕事は二条のお城にある障壁画の修復だったが、ご公儀の仕事ということで、仕事の内容については口外無用と釘を刺されていた。
「ちょっとした雑用を頼まれておりまして」
曖昧にごまかすと、男は中弥の身なりに目を走らせた。仕事着にしている安価な着物にも絵道具を包んだ風呂敷にも絵具の汚れが散っている。
「もしや、中弥は須磨殿の工房の者か?」
ひと時の観察だけで身元を当てられ、中弥は顔を上げた。
男は嬉しそうに笑い、中弥の疑問を解くように続けた。
「名乗り遅れたが、俺は二条在番の倉橋征次。須磨殿に、城に絵師を寄越すように依頼したのは俺だ」
中弥は男の言葉を口の中で咀嚼した。つまり。
「つまり、倉橋様が雇い主ということですか」
「そういうことだ。俺はちょうど昼餉を済ませて城へ戻るところだ。二条城まで、共に参ろう。仕事の子細は城に着いてから説明する」
京の町は碁盤目状に道が走っている。南北に流れる鴨川に架けられた三条大橋から三条通りを西にまっすぐ進んでゆけば、すぐに二条城だ。
聳え立つ城の壁は白くまばゆく輝いており、1キロ先からもよく見えた。
時は徳川綱吉公の治世。京の街は、江戸に劣らず豊かで華やかだ。大通りは人と物で溢れ、様々な色彩が目に眩しい。
武士兼雇い主と肩を並べるのは憚られ、中弥は倉橋の半歩後ろを歩いた。
倉橋は散策でもするようにゆったりと歩き、道中、よく喋った。
やれ、今日は天気が良いだの、あの茶屋の団子は美味いだの、おお、あそこに蛙がいたぞなど。
根っから明るい男なのだろう。
中弥は饒舌な方ではないので、非礼にならぬ程度に相槌だけを打つ。
倉橋が、あそこの角の飯屋はいつも混んでいて気になっているのだと言った時だけ、そこが行きつけの店だったので言葉を返した。
「あそこは、茄子のしぎ焼が美味いです」
それを聞くと、倉橋は大層嬉しそうに微笑んだ。二人の吐く息が白く空気に溶けてゆく。
「茄子か、それはいい。茄子は好物なんだ。今度、連れて行っておくれ」
二条城は、今からおよそ100年前、慶長年間に家康公が築城した城だ。
内裏(京都御所)の南西に位置している。長い白壁の内側には日本庭園が広がり、その中心に建つ豪奢な本丸と二の丸はまさに徳川の栄華の象徴であった。
大阪冬の陣を経て、寛永11年(1634年)に3代将軍の家光公が二条城に入城。その家光公が城を去った後、二条城は将軍を迎え入れていない。
主不在の城は今、江戸から派遣された100人ほどの武士たちが細々と城の警備と管理を行っていると聞いている。倉橋はその一人ということであった。
仕事で、羽振りの良い大店や大名のお屋敷に入ったことはあるが、城に立ち入るのは初めてだ。
二条城の広大な敷地はお濠と壁に囲まれており、随所に立派な門が備えられている。どこもかしこも立派で綺麗だ。
白壁に黒瓦のコントラストは目に眩しく、門の飾金具は冬の陽光を受けてきらきらと輝いている。
「ここが東大手門だ。門はいくつもあるが、普段の出入りにはここを使うといい。後で通行証を渡すから、それを忘れずにな」
お濠の石橋を渡りながら、倉橋が説明をしてくれる。
中弥は見上げた門のあまりの豪華さに視線を下に落とした。石橋の下のお濠ではたっぷりの水がたゆたっている。
その水面に鴨の群れを見つけ、中弥は腰をかがめた。
「中弥? 気分でも悪いのか?」
「鴨がいます」
「そりゃあ、お濠だからな」
鴨の親子がすいすいと水面を動いている。
鴨の動きに合わせ、扇形の波紋が均等に広がっていく。餌を見つけたのか、時折とぷりと水に潜り、また頭を覗かせる。その度に水が揺れて流れる。
動物や鳥類の動作は描くのが難しい。とくに走ったり飛んだりしている姿は。長屋に住み着いている猫の新三郎でさえ、毎日触っていてもいざ紙に写し取ろうとすると、筆が迷う。
鴨の動きを観察していると、倉橋が横に並ぶように腰を落とした。
「鴨が好きなのか?」
「好きというか、可愛いらしいし、動きが独特で面白いです」
「ふむ。毎日通るからまじまじと見たことはないが、愛らしいものだな」
眺めているうちに、鴨の親子はお尻を振りながら石橋の下に隠れてしまった。
水面から目を上げれば、石橋の上では自分の粗末な着物と倉橋の立派な袴が並んでいる。
横を向けばすぐ近くに倉橋の顔があって、中弥は仰け反った。
「あ、も、申し訳ありません」
「何を謝る」
「案内を受けている最中で、鴨などに気を取られてしまいました」
深々と頭を下げると、立ち上がった倉橋は可笑しそうに笑った。
「いや、構わない。俺も楽しんだ。気が済んだなら、行こう。番所へ案内する」
先に立って歩きながら、倉橋はふと振り返って言った。
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