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黒魔術師トーラ、失恋の痛手を癒す。
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午後4時のレベッカのカフェは、お茶と甘味とおしゃべりを楽しむ女性陣で賑やかだ。あちらこちらのテーブルで、軽やかな笑い声がさざめきあっている。
そんな華やかな店内の一角、おしゃれカフェの雰囲気を台無しにしているテーブルがあった。
木製の四角いテーブル席で男2人が向き合っている。
全身黒ずくめの若い男に、カラーパレットのように原色満載の派手な身なりの中年男。
黒魔術師トーラと白魔術師ルキアーノである。
「しっかし、女に振られたくらいでそんな落ち込むもんかねー。お、うまいな、このタルト」
心無い台詞を吐いた口に、ルキアーノは木の実のタルトを放り込んだ。
「失恋すれば誰だって落ち込みますよ」
トーラは渋い顔でお茶をすすった。
天女の里セレス周辺でアンデッド系モンスターが大量発生しており、トーラとルキアーノのパーティは明日からその討伐へ向かう予定だ。
出発前の準備として、教会で冒険の記録をした後、「茶でもしばいて帰ろうぜ」とルキアーノが古典的な言い回しを披露し、気に入りだというレベッカのカフェに入った次第である。
トーラは普段カフェになど来ないので、なんとなく居心地が悪い。
若い女性ばかりのお花畑のような店内で、自分たちはかなり異質だ。
一方のルキアーノは、そんなことは全く気にせずにタルトに続いてパルフェのアイスにスプーンを伸ばしている。
賢者キリエがパーティを脱退した後、ルキアーノが後釜として仲間になって10日。
まだ10日だが、その無頓着で無神経で自由人な人柄を知るには十分な時間だ。
「けどよ、トーラ。おまえときたら、女たらしで有名じゃないか。確かにそんな一人の女に執着するタマじゃないだろう」
「たらしじゃありませんよ。女友達が多いだけです」
「それを世間では女たらしと言うんだよ。おまえさん、月刊「パーティ☆マニア」の「抱かれたい魔術師ランキング」で毎回トップ10入りを果たしてるじゃないか」
「自慢にも何にもなりませんから、それ」
トーラはため息をつく。
対象が「魔術師」と小範囲だし、「結婚したい」でも「恋人にしたい」でもなく、単に「抱かれたい」なのだ。空しいだけではないか。
「ルキアーノさん、あんなランキング見てるんですね」
「俺はあの雑誌の創刊以来の愛読者だからな。毎月熟読している。何故俺がランキングに入らないのか不思議でならない」
冗談かと思いきや、ルキアーノは真剣な顔だ。
「まあ、なんだな。失恋には新しい恋だ」
ルキアーノがしたり顔で言ってくる。
「気軽に言ってくれますね」
「デートする相手くらいいくらでもいるだろう。ほら、あそこのテーブルなんか美人揃いなんじゃないか」
ルキアーノの目線の先を追うと、窓際の丸テーブルで女性が3人、お茶を飲んでいる。
ウェーブヘアの勇者、おかっぱのモンク、黒髪ロングの召喚士の3人組で、タイプも系統もばらばらだが、確かに美人揃いだ。
というか、あの3人は。
「さっき教会で会った忍者ヒズミのパーティですよ」
トーラは言った。
勇者ミナトのパーティは巷では有名なのだが、ルキアーノは知らなかったらしい。
「ヒズミって、さっきのなかなか可愛い顔した忍者か。彼女たち、確かに気が強そうだな」
「ちなみにひとりは僕のモトカノです」
薄情すると、ルキアーノは大袈裟に仰け反った。
「やっぱりたらしじゃないか、トーラ君。で、どの女だ」
「内緒です」
ちなみに件の彼女もトーラの存在に気づいている様子だが、完全に無視を決め込んでいる。
女性は達者だと感心するのはこういう時だ。
「そろそろ、帰りましょうか」
カフェを出て、カイたちが待つ宿屋へ向かおうとすると、ルキアーノは「ちょっと付き合え」と言って、トーラの手を握った。
「なんですか?」
聞き返す間もなく、ルキアーノが何事かを早口で呟いた。
冒険者が最も多用する呪文のひとつだった。
瞬間、ぎゅぎゅんっと効果音がして、トーラの身体は異空間へ吸い込まれた。
目の前に広がる風景のあまりの美しさにトーラは目を奪われた。
大きな湖が広がっている。
澄んだその湖面は優しい水色で、そこに空の青が重なるように映り込んでいる。静かに吹き渡る風がさざ波をつくり、光がきらきらと弾ける。
浅い湖底から伸びた若草が湖の上に広がり、鮮やかな紫色のラベンダーが咲き誇り。
湖の向こうには雄々しい山脈が連なり、その上には濃い青空が広がっている。
白い鳥の群れが、湖上を旋回して、またどこかへ飛び去ってゆく。
「ここは?」
「草原の国グラシールトだ。初めてか?」
感動するトーラに、ルキアーノが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「首都には行ったことが。でもここは初めてです」
「だろうな。ここはデザイアとの国境だ。あの山の向こうはもうデザイアだ」
10分ほど景色を眺めたところで、ルキアーノはトーラの手を握ると、また同じ呪文を呟いた。
次に訪れたのは、砂漠だった。
つくりもののように美しい砂の丘が、太陽の光を浴びて蜂蜜色に輝き、その表面には熱い風が規則正しく風紋を刻み付けてゆく。
青い空と白い砂漠。
ただそれだけ。
生物の気配は全くなく、ただ風の音が聞こえるばかりだ。
「アクアイルのキララ砂丘だ」
ルキアーノが言う。
光の大陸の各地を冒険して沢山の絶景を訪れたけれど、心を注いで景色を見ることはあまりなかった。
いつもは、目的地へ向かってただひたすら先を急ぎ、いつどこから現れるか分からないモンスターの気配にばかり耳を傾けていた。
それから、ルキアーノは何度も件の呪文を唱え、たくさんの景色を見せてくれた。
ルキアーノは何も言わなかったけれど、どうやらトーラを慰めようとしてくれているらしい。
月並みだけれど、壮大な風景の前では、自分の失恋など砂粒のように小さい。
そうしてるうちに日が暮れ、二人は海の国マリノの海岸で星空を見上げていた。
10日前の夜、宿の屋上でキリエとワインを飲んだことを思い出した。
あれが、キリエに会った最後だった。
切なさと悲しみが混じった、ふわりとした彼女の微笑みを想いだす。
何度も告白して、何度もふられたけれど。
キリエは、人を好きになることを怖がっていたのかもしれない。
何故か今になって彼女の気持ちが分かった。
「キリエは、特別なんです」
砂浜でルキアーノと並んで寝転びながら、トーラはぽつりと言った。
「他の女性とは全然違う。あんなに、強くて脆い女性を他に知らない」
ルキアーノはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「俺には、女の良さは分からないからな」
「ルキアーノさんは独身ですよね。彼女とかいないんですか」
「彼女はいたことがないな」
予想外の回答に、トーラはルキアーノを見る。
中年だし、服装のセンスは派手すぎるが、いわゆるチョイワル親父で、男としての色気も魅力もあると思うのだが。
「意外ですね。どういう女性が好みなんですか」
「好みのタイプねえ」
ルキアーノは顎を撫でる。
「あれだな。身近で言うなら、ルシオだな」
「え」
ルシオは、トーラやルキアーノと同じパーティの武闘家だ。
研ぎ澄まされた刃のような身体を持つ、若いのに渋さがある真面目な男だ。
そう、男だ。
「俺はそういう性癖なんだ。だから、彼女はいたことはない」
「そうでしたか」
ルキアーノがなんでもないことのように言ったので、トーラもなんでもないように応じた。
実際、なんでもないことだ。
「あ、でもルシオはマルタと」
「知ってる。タイプだってだけで、どうこうなろうとは思っちゃいないよ」
ルキアーノは上半身を起こして伸びをした。
「まあ、なんだな。だから、キリエのことは気の毒だと思う。けど、俺は少々おまえさんが羨ましくもある。俺の場合は、好きになっても、リングにすら立てずに自分から諦めなきゃいけない時の方が多いからな。サンドバッグみたいにどれだけぼこぼこにされても、それでもお前さんは何度でもリングに立てるし、可能性ってやつがあるじゃないか」
「殴られっぱなしってのも、辛いもんですよ」
トーラが情けない口調で言うと、ルキアーノは豪快に笑った。
「さて、そろそろ帰るか。あんまり遅くなると、マルタ嬢に叱られそうだ」
ルキアーノは今日何度目かの呪文を唱えた。
が、何も起こらない。
「どうしたんですか?」
「あれ。あ、やべ。MP、なくなっちまってる」
とルキアーノ。
トーラはぎょっとする。
「おまえさん、移動魔法使えるか?」
「使えません。黒魔術師なんで。ちなみに、今は道具類も一切持ってません」
「マジか。やっちまったなあ」
ルキアーノは天を仰ぐ。
「あそこ、港町ポーティアックですよね。あそこまで行ければ、宿屋も道具屋もあります」
トーラは南の方角に煌めく町並みを指さした。
「距離は、ざっと20キロってとこか」
「仕方ありません、歩きましょう」
「いや、悪かったな、考えなしで」
歩きながら、ルキアーノは恐縮しきっている。
「謝る必要ありませんよ。慰めてくれて、嬉しかったです。気分も晴れました」
「そういう優しいこと言わないでくれ。惚れちまうから」
「それは勘弁してください」
「冗談だよ、おまえさんは俺のタイプじゃない」
「それ、正面切って言われるとゲイ相手でも傷つきますね」
軽口を叩きながら海岸沿いの道を歩いていると、蹄の音が聞こえてきた。
「馬だ」
二人は口を揃える。
駆けてくる栗毛の馬には、女が一人。
「すみません、ちょっと止まってください」
トーラが声をかけると、女はしぶしぶと言った風情で馬を停めた。
馬上から降りはせずに二人を見下ろす女は、全身をマントに包んでいる。
若いが、妙に印象が薄い女だった。
整った顔立ちではあるのだが、後からどんな顔だったと聞かれても何も特徴が思い出せないような顔だ。
存在感がなく、空気のようだ。
「どうしました」
女は早口で聞いた。急いでいるようだ。
よく見るとその顔は青ざめている。
「旅の者です。街まで行きたいのですが、MPがゼロになってしまって」
その説明だけで女は状況を理解したらしい。
懐から小さな薬包を取り出すと、トーラに向かって落とした。
MP回復薬だった。回復量が最小限のものだが、移動魔法1回分には十分だ。
「ありがとうございます。あの、お金を」
トーラが財布を取り出そうとすると、女は首を振った。
「結構です。急ぎますので」
言い終わると同時に手綱を振り上げ、あっという間に見えなくなってしまった。
「良かったですね、ルキアーノさん。これ、飲んでください」
ルキアーノは薬包の中身を喉に流し込んでから呟いた。
「今の女、どっかで見たことあるな」
「お知り合いですか?」
「おまえさんと違って女の知り合いは少ない」
「またそういう言い方を」
「いや、マジな話。絶対どっかで会ってるんだが。誰だっけなあ」
立ったまま考え込んでしまうルキアーノの腕をトーラは揺さぶった。
「それは後でいいですから、早く呪文唱えてください。明日の出発に間に合わないと、マルタの大目玉が待ってますから」
「ああ、分かった分かった」
後日、トーラは、この時ルキアーノが思い出すのを辛抱強く待っていれば良かったと後悔することになるのだが、それはまた別の話である。(了)
そんな華やかな店内の一角、おしゃれカフェの雰囲気を台無しにしているテーブルがあった。
木製の四角いテーブル席で男2人が向き合っている。
全身黒ずくめの若い男に、カラーパレットのように原色満載の派手な身なりの中年男。
黒魔術師トーラと白魔術師ルキアーノである。
「しっかし、女に振られたくらいでそんな落ち込むもんかねー。お、うまいな、このタルト」
心無い台詞を吐いた口に、ルキアーノは木の実のタルトを放り込んだ。
「失恋すれば誰だって落ち込みますよ」
トーラは渋い顔でお茶をすすった。
天女の里セレス周辺でアンデッド系モンスターが大量発生しており、トーラとルキアーノのパーティは明日からその討伐へ向かう予定だ。
出発前の準備として、教会で冒険の記録をした後、「茶でもしばいて帰ろうぜ」とルキアーノが古典的な言い回しを披露し、気に入りだというレベッカのカフェに入った次第である。
トーラは普段カフェになど来ないので、なんとなく居心地が悪い。
若い女性ばかりのお花畑のような店内で、自分たちはかなり異質だ。
一方のルキアーノは、そんなことは全く気にせずにタルトに続いてパルフェのアイスにスプーンを伸ばしている。
賢者キリエがパーティを脱退した後、ルキアーノが後釜として仲間になって10日。
まだ10日だが、その無頓着で無神経で自由人な人柄を知るには十分な時間だ。
「けどよ、トーラ。おまえときたら、女たらしで有名じゃないか。確かにそんな一人の女に執着するタマじゃないだろう」
「たらしじゃありませんよ。女友達が多いだけです」
「それを世間では女たらしと言うんだよ。おまえさん、月刊「パーティ☆マニア」の「抱かれたい魔術師ランキング」で毎回トップ10入りを果たしてるじゃないか」
「自慢にも何にもなりませんから、それ」
トーラはため息をつく。
対象が「魔術師」と小範囲だし、「結婚したい」でも「恋人にしたい」でもなく、単に「抱かれたい」なのだ。空しいだけではないか。
「ルキアーノさん、あんなランキング見てるんですね」
「俺はあの雑誌の創刊以来の愛読者だからな。毎月熟読している。何故俺がランキングに入らないのか不思議でならない」
冗談かと思いきや、ルキアーノは真剣な顔だ。
「まあ、なんだな。失恋には新しい恋だ」
ルキアーノがしたり顔で言ってくる。
「気軽に言ってくれますね」
「デートする相手くらいいくらでもいるだろう。ほら、あそこのテーブルなんか美人揃いなんじゃないか」
ルキアーノの目線の先を追うと、窓際の丸テーブルで女性が3人、お茶を飲んでいる。
ウェーブヘアの勇者、おかっぱのモンク、黒髪ロングの召喚士の3人組で、タイプも系統もばらばらだが、確かに美人揃いだ。
というか、あの3人は。
「さっき教会で会った忍者ヒズミのパーティですよ」
トーラは言った。
勇者ミナトのパーティは巷では有名なのだが、ルキアーノは知らなかったらしい。
「ヒズミって、さっきのなかなか可愛い顔した忍者か。彼女たち、確かに気が強そうだな」
「ちなみにひとりは僕のモトカノです」
薄情すると、ルキアーノは大袈裟に仰け反った。
「やっぱりたらしじゃないか、トーラ君。で、どの女だ」
「内緒です」
ちなみに件の彼女もトーラの存在に気づいている様子だが、完全に無視を決め込んでいる。
女性は達者だと感心するのはこういう時だ。
「そろそろ、帰りましょうか」
カフェを出て、カイたちが待つ宿屋へ向かおうとすると、ルキアーノは「ちょっと付き合え」と言って、トーラの手を握った。
「なんですか?」
聞き返す間もなく、ルキアーノが何事かを早口で呟いた。
冒険者が最も多用する呪文のひとつだった。
瞬間、ぎゅぎゅんっと効果音がして、トーラの身体は異空間へ吸い込まれた。
目の前に広がる風景のあまりの美しさにトーラは目を奪われた。
大きな湖が広がっている。
澄んだその湖面は優しい水色で、そこに空の青が重なるように映り込んでいる。静かに吹き渡る風がさざ波をつくり、光がきらきらと弾ける。
浅い湖底から伸びた若草が湖の上に広がり、鮮やかな紫色のラベンダーが咲き誇り。
湖の向こうには雄々しい山脈が連なり、その上には濃い青空が広がっている。
白い鳥の群れが、湖上を旋回して、またどこかへ飛び去ってゆく。
「ここは?」
「草原の国グラシールトだ。初めてか?」
感動するトーラに、ルキアーノが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「首都には行ったことが。でもここは初めてです」
「だろうな。ここはデザイアとの国境だ。あの山の向こうはもうデザイアだ」
10分ほど景色を眺めたところで、ルキアーノはトーラの手を握ると、また同じ呪文を呟いた。
次に訪れたのは、砂漠だった。
つくりもののように美しい砂の丘が、太陽の光を浴びて蜂蜜色に輝き、その表面には熱い風が規則正しく風紋を刻み付けてゆく。
青い空と白い砂漠。
ただそれだけ。
生物の気配は全くなく、ただ風の音が聞こえるばかりだ。
「アクアイルのキララ砂丘だ」
ルキアーノが言う。
光の大陸の各地を冒険して沢山の絶景を訪れたけれど、心を注いで景色を見ることはあまりなかった。
いつもは、目的地へ向かってただひたすら先を急ぎ、いつどこから現れるか分からないモンスターの気配にばかり耳を傾けていた。
それから、ルキアーノは何度も件の呪文を唱え、たくさんの景色を見せてくれた。
ルキアーノは何も言わなかったけれど、どうやらトーラを慰めようとしてくれているらしい。
月並みだけれど、壮大な風景の前では、自分の失恋など砂粒のように小さい。
そうしてるうちに日が暮れ、二人は海の国マリノの海岸で星空を見上げていた。
10日前の夜、宿の屋上でキリエとワインを飲んだことを思い出した。
あれが、キリエに会った最後だった。
切なさと悲しみが混じった、ふわりとした彼女の微笑みを想いだす。
何度も告白して、何度もふられたけれど。
キリエは、人を好きになることを怖がっていたのかもしれない。
何故か今になって彼女の気持ちが分かった。
「キリエは、特別なんです」
砂浜でルキアーノと並んで寝転びながら、トーラはぽつりと言った。
「他の女性とは全然違う。あんなに、強くて脆い女性を他に知らない」
ルキアーノはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「俺には、女の良さは分からないからな」
「ルキアーノさんは独身ですよね。彼女とかいないんですか」
「彼女はいたことがないな」
予想外の回答に、トーラはルキアーノを見る。
中年だし、服装のセンスは派手すぎるが、いわゆるチョイワル親父で、男としての色気も魅力もあると思うのだが。
「意外ですね。どういう女性が好みなんですか」
「好みのタイプねえ」
ルキアーノは顎を撫でる。
「あれだな。身近で言うなら、ルシオだな」
「え」
ルシオは、トーラやルキアーノと同じパーティの武闘家だ。
研ぎ澄まされた刃のような身体を持つ、若いのに渋さがある真面目な男だ。
そう、男だ。
「俺はそういう性癖なんだ。だから、彼女はいたことはない」
「そうでしたか」
ルキアーノがなんでもないことのように言ったので、トーラもなんでもないように応じた。
実際、なんでもないことだ。
「あ、でもルシオはマルタと」
「知ってる。タイプだってだけで、どうこうなろうとは思っちゃいないよ」
ルキアーノは上半身を起こして伸びをした。
「まあ、なんだな。だから、キリエのことは気の毒だと思う。けど、俺は少々おまえさんが羨ましくもある。俺の場合は、好きになっても、リングにすら立てずに自分から諦めなきゃいけない時の方が多いからな。サンドバッグみたいにどれだけぼこぼこにされても、それでもお前さんは何度でもリングに立てるし、可能性ってやつがあるじゃないか」
「殴られっぱなしってのも、辛いもんですよ」
トーラが情けない口調で言うと、ルキアーノは豪快に笑った。
「さて、そろそろ帰るか。あんまり遅くなると、マルタ嬢に叱られそうだ」
ルキアーノは今日何度目かの呪文を唱えた。
が、何も起こらない。
「どうしたんですか?」
「あれ。あ、やべ。MP、なくなっちまってる」
とルキアーノ。
トーラはぎょっとする。
「おまえさん、移動魔法使えるか?」
「使えません。黒魔術師なんで。ちなみに、今は道具類も一切持ってません」
「マジか。やっちまったなあ」
ルキアーノは天を仰ぐ。
「あそこ、港町ポーティアックですよね。あそこまで行ければ、宿屋も道具屋もあります」
トーラは南の方角に煌めく町並みを指さした。
「距離は、ざっと20キロってとこか」
「仕方ありません、歩きましょう」
「いや、悪かったな、考えなしで」
歩きながら、ルキアーノは恐縮しきっている。
「謝る必要ありませんよ。慰めてくれて、嬉しかったです。気分も晴れました」
「そういう優しいこと言わないでくれ。惚れちまうから」
「それは勘弁してください」
「冗談だよ、おまえさんは俺のタイプじゃない」
「それ、正面切って言われるとゲイ相手でも傷つきますね」
軽口を叩きながら海岸沿いの道を歩いていると、蹄の音が聞こえてきた。
「馬だ」
二人は口を揃える。
駆けてくる栗毛の馬には、女が一人。
「すみません、ちょっと止まってください」
トーラが声をかけると、女はしぶしぶと言った風情で馬を停めた。
馬上から降りはせずに二人を見下ろす女は、全身をマントに包んでいる。
若いが、妙に印象が薄い女だった。
整った顔立ちではあるのだが、後からどんな顔だったと聞かれても何も特徴が思い出せないような顔だ。
存在感がなく、空気のようだ。
「どうしました」
女は早口で聞いた。急いでいるようだ。
よく見るとその顔は青ざめている。
「旅の者です。街まで行きたいのですが、MPがゼロになってしまって」
その説明だけで女は状況を理解したらしい。
懐から小さな薬包を取り出すと、トーラに向かって落とした。
MP回復薬だった。回復量が最小限のものだが、移動魔法1回分には十分だ。
「ありがとうございます。あの、お金を」
トーラが財布を取り出そうとすると、女は首を振った。
「結構です。急ぎますので」
言い終わると同時に手綱を振り上げ、あっという間に見えなくなってしまった。
「良かったですね、ルキアーノさん。これ、飲んでください」
ルキアーノは薬包の中身を喉に流し込んでから呟いた。
「今の女、どっかで見たことあるな」
「お知り合いですか?」
「おまえさんと違って女の知り合いは少ない」
「またそういう言い方を」
「いや、マジな話。絶対どっかで会ってるんだが。誰だっけなあ」
立ったまま考え込んでしまうルキアーノの腕をトーラは揺さぶった。
「それは後でいいですから、早く呪文唱えてください。明日の出発に間に合わないと、マルタの大目玉が待ってますから」
「ああ、分かった分かった」
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