アクアイル王国物語

ナムラケイ

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踊り子アイリーン、見知らぬ勇者に慰められる。(2)

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 白い帆船 彼方に消えて  
 あたしは海辺で すすり泣く 
 嗚呼恋する港 ポーティアック
 あなたの腕が 待ちきれないの 
 碇を降ろして 船長さん
 嗚呼恋する港 ポーティアック

 床に胡坐を描いた奏者がリュートで甘やかな調べを紡ぎ、深みのあるテノールで歌い上げる。
 アイリーンは音楽に身を委ねて舞う。
 全身の筋肉を感じながら、指先の一仕草までおろそかにならないように意識を集中させる。
 振りはすっかり覚えていて、頭より身体が先に動き出す。 
 各国の旅人や外交官の溜まり場となっているマデリンの酒場に潜伏するために習わされたダンス。
 始めた頃はそうでもなかったけれど、今は踊るのが好きだ。
 踊っている間は何もかも忘れられる。
 無茶な情報要求ばかり送ってきて、いつも居丈高なデザイアの情報幕僚のことも。
 ポーティアックな善良な人達を裏切っていることも。
 いくつも持っている偽名や、頭に染みついている乱数表のことも。
 友達も恋人もいず、一生独身で、いつか任務に失敗した時には、人知れず始末され、お墓さえ建ててもらえず、デザイアの帝国軍情報部の追悼パネルに星をひとつ増やすだけという、自分のちっぽけな人生のことも。

 激しくアップビートのステップを踏むと、客席から拍手と歓声が沸き起こる。
 飛び散る汗。
 横で踊るサラの輝くような笑顔になんだか泣きたくなる。
 私はそんな風に笑えない。
 スパイ以外の生き方なんて知らない。逃げたところで行き場もない。身寄りもない。
 私はいつだって一人ぼっちで、居場所がない場所にひっそりと佇んでいる。
 

 私服に着替えたアイリーンは、興じている同僚たちに挨拶をして先に楽屋を後にした。
 従業員通用口にはガードマンが立っていて、扉を開けてくれる。
「ありがとう」
 アイリーンは視線を合わせずに礼を言い、右の掌に握っていた指輪をすれ違いざまにガードマンのポケットに落とし入れた。
「お疲れ様でした」
 制帽を目深に被ったガードマンもやはり視線を合わせずに答え、扉を閉めた。
 視線を落としたまま歩き始めたアイリーンは、その足元に影が差したのに気づき立ち止まった。

 目の前に男が立っている。
 村人のような質素な服装だが背に長剣を背負っているので、どうやら戦士らしい。
 長い前髪で顔の半分は隠れているが、機敏さは見られず全体に緩慢な印象。平たく言うとぼーっとしている。
 スヴェトラナとサラが噂していたパーティの一人だ。今日は客席にはいなかったはずだが。
「何か御用ですか」
 固い声で問うと男は短く言った。
「家まで送る」
「結構です」
 きっぱりと拒否して歩き出すが、男は並んでついてくる。
「やめてください。ガードマンを呼びますよ」
「東の海の両生海竜種が陸地に上がってきている。君の家は海辺だろう。危険だ」
「どうして私の家を知っているの? 第一、そんな話は聞いてない。危険があれば酒場にすぐに伝令がくるわ」
 男は質問には答えずに、面倒くさそうな仕草で、腰からぶら下げていた革袋から象牙色の物体を取り出した。
「何これ」
「さっき海辺で仕留めた両生海竜種の牙だ。伝令は殺された」
 よく見るとその牙にこびり付いている血はまだ凝固しておらず、鮮やかな赤色だ。
 速足で歩き続けるアイリーンに男はぴたりとついてくる。
 男の背負う剣を見ると、鞘は装飾も何もない古臭くてみすぼらしい。きっと中身もなまくらに違いない。
 仮にモンスターが現れたとしても、この男に頼るより自分で戦った方が早そうだが、これ以上断るのも面倒なので、アイリーンは男を無視することにした。
 草原を蛇行する夜の獣道を二人は黙々と歩く。

 男は漫然と歩いている。
 その歩き方は、緊張もなく、周囲を警戒するでもなく、到底剣士とは思えないものだ。
 この人はパーティでやっていけているのだろうか。
「旅の人でしょう。冒険は楽しい?」
 アイリーンは尋ねた。
「沈黙は苦じゃない。無理に会話をする必要はない」
 男はつっけんどんに言う。
「あなたに気なんて使わない。聞きたいから聞いてるのよ」
 そう返すと、男はしばし考えてから答えた。
「楽しいものじゃない。面倒だ」
 その言い方は本当に面倒くさそうだ。
「そんなに面倒なら辞めちゃえばいいのに」
「おまえはスパイを辞めたいのか?」
「ええ」
 反射的に答えてしまい、アイリーンは慌てた。
「そうじゃなくて・・」
 訂正の言葉を言い募ろうとした時、巨大な砂袋を引きずるような音が聞こえた。
 音はみるみる近づいてきており、ブシュッブシュッと水しぶきを吐きだすような水音が合間に混じる。
 持っていたランプを前方にかざし目を凝らすと、暗闇の中を象ほどの大きさの黒い影が動いている。
 凄いスピードだ。あっという間にその輪郭が露わになる。両生海竜種だ。
 エラの下の袋から粘液の塊が地面に吐き出された。腐った水の臭いが漂い、アイリーンの脚に飛び散った飛沫は強い粘度で、脚と地面を放さまいとする。

 アイリーンは素早く両手にジンカイトの扇を構えた。
 攻撃の間合いを測ろうとしたその時。
 一閃の光が闇を切り裂いた。
 ダイヤモンドの粒子が煌めくような眩い光だった。
 眩む目を凝らすアイリーンの目前で、両生海竜種の頭部がずるりと落下した。残された胴体は首から血を吹き出しながらしばらく悶えていたが、やがて動かなくなった。

 アイリーンは信じられない思いで男を見る。
 神々しいまでのきらめきを放つ剣を片手に有しながらも、男は先ほどと変わらず飄々としていた。男がいつ剣を抜き、いつ斬りかかったのか、全く見えなかった。
 その剣には一滴の血も残っていない。
 男が剣を鞘に納めると、あたりは元の暗闇に包まれた。
「牙は金になる。欲しければ取るといい」
 男は何事も無かったように言った。その前髪を、一陣の強い風が巻き上げる。
 現れた素顔のその瞳は金色で、アイリーンがこれまでに会った誰よりも強い意志を宿していた。アイリーンは唾を飲み込んだ。
 この人は、勇者だったのだ。
 光輝く道を進むことを定められた人なのだ。


 そして二人は草原を抜け、海岸沿いに立つアイリーンの下宿に着いた。
「あなた、名前は」
「カイ。おまえは」
「踊り子のアイリーン」
 答えると、男はもう一度問うた。
「おまえは誰だ」
 この時、アイリーンは初めて禁を破った。
 デザイアの孤児院に捨てられていた時、身に着けていたペンダントに刻まれていた名前。きっと私を生んだ人がつけた名前。
 その名を口にした。

 男は頷いた。
「職業に貴賤はないというのは真実だ。どんな汚れ仕事も、信念を持って取り組む限り価値がある。俺は漁師の子供で、勇者になど選ばれたくなかった。いまでも面倒だと思っている。だがやり遂げたいという信念は持っている。だから続けている。もしおまえが今の仕事に信念を持てないのなら、逃げてもいいのだと思う。代わりはいくらでもいるだろう」
 そう言うと、男は踵を返して元来た道を歩き出す。

 アイリーンがその背中を見送っていると、男は肩越しに振り返った。
「言い忘れた。あの焼き菓子は上手かった」
 男の表情は前髪でやはり見えなかったが、その口元はわずかに微笑んでいるようだった。

 アイリーンは部屋へ入ると、窓から海を眺めた。
 ザザン、ザン、ザザン、ザン・・
 満月がカスタードのような柔らかい光を海に投げかけている。
 水面で光が飛び散るその様に、アイリーンはデザイアの虹の泉を思い出す。
 信念ならあった。
 故国デザイアの国益のために。
 だが、帝国軍のスパイ養成所「ダレト機関」で刷り込まれたこの信念は、果たして私自身の信念でもあっただろうか。
 その答えはまだ出せないけれど。
 とにかく今は、目の前の仕事を片付けることだ。
 アクアイルの情報提供者にシモンを探るよう指示するため、アイリーンは机に向かうと通信文をしたため始めた。(了)
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