アクアイル王国物語

ナムラケイ

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賢者キリエ、転職を考える。

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 宿屋の簡素な部屋で賢者キリエは天井を見上げている。
 枕元の燭台のろうそくの火が、漆喰の天井に男の影を映し出している。
 男の動きに合わせ、影はゆらゆらと揺れる。
 男はキリエの両手に指を絡め、真っ白いシーツの上に押さえつけたまま、首筋に口づけた。
「蝶みたいだ」
 男の低く甘い声が耳元で囁く。 
 キリエは恍惚に身を任せながら考える。
 この人の名前、何だったかしら。
 
「また会えるかな?」
 身支度を整えながら、男が訊いてくる。
 キリエは宿の備品のマグカップに注いだ水を飲む。
 さっきまでの愉悦は霧が晴れるように消え失せ、窓越しの深夜の冷気で冷えた水はキリエの心を一層冷たくする。
「そうね、またそのうちに」
 夕方、酒場で会ったばかりの男だ。でも、もう二度と会わないだろう。
 社交辞令でそう言い、男を部屋から追い出した。

 宿屋のシングルルームは、5畳にベッドと箪笥があるだけだ。
 それでも、大部屋雑魚寝が標準のキリエたちには贅沢だ。
 アクアイル滞在中にパーティ全員がサブクエストに精を出し懐に余裕ができたので、パーティの会計担当を務める弓使いマルタが奮発して個室を予約してくれたのだ。
 清潔で快適な部屋だが、窓が小さいので情事の名残りが消えるには時間がかかる。

 空になった木製のマグカップに今度はワインを注いで、宿の屋上テラスへ出た。
 深夜のアクアイルの街は闇に包まれ、夜更かしをする家の灯りだけが蛍のようにぼんやり明るい。
 遠くの丘に見える真っ黒い大きな影は魔法学校だ。
 キリエはテラスのベンチに腰掛け、ワインをすすった。
 魔法学校での臨時講師の仕事は予想以上に楽しかった。
 教壇に立って生徒の視線を受けながら話すのは気持ちが良かったし、どう説明すれば分かりやすいかを考えるのは、普段とは違う思考回路を必要として刺激的だった。生徒はどの子も可愛かったし、生徒の成長をこっそり裏から支えるのも充実感があった。

「キリエ」
 同じパーティの黒魔術師トーラがテラスに現れた。
 右手にはワインのボトル、左手にはガラス製のワイングラスを二脚持っている。部屋の窓からテラスが見えたのだろう。
「ご一緒していいですか」
「お好きにどうぞ」
 トーラはキリエの横に腰かけると、器用に二つのグラスをワインで満たし、片方をキリエに渡した。
 残っていたワインを飲み干し、マグカップを床に置く。
 乾杯はせずにさっさと口をつけると、横でトーラが苦笑する。
 上等のワインだった。
「良いワインね」
「キリエを口説こうと思って奮発してみました」
「無駄な出費ね」
「割と本気なんですけどね」
 キリエは答えずに曖昧に微笑んだ。
 真剣に向き合う気がない物事は誤魔化すのが楽だ。
 今日は新月。頭上では夜空にビーズをばらまいたように星々がきらめいている。
 風の音だけが聞こえる。静かだった。

 無言でワインを半分ほど空けたあと、トーラが言った。
「いい加減、一夜限りの遊びはやめた方がいいですよ」
「女遊びをしているあんたに言われたくないわ」
「男と女は違います」
「違わないわよ。一所懸命働いたら、良い服を買って、美味しいものを食べて、美味しいお酒を飲んで、素敵な異性と寝たい。そういう欲求は男も女も関係ないわ」
 ワインで熱を持った身体に夜風があたり心地よい。
 トーラの手が伸びてきて、キリエの手からワイングラスを抜き取った。
 二つのグラスがベンチの後ろの塀の上に置かれる。
「なに?」
 グラスを取り戻そうとした右手をトーラに掴まれた。
「キリエ」
 低い声で呼ばれ、キリエは心の中で深いため息をつく。
 こういうのは、本当に、もう、いらないのに。
「あなたはいつもはぐらかすけど、僕はいつだって本気ですよ。女の子の友達は多いしデートだってするけど、あなたみたいに無闇に寝たりなんかしてない。キリエが振り向いてくれるなら、他の女の子の住所は全部破り捨てます」
「どうせ誰にでもそういうこと言っているんでしょう」
 こんな返し方しかできない自分が本当に嫌いだ。
 真剣に思いを伝えてくれる男の人に、ああもう後生だからこういうのはやめてほしいなんて思ってしまう私は、なんてみっともない。

 振りほどこうとした手は更に強く掴まれる。
「キリエ」
 その声は低く強く、トーラの漆黒の瞳は容赦なくキリエを捕らえる。
「前のご主人と離婚してからもう随分立つでしょう。そんなに恋愛に臆病にならなくてもいいんですよ」
「分かってる。でもまだ無理なの。ごめんなさい」
 キリエはうつむいた。
 魔法研究所時代に結婚した同僚の男は、キリエの上司の女性とどこかに行ってしまった。
 一番愛していた人に捨てられた痛みは忘れられない。深入りして好きになって、そしてまた捨てられたら、今度こそ立ち直れない。
「ごめんね」
 キリエは心から謝ってふんわりと笑う。
 その笑い方、好きなんですよねとトーラが呟き、席を立つ。
 その背中におやすみと声をかけてから、キリエはトーラが残していったワインのボトルの残りをグラスに注ぎいれた。
 一流の賢者でも、恋愛に関しては愚者だ。


「この靴すごく素敵だわ」
 防具屋の棚に並ぶ淡いピンクのピンヒールとばっちり目が合ってしまい、キリエはうっとりと呟いた。
「どれどれ? え。これ、7万ギルもするのに防御力1しか上がらないじゃない」
 同じパーティの弓使いマルタは、ピンヒールにぶらさがった値段を確認し苦言を呈する。
「おしゃれ度は10上がるわよ。ほら、今度アクアイルでもおしゃれコンテストあるじゃない。賞金100万ギルよ」
「勝つための投資の方が賞金より高いわよ。あんなの、買い物心を煽るための商工会の罠だもの」
 マルタはキリエより年下だが、倹約家でしっかり者だ。

 今日は女子二人でお買い物の日。
 ティトの道具屋でアクセサリーを購入したあと、防具屋へ回ってきたところだ。
 そういうマルタが手に持っているのは、膝丈の空色のスカートタイプの防具だ。
 動きやすさ重視でショートパンツやチューブトップを選ぶことが多いマルタには珍しいチョイスだ。
「珍しいじゃない。膝丈スカートなんて」
 店主のニッコロにウェストのサイズ直しを頼むマルタに言うと、
「ルシオがあんまり肌見せるなって言うから」
 うっかり答えてしまったのだろう。
 マルタはあっというふうに口元を押さえた。
「へええええ。あの、堅物の、ルシオが、そんなことを」
 追及すると、マルタは店の端っこの方までキリエを引っ張っていき、真っ赤な顔で言った。
「後でお茶するときに言おうと思ってたんだけど。昨日、改めて告白されて、OKしたの」
 武闘家ルシオとマルタが互いに意識しているのは、見ている方が恥ずかしくなるほどに分かりやすかった。前回アクアイルに来た時に何かあったらしく、長らくどぎまぎしていた二人だが、どうやら納まるところに納まったらしい。
 俗にパーティ・マジックと呼ばれるパーティ内恋愛だ。

「おめでとう」
 キリエが祝福すると、マルタはにっこり笑った。
 日に灼けた顔に浮かぶ満開の笑顔は、陽光を浴びるひまわりのように眩しい。
 マルタはちょっと口うるさいけどいい子だし、ルシオも男気があっていい奴だから、二人が幸せになるのはキリエも嬉しい。
 でも。
「お祝いに、そのスカート、プレゼントしてあげる」
 全力で遠慮するマルタを押しのけて会計をしながら、キリエは考える。
 この先一緒に冒険を続ける間、らぶらぶな二人を傍で見ているのは、ちょっときついかもなあ。


 二人で夕食を取ったあと、宿へ戻るというマルタと別れ、キリエは一人で酒場へ向かった。 
 カウンターに座ると、マスターのロレンツォは注文も聞かずに戸棚から高価なガラス製のリキュールグラスを取り出し、薄黄緑色のとろりとした液体を注ぎいれた。
「どうぞ、お嬢さん」
 ロレンツォがハーブの街リムールから仕入れているミントのリキュールは最近のお気に入りだ。
 リキュールをするすると喉に流し込むキリエに、ロレンツォが囁いた。
「今日はまだいい男は来てないわよ」
 キリエは苦笑する。
「そうそう毎日遊び相手を探してるわけじゃないわ」
「それは失礼」
 美青年のロレンツォはウィンクをして、
「でも気を付けて。あなたって、見た目はふんわりして癒し系なのに、中身は男よりも肉食系かと思えば、やっぱりどこか危ういとこあるんだもの」
 と諭した。

 酒場は適度に混んでいる。
 カウンターの棚には、木製や陶器やガラスの色とりどりの酒瓶が並び、ランプの光をきらきらと反射する。
 カウンター席とテーブル席の他に、素焼きのタイルを敷き詰めた床には立ち飲み用のテーブル代わりに背の高い樽が置かれている。
 壁には、サムアップをする勇者のイラストの横に「君も冒険へ出よう! パーティ候補者名簿への登録はロレンツォの酒場まで」と書かれたポスター。

 店内を見回していると、奥のテーブル席に目立つ二人組が座っていた。
 長い金髪の驚くほど美形の男に、小柄な赤毛の少女。少女は何やら理屈詰めにするように男に語り掛けている。
 少女の方がキリエに気づき、ぴょこんと椅子を飛び降りるとキリエの横に来た。
「こんばんは。キリエ先生」
 白魔術師アガサは魔法学校の優秀な生徒で、サブクエスト中、キリエの教え子だった。
「こんばんは、アガサ。私、もう先生じゃないけどね」
「私にとっては先生は先生です」
 アガサはキリエの横のスツールに腰かけた。
「ルチアが竜盤類に襲われた時のことって、先生の仕込みですよね」
 速球で不意を突かれ、キリエは素直に認める。
「どうして気づいたの?」
「あんなにタイミングよくモンスターが現れるなんておかしいです。私が連絡事項の伝達を忘れたのも、ミスカと偶然会ったのも、ルチアが森へ向かったのも、先生なら悟られずに魔法でできるでしょうし。あの時はパニックになってたから、気づいたのは次の日になってからでしたけど」
 アガサは理詰めでてきぱきと話す。あの王立図書館館長にもこの調子で話していたのだろう。
「正解。うちの勇者は元魔物使いだから、口笛を吹いてもらったのよ。流石、学年2位ね」
「それ、嫌味に聞こえます。成績、一度もミスカを追い抜けないんですから」
 とアガサは頬を膨らませる。

「それよりアガサ。あの人、図書館のシモン館長でしょう」
 アガサの連れの金髪の男をちらりと見やりながら話題を変えた。
「はい。私、魔法学校の入学前に図書館でバイトしていたので」
「余計なお世話だけど、彼とはあまり付き合わない方がいいかもしれないわ。あの人は、良くない話があるから」
 魔法研究所同窓会のネットワークは強固で、同窓生に小まめにコンタクトを取っていれば、魔法業界、特に王宮周辺のあらゆる噂が耳に届く。
 ここ最近の話だが、王立図書館館長が背任行為に手を染めているという噂は、誰も証拠は掴めていないながらも、まことしやかに囁かれていた。
 小声で注意すると、アガサは意外にもすぐに頷いた。
「館長が何をしているか知っています。私が知っていることを館長も知っています」
 そう答えるアガサの表情は少女のそれではなく、分別をわきまえた大人のものだったので、それ以上追及するのは止めにする。
「良し悪しが自分で判断できているなら構わないわ」
「はい。ご心配いただきありがとうございます」
 アガサは丁寧に礼を言うとスツールを降りた。
「じゃあ、席に戻りますね。先生、また先生しにきてくださいね。先生の授業、すごく面白かったです。あのルチアだって、先生の授業だけは一回もさぼったことないんですから。それって凄いことです」
 ぺこりと頭を下げ、館長の元へ戻っていくアガサの小柄な背中を見つめながら、その言葉を反芻する。 思わず顔がにやけた。
 褒められて、嬉しい。
 魔法学校の生徒の顔をひとしきり思い出してから、ロレンツォに声をかけた。
「マスター。候補者名簿を見せてくれない?」


 翌日の早朝。
「カイ。私、パーティを出るわ」
 荷物をまとめたキリエが率直に申告すると、パジャマ姿で惰眠を貪っていた勇者カイは、身も起こさずにあっさり頷いた。
「ん。いつから?」
「今から」
「了解」
 カイは頷いて、ようやくベッドから出る。
「あー、新しいメンバー探すの面倒くせーなー」
 寝乱れた髪をがしがしと掻くだらしない姿に、キリエは微笑んだ。
 戦闘力は抜群に高いくせに、モンスターとの戦闘中でさえ面倒くさがるこの勇者をキリエは割と気に入っている。
「そう思って、候補者は探しておいたから。後でロレンツォの酒場に行ってみて」
「おー、立つ鳥なんとかだな。最初の契約通り、自分の装備は全部持って行っていいから」
「ありがと。じゃあ、お世話になりました」
「いえいえこちらこそ」
「みんなによろしく伝えて」
 3人はそれぞれ自分たちが原因かと余計な気を病むだろうから、直接別れは告げずに出ていくと決めていた。
「おう」
 カイは親指を立てる。長めの前髪に隠れて表情はよく見えないが、多分微笑んでくれている。
 キリエはカイに背を向けた。右手を軽くあげ、振り向きはせずに宿屋を出る。
 初夏の爽やかな風が吹き抜けた。
 さて、まずはギルドへ行かないと。
 パーティは、出会いも簡単なら別れも簡単。
 恋愛も、こんなふうに簡単だったらいいのに。(了)
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