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ナムラケイ

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上海エレジー

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 その街はかつて魔都と呼ばれた。
 租界時代から100年を経た今も、上海には奇妙な魅力がある。街そのものが、得体の知れない大きな獣のように息づいている。
 夜風を全身に受けて、柚月ゆづきは深く呼吸する。幼い頃に一度来たきりの街なのに、長い間ここで生活しているかのように、吸い込んだ空気は身体に馴染んでいく。

「風、気持ちいいね」

 呟くと、隣を歩く吉高よしたかは立ち止まり、外灘の夜景を灼きつけるように瞬いた。

「うん。「上海グランド」の世界にいるみたいだ」

 風に乗って水の匂いが漂ってくる。上海を南北に流れる黄浦江。水はミルクティーのようにとろりとしている。決して澄んだ清川ではない。そこがいい。
 その川沿い、外灘ワイタンに並ぶ西洋建築は温かな黄金こがね色にライトアップされている。
 まばゆいネオンではなく、夜を邪魔しない温かい光だ。

「留学先、上海にして良かったよ」

 吉高の言葉に、柚月は少し申し訳ない気分になる。吉高はいつもそうだ。柚月に合わせてくれる。

「なんか、ごめん。おまえの成績なら、北京大でも清華大でも選べたのに」
「いいんだよ。俺が自分でそうしたかったんだ。有名大に行くより、おまえと一緒の方が楽しいからな」

 吉高の微笑みが夜に溶けていく。
 柚月と吉高は幼馴染み、いや、世間で言う幼馴染みよりもずっと「幼馴染み」だ。
 家が隣同士で母親同士が友人で、同じ病院で同じ月に生まれた。幼稚園から小中高までずっと同じ。
 名字が佐藤と佐々木だから出席番号も近かったし、なんならイニシャルまで同じだ。二人とも中国の古典文学が好きで、それが祟って地元のT外大の中国語学科に入学した。
 T外大は海外への短期留学を必修単位にしているのが売りで、提携している大学は数多いのに、吉高は柚月と同じF大学を選んでくれた。

 外灘から繁華街の南京ナンキン東路トンルーに出ると、街は一気に世俗を帯びる。飲食店や電気屋、服屋が雑然と並び、地元民も観光客も楽しそうに歩いている。

「飯、食って帰るか」
「うん」

 こういう時、何食べたい?と相談したり、グーグルマップで店を探したりしない。
 腐れ縁だから阿吽の呼吸で分かる。歩いていて、目についた店に入るだけ。目につく店も大体一緒。
 入った店はガチガチのローカルで、写真も外国語表記もないメニューには麺類が5種類のみ。潔い。
 一番安い炸醤ジャージャー麺は、メラミンの容器に大盛りの麺、肉味噌がかかっただけのシンプルな一杯だった。お値段30元。なんてリーズナブル。
 コシのある卵麺に甘辛の味噌が絡んで大盛りなのに一気に平らげてしまった。

「僕、ここに住みたいな」

 膨れた腹をさすってそう言うと、吉高が笑う。

「単純だな。一杯のソバくらいでほだされるなよ」
「ごはんだけじゃないよ。空港に降り立った瞬間、なんだかすごくしっくり来て、思ったんだ」

 気恥ずかしくて言葉には出来なかった予感を心の中で呟いた。

 いつか僕はこの国に住むんだ、って。


 ***
 F大の寮は昔懐かしい作りだった。床は板張りで、二段ベットも机も本棚も収納もすべて木製だ。床や壁の傷や汚れ、テープの貼り跡に、何百人もの学生の生活が垣間見える。

「結構古いな」

 吉高はそう言うが、柚月はこういう雰囲気を「古くさい」ではなく「レトロ」と感じる方だ。

「そうかな、僕はこういうの好きだよ」
「ならいいけど。ベッド、どっちがいい?」

 こういう時、吉高は必ず柚月を優先してくれるので、遠慮せずに答えた。

「下」
「じゃ、俺は上な」
「ありがと」

 明日からは授業だ。さっさと寝てしまおうと電気を消すが、なかなか寝付けない。
 枕が変わったのもあるが、肌寒いのだ。8月下旬だが今年は冷夏。寮のクーラーは効き過ぎている。

「吉高。クーラー、切ってもいい?」
「空調は建物でまとめて管理されてるそうだ。俺らには操作権限なし」
「……じゃあ、そっち行ってもいい?」
「は? なんで」
「寒いから」
「いや、おかしいだろ」
「中学まではよく一緒に寝てただろ」
「よくじゃない。おまえの両親が出張でうちに泊まりに来た時だけ。それだって、おまえが床に布団じゃ寝れないとかって俺のベッドに勝手に潜り込んで来たんだろ」
「ふは。よくそんな説明くさい台詞喋れるね。どっちでもいいから、温め合おうよ」

 ベッドを抜けだしてハシゴを登ろうとすると、ぺしりと頭を叩かれた。

「痛い」
「分かったから、俺がそっちに行く。上に二人とか、バランス悪くて怖い」

 吉高は体温が高い。入ってくるなり寝床がぬくぬくになって、柚月はまどろむ。気持ちいい。

「柚月。狭くないか?」
「へいき」
「ちゃんと布団かぶれよ」
「うん。…っ」

 柚月はびくりと身体を震わせた。
 ブランケットの位置を調整してくれる吉高の手が不意に股間に触れたのだ。

「あ、悪い」
「…うん」
「てか柚月、おまえ」
「言うな。それ以上言うな。ぬくくてちょっと気持ちよくなっただけだ」

 早口で弁解する。茶化しそうなものなのに、吉高は息を潜めた。

「抜いてやる」
「は? 何言ってんの」
「そのままだとつらいだろ。今からトイレまで歩くのは寒いぞ」
「いいよ。我慢できる」
「我慢したらまた眠れなくなる」

 ずぼりと手がパジャマの中に入ってくる。いや、パジャマじゃない、パンツの中だ。
 熱い指先で敏感な部分を包まれ、息をのんだ。

「や、めろって。マジで。吉高!」
「大声出すな。隣に聞こえる」
「だから、やめろって」
「しーっ」

 しーっじゃない。
 本当に、まずい。だって、これ。吉高の手、気持ちいい。
 中学の時とかこんなに気持ちよかったっけ。あの時はただこすって出してただけで。
 こんなふうに、くちくちいじられたりしなかった。

「あ、や、やめ」
「やめない。濡れてるし」
「…っ」

 身を守るように背中を丸めようとしたが、吉高は許してくれなくて、肩口を押さえつけられた。

「好きな時にいけよ」
「誰が…っ」
「だっておまえ、さっさとイかないとずっとこのままだぞ。まあ、俺はそれでもいいけど」
「なんだよそれ。…なあ、ほんと、マジでやめて」
「ほら、イけって」

 耳に注ぎ込まれる声はいつもよりトーンが低くて。暗闇で吉高がどんな顔をしているのか見えなくて。
 どきどきしながら訳が分からないうちに達してしまった。

 賢者タイムを満喫しながら、こんなことされたら逆に寝れないだろなんて思っていたのに。

「めっちゃ寝れた」
「良かったな」

 すっきり目覚めた柚月に吉高は至って普通に早上好(おはよう)と返してきた。


 ***
「うわ、食堂激込みだね」
「へえ、ハンバーガーって汉堡包って書くのね」
「なあ、何食う?」
「おい、さっきの授業の課題ってさ」

 肌も髪も瞳も色が違う。それぞれ国籍が異なる学生達が、中国語というひとつの言語でコミュニケーションをしている。言葉って凄いな。
 セルフサービスの学生食堂で、しみじみそんなことを思いながら柚月はトレイを手に取った。寮の朝食の粥が美味くてつい食べ過ぎてしまったので、あまり腹が空いていなかった。
 三明治サンドイッチ玉米汤コーンスープだけ取って、レジに並んで財布を開く。

「あ」

 しまった。学生カードを忘れた。
 昨日、書類に学生番号を書くために使ったまま、机に放置してしまったのだ。学生食堂の支払いはチャージ式の学生カードのみで現金が使えない。
 焦る柚月と困り顔の店員の前に、すいっと学生カードが差し出された。

「支払い、一緒で」
「え、でも」

 髪の毛をピンク色に染めたファンキーファッションの女の子がウィンクをしてくる。

「いいから。後ろ、つかえてるしね」

 確かにレジ行列ができている。善意に甘えて会計を済ませ、列を離れた。

「代金、現金で返すよ」
「いいって、今、両手塞がってるし」
「じゃあ、学部と名前を教えて」
「工学部の梢文花チャオウェンフア。今度会えたら、おごってくれればいいから。じゃあねー」

 陽気に語尾を伸ばして、文花は学生の中に消えていく。そのブーツの底は竹馬みたいに高い。
 思いがけぬ優しさに触れて、柚月は頬を緩ませた。
 前にT外大の食堂で財布を忘れたことがあって、その時は後ろの学生に舌打ちされた。
 その人次第だと分かってはいる。どの国にも良い人も悪い人もいる。それでも。
 上海ここの人は親切だと思う。
 遅れて食堂に来た吉高に開口一番、「僕もうここに住む」と宣言すると、吉高は破顔した。

「今、住んでるだろ」
「そうじゃなくて…んぐっ」

 弁明しようとすると、口に焼売を突っ込まれた。

「ほら、これも食えよ」
「…はふ、熱っ。って、からひつけふぎ」
「酢と辛子は多めが上手い」
「涙出てきた」
「泣くな。男の子だろ。ほら、早く食わないと授業始まるぞ」

 なんて。朝起きてからベッドに入るまでは昨夜のことなど無かったかのように健全な友達ムードだったのに。なのに。

「…ちょっと待て。吉高。なんでこうなる」
「柚月が好きだから」
「はあ?」
「ずっと我慢してたけど、昨日のでタガが外れた」

 夜、寮のベッドで親友にのしかかられ、柚月は息を詰めた。
 吉高はお調子者に見られがちだが心底真面目な奴だ。夏休みの宿題を最初の一週間で終わらせるくらい生真面目。こういうことで冗談を言う奴ではない。

「おまえ、ゲイなの」

 ストレートに聞くと、吉高は深刻に悩んで見せた。

「どうだろう。柚月が好きってことはそうなのかな。柚月以外、他の女の子も男も好きになったことはないから、分からないけど」
「好きにならなくても、ズリネタとかで自分の性癖くらい分かるだろ」
「それも柚月だけど」
「……」
「はは。顔、真っ赤」

 嬉しそうに笑って、吉高の顔が近づいてくる。
 親友の距離を超える至近距離。
 避ける猶予はあったけれど、硬直して動けなかった。
 唇が触れる。想像よりもずっと柔らかくて、さっき飲んだ茉莉花茶の香りがした。

「本当に嫌だったら、 不行ブーシンって言って。それがセーフワード」

 ストッパーを与えると、吉高は柚月のパジャマに手をかけた。
 その後の吉高の行為は、経験のない柚月でもこれはいくらなんでも丁寧すぎるだろうと分かるほど丁寧だった。
 少しずつ時間をかけて身体を開かれる。隅々まで暴かれる。その恥ずかしさを初めて知った。
 甘やかで優しくて。痛くて苦しいのに気持ちよくて。柚月の中に恐る恐る入ってくる吉高は切なげに眉を寄せていて。
 二十年一緒にいても、知らない顔ってあるんだな。
 溶ける意識の合間に、そんなことを思った。

 そして僕らは、ただの親友からセックスもする親友になった。


 ***
 上海は国際都市だが、F大学は中心部から離れた場所にあるのでよくも悪くも勉強に集中できた。
 学生たちは、平日は寮の机に齧りついて課題をこなし、週末になると地下鉄で繁華街に出る。
 柚月と吉高も例に漏れず、南京路や福州路で本屋や服屋をぶらついて、炸醤麺を食べて、外灘で夜景を見て帰るのが定番コースだった。
 福州路の書店「上海書城」は二人の気に入りの場所のひとつだ。7階建ての大型書店で、一日いても飽きることがない。
 5階で新しい中日辞書を買ってから、中国文学のコーナーに移動し、柚月は書架にぴたりと納められた三国演義の背表紙を指先でなぞった。日本の書籍とは紙の感触が違う。

「凄いな。三国志だけでこんなに種類がある」
「買うのか」
「欲しいけど、一冊でも予算ぎりぎり。赤壁の戦いの巻だけ買おうかな」
「柚月は相変わらず周瑜推しか」
「カッコいいだろ、周瑜。僕が女だったら絶対周瑜と結婚する」

 力説する柚月に、吉高は呆れ顔だ。

「おまえそれ、ライバルが小喬だぞ」
「う……それは、勝てる気がしない」

 周瑜の妻、小喬は絶世の美女なのだ。

「柚月は見かけによらず、分かりやすいイケメンキャラが好きだよな」
「見かけによらずってなんだよ。おまえこそ、夏侯惇が好きとかちょっと変わってるよね」
「夏侯惇は人気高いんだぞ。男気がハンパない」
「確かに、自分の目玉を食べちゃうとか僕にはできない」

 幼い頃から何百回としてきた三国志キャラ談義だ。いくらでも話していられる。
 柚月は赤壁の戦いの巻を探し出してページを捲る。

「挿絵も綺麗だ」
「どれ」

 吉高が手元の本を覗き込んでくる。

「本当だ。挿絵だけでも見る価値あるな」

 至近距離で話す吉高の首筋からふわんと吉高の匂いが漂った。
 親友を超えた距離まで近づいた時にだけ分かる、吉高自身の匂い。

「っ! 近いって」

 反射的に身を引くと、吉高はあからさまに傷ついた顔をした。

「ごめん、びっくりして」

 咄嗟に謝るが、心臓の音が止まらない。

「びっくりって、俺、何かしたか?」
「そうじゃない、けど」
「じゃあ、なんで避けた。弁解しないと、俺、傷ついたままなんだけど」

 吉高は誤魔化されてくれない。柚月は俯いてぼそぼそと呟いた。

「…違う。その、今、おまえの匂いがして、その、なんか、思い出して」

 それを聞いた吉高は、柚月から三国演義を奪うと書架に戻した。手首を掴まれ、出口の方に強引に引っ張られる。

「もう帰るの?」
「寮に帰る」
「夕飯食べて帰るんじゃ」
「可愛いこと言われて勃った。飯なんて食ってられるか」
「…っ、馬鹿」

 そんな、恋人めいたやりとりが嬉しくて楽しかった。まだ、この頃は。


 ***
 留学一ヶ月。
 生活に慣れた留学生の間では、小旅行が流行っていた。一番人気は、日帰りで風光明媚な昔の中国が味わえる蘇州。
 柚月と吉高が最初の旅行先に選んだのは、上海の西にある無錫むしゃく市だった。無錫には太湖たいこと言う広大な湖があり、その畔には柚月の祖父が住んでいる。
 祖父は中国人で、日本人の祖母と結婚した後は長らく日本で暮らしたが、数年前、祖母の他界と同時に祖国へ戻りたいと言ってひとり中国へ戻った男だ。

「おじいちゃん、久しぶり」
「柚月、よく来たな。ああ、佐々木君も。随分久しぶりだね」
「こんにちは。ご無沙汰しております」

 マオカラーの中国服を着た祖父は元気そうだった。祖父が中国語で話したので、柚月も吉高も中国語で返す。
 祖父の家は昔ながらの中国建築だった。
 くすんだ白漆喰の壁に黒い瓦。木製の扉は褪せた緑色に塗られ、「福」の文字のタペストリーが逆さまにかかっている。門は月のようなアーチを描き、窓も丸い。
 広い家ではないのに開放感があって、懐かしい香木の香りが漂っている。
 居間の家具は中国の老人たちが好むマホガニーだ。透かし彫りが見事な椅子に座り、そのノスタルジックな空気に柚月はうっとりと瞼を閉じた。
 祖父は裕福なわけではない。年金の他、ほそぼそと翻訳の仕事をして糊口を凌いでいる。家や家財道具はすべて先祖から代々引き継いできたものだ。

「典型的な老房子ラオファンズだな。ここまで見事に維持されているのは凄い」

 吉高が言った「老房子」とは、中国の古い家の意味だ。近代化で数が劇的に減っている老房子は不動産価値が高いと聞く。
 窓際には麒麟や鳳凰といった縁起物の置物が並び、壁には二胡を奏でる女の掛け軸がかかっている。
 調度品のひとつひとつに感想を言い合う柚月と吉高に、祖父は茶を出してくれた。
 蜂蜜を垂らした菊花茶は甘くて良い香りがする。今、この現代中国で、これほど清貧で優雅な生活をしている人がどれだけいるだろうか。

「おじいちゃん。この家、すごく落ち着くね」

 茶を味わう柚月に、祖父はそれは当然だと言った。

「おまえの4分の1は中国人だからな。小さい頃、ここに遊びに来た記憶も残っているんだろう」
「子供の頃は、もっと大きな家だと思ってた」
「それはおまえが大きくなったからだろう」

 祖父はお茶請けの棗の蜜煮を皿に盛り、続けた。

「人間は、自分が落ち着くと思う場所にいるのが一番良いんだよ」
「……だから、おじいちゃんも上海に戻ってきたの」
「そうだな」
「そっか。僕も、いつかこういう家に住みたいな」

 それは本心だった。
 ここは、とても落ち着く。日本で両親と住んでいる清潔で快適な近代住宅よりも、ずっと居心地がいい。
 もう一度深呼吸をする柚月に、祖父は静かに言った。

「住みたいと思うなら、いつでも来ればいい」

 カタンと、吉高が音を立てて茶碗を置いた。

「おじいさん。本棚を見させてもらってもいいですか?」

 話を打ち切るかのように急に大きな声を出した吉高を興味深そうに一瞥し、祖父は首肯した。

「勿論。廊下に出て突き当たって右側が書斎だ」
「ありがとうございます。柚月、行こう」

 床から天井まで書棚が詰め込まれた祖父の書斎で、柚月は尋ねた。

「吉高。なにか怒ってる?」
「別に怒ってない。そんなふうに見えるか?」
「……いや、怒ってるっていうか。なんか、不安そうに見えて」

 吉高は答えずにキスをしてくる。
 ちゅっと音を立てられ、柚月は唇を押さえた。

「吉高。ここでは駄目だ」
「夜は我慢するから」
「当たり前だ。こういう家は声筒抜けなんだから」
「だから、キスだけ」
「駄目」
「どうして」
「おまえ今、何か誤魔化すためにちゅーしてる」
「変なところで聡いよな、おまえは」

 吉高は苦笑して柚月から離れた。

「上海に来てから、なんだか、柚月が遠くに行きそうな気がするんだ。おかしいよな、生まれた頃から一緒にいて、今は一番近い関係にあるのに、こんなふうに思うなんて」

 柚月の手のひらに口づけて、吉高が呟く。うまい答えは返せなかった。


 ***
 それから、吉高は一層頻繁に柚月を抱くようになった。
 それはまるで焦燥にかられたような生き急ぐような、激しくて切羽詰まった性交だった。
 行為のあと、ぐったりとベッドに沈み込む柚月の髪を、吉高はいつも優しく撫でた。

「ごめん。止められなくて」
「いいけど、疲れた」
「晩飯、行けそうか?」
「…無理。今ちょっと、腰が立たない」
「じゃあ、皿ごと持ってきてやる。今日は八宝菜らしいぞ」
「うずら多めで」
「無理だろ」

 何度も達した後の甘いだるさに身を浸していると、枕元のスマホが鳴った。母からだった。

「柚月? 元気?」

 明るい声が飛び込んでくる。スピーカーにしているのか、小さく音楽が聞こえてくる。

「うん、元気だよ。母さんは?」

 見えるわけもないのだが、裸でシーツにくるまっているのが気恥ずかしくて、喋りながらTシャツとトランクスを身に着けた。

「勿論元気よー。今、そこに吉高君いる?」
「いや、あいつは飯食いに行ってる」
「あら、一緒に食べに行ってないの? 今、冴子さんが来てて、折角だから4人でスカイプしましょうって話してたのに」
「こんにちはー、柚月君。うちの馬鹿息子が迷惑かけてない? 留学ももう折り返しでしょ? 半年なんてあっという間よね」

 電話越しの矢継ぎ早の質問に柚月はたじろぐ。

「僕は後で食べようと思って。あと、吉高は迷惑とかは全然ないです。洗濯とか、僕の分もマメにやってくれますし」

 あなたがたの息子2人はセックスする仲になっていて、一緒に食堂に行っていないのは、さっきまで散々やらしいことをされた結果腰が立たなくなったからです。
 なんて、言えるわけがない。

 母二人は、留学生活や食生活についてひとしきり聴取をした後、柚月の弟の葉月に彼女が出来た話で大盛り上がりしている。

「柚月君も吉高も、そっちで彼女できたりしないの?」
「いや、してないです。僕も、吉高も」
「あらあら、折角の留学生活なんだから、楽しまないと」
「やあねえ冴子さん。この子たち来年には帰国するのに、遠距離恋愛を推奨してどうするのよ」
「だって、吉高ってばいつまでも柚月君にべったりで逆に心配なんだもの」
「仲良きことは美しきかな、でしょ。そうそう柚月、葉月の彼女ね、美月ちゃんって言うのよ。カップルで月がつくなんて運命みたいよね」
「私も会ったけど、しっかりしたお嬢さんだったわよー。吉高はぼーっとしたとこがあるから、ああいう凜々しい系のお嬢さんを見つけてくれるといいんだけど」

 母たちのマシンガントークに相槌を打ちながら、柚月はふと思う。
 そっか。僕らはどちらも男なんだよな。
 いや、分かってたよ。それは勿論、分かっていたんだけれど。
 吉高は僕のことを恋愛的な意味で好きだと言てくれる。でも、僕はどうなんだろう。
 どちらにせよ、僕らはいつか、彼女を作ってその子を互いに紹介し合ったりして、最終的には結婚だってするのだろう。
 そうしたら、もう。
 柚月はベッドの上で視線を落とす。太腿には吉高の唇の跡が花びらのように散っている。
 今は紅色のそれは、数時間後には鮮やかさを失い、内出血の痣となる。

「柚月? どうかした? 急に黙っちゃって」
「ごめん。母さんたちのおしゃべりに圧倒されてた」
「あらあら、ごめんなさいね。喋りすぎちゃって」
「いや全然。久々に声聞いて楽しかったから。でも、ごめん、ちょっと友達が来たみたいだから、もう切るね。吉高がいる時にこっちから連絡するよ」

 それ以上話しているのが辛くなって、柚月は早口で言い訳を紡ぎ出し、通信を切った。


 ***
 それは、留学終了を1週間後に控えた夜だった。
 柚月と吉高はいつものように寮の狭いベッドで睦み合った。
 吉高とのセックスが好きだ。
 気持ちよくて、苦しいのに甘くて、夢中になる。終わって冷静になった後はいつも死ぬほど恥ずかしくなるのに、キスされるだけでそんなことはどうでもよくなって、また求めてしまう。
 手放したくない。けれど。

「柚月」

 後背位の方がお互い楽だけれど、吉高はいつも顔を見てしたがる。
 脚を高く開いて局部を晒すと、後ろがひくついているのが自分でも分かった。

「じろじろ見るなよ」
「いいだろ、エロくてすげえ興奮する」
「いいから、も、早く」
「痛かったら言えよ」
「うん……んっ」

 ぬるりと吉高が入り込んでくる。
 最初はいつも苦しくて、けれどすぐに馴染んで、自分の中が快楽に収縮するのを自覚する。
 吉高は固くて熱くて、内側を擦られると死ぬほど気持ちいい。
 ずっと溺れていたい。

「柚月、何考えてる」
「……吉高のこと」
「嘘つくなよ」
「…っ、あ、ああっ!」

 嘘をついた罰とばかりに吉高が腰を深く埋め込んだ。ぞわりと肌が波打つ。

「あ、や、深っ…」
「動くぞ」
「やだ、だめ。…っ、あ、ダメだって…あ、あん…!」
「セーフワード、教えただろ。本当に嫌だったら、使わないと」
「…だって、嫌じゃない……んんっ」
「柚月」

 吉高が動きを早める。肌がぶつかる音がする。結合した部分がいやらしい水音を立てている。
 後ろだけで達するのが怖くて、自分で前を触ろうとしてその手を捉えられる。

「や、なんで…っ。擦りたいのに」
「擦らなくてもイけるだろ、おまえ」
「だって、あれ、苦しいのに」

 生理的な涙が出る。つらくて苦しくて気持ちよくて、なんだかよく分からなくなる。脳が溶けそうだ。
 泣きながらねだると、吉高が可愛い顔と目尻を下げる。

「しょうがないなあ」

 そう言って吉高は、腰を動かしながら前を触ってくれる。
 熱い指で裏筋を擦られ、柚月はあっけなく達する。

「柚月、もうすこし頑張って。俺、まだだから」

 うん、いいよと答えようとしたのに、漏れるのはあられもない声ばかりでだ。
 身体もシーツも汗と精液でどろどろになるほど抱かれて、柚月は気を失った。


「起きた?」
「うん。あれ、僕」
「飛んでた。で、そのあと寝てた」
「そか」
「無理させて悪かった」
「いいんだ」

 柚月は身を起こす。身体は清められていて、肌もシーツもさらさらしている。

「吉高」
「ん?」

 振り向いた吉高の胸に縋るようにして、口づけた。
 今までで一番、丁寧に、心を込めてキスをした。

「柚月。どうした?」
「吉高。不行ブーシン

 吉高の目が見開かれるのを間近で見つめる。その唇にもう一度キスをする。
 触れ合う肌の体温。その心地よさへの未練を断ち切って、吉高から離れた。

「これが最後のキスだよ」

 吉高は柚月を見つめ、「分かった」とだけ言った。

「いいの?」
「いいよ。俺はいつだっておまえを優先してきただろ」

 怒るだろうか傷つけてしまうだろうか喧嘩になるだろうか。切り出す前の緊張はすべて杞憂だったらしい。
 吉高は凪のように静かだった。その瞳にはただ諦めだけが宿っている。

「勘違いするなよ。俺は別れたくないし未練しかない。だけど、いつかその言葉を使われるんだろうなって分かってたからな。おまえ、ずっと迷ってたし、この関係をどうすればいいのか困ってただろ」
「…うん」
「関係を続けるには覚悟がいる。俺にはその覚悟があるけど、おまえは覚悟を持つ以前の段階だろ」

 口に出せなかった思いを的確に言葉にされ、柚月は唇を嚙んだ。

「吉高は、いつも全部お見通しなんだな」
「そりゃあな。更に見通しなことに、おまえは来期も留学を継続して、そのままこっちの大学に編入して、おじいさんと住む。そうだろ?」

 柚月は本当に驚いて吉高を見上げた。
 吉高には何も言わなかった。留学延長も編入も資料や書類は引き出しの奥にしまって、こっそり進めていたつもりだったのに。

「なんで、全部知って」
「言わなくても分かるんだよ。おまえのことなら全部。二十年ずっと見てきたんだから」
「黙っててごめん」
「謝ることはない。おまえの人生なんだから」
「僕、おまえには一生勝てない気がする」
「ははっ、そりゃ光栄だ」

 吉高は屈託なく笑ったつもりだったろう。けれど、その笑みはぎこちなく引きつっていた。

 そんなふうに、僕らの性的関係はあっさり終わった。
 その夜、僕らは涙を流した。ベッドの上と下で、互いに悟られないように声を殺して息を潜めて。朝が来るまで。

 そしてその後の1週間は、友達のように過ごした。
 ずっと友達として一緒にいたのに、一度すべてを知ってしまった後では、キスもハグもセックスもないのが奇妙な感じだった。それを淋しいとか悲しいとか物足りないとか思わないように、僕らは読書に没頭した。
 窓際に並ぶ机で僕らは古代中国の世界に溺れ、そして一週間の後に現実に戻った。
 吉高は荷物をまとめて日本に帰国し、少し遅れて柚月も祖父の家に身を寄せた。

 さよならは言わなかった。
 空港の保安検査場の前で、吉高は「じゃあな」と言った。その表情が作り物ではなく明るいことに安堵する。

「うん。じゃあ、また」
「柚月」

 吉高は姿勢を正して、柚月を真正面から見つめた。

「俺を受け入れてくれて、ありがとう。ちょっとの間だったけど、おまえとああいうふうになれて、すげえ嬉しかった」
「うん。僕も、同じ気持ちだよ」

 慎重に言葉を紡ぐ。今、吉高に対して、これまでで一番誠実でありたかった。

「続けることはできないけれど、僕は本当に後悔はしていないんだ。おまえの気持ちもおまえとの全部も、知れて良かった。本当だよ」

 吉高は少しだけ微笑んで、柚月の髪をくしゃりと撫でた。そして、ゲートの向こうに消えていった。一度も振り返ることなく。


 ***
「柚月、昼飯にしよう」

 年季で艶めくテーブルに水餃子と青菜の炒め物が並ぶ。祖父の定番メニューだ。
 週末の昼食は大抵あの南京路の麺屋だった。吉高が去ってまだ二週間なのに、随分昔のことのように感じる。

「どうした。微妙な顔をして」
「いや、なんでもない」
「柚月」

 祖父は箸を置き、柚月の茶碗に茶を注いだ。菊の香りが立つ。

「年を重ねればおまえにも分かる。何事も時間薬だ」
「寂しいのも悲しいのも、いずれ無くなる?」
「無くなる」

 祖父は断言する。そして付け加えた。

「それが、おまえにとって良いことか悪いことかは別にして、いずれ無くなる」

 食事を終えて、外に出た。降ったばかりの雨で庭はしっとり濡れている。
 祖父はああ言ったけれど。
 もしも。もしも、時間が経ってもこの思いが消えなかったら。

 いつか、世界のどこか片隅で、ちっぽけな僕らはまた巡り合ったりするんだろうか。
 例えば、誰もがその輪郭をぼやけさせる夕暮れ時に、南京路の人混みの中に、君の背中を見たような気がして。僕はその場に立ち尽くす。
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 男性保育士さんが漏らしている話。ただただ頭悪い小説です。 保育士の道に進み、とある保育園に勤めている尾北和樹は、新人で戸惑いながらも、やりがいを感じながら仕事をこなしていた。  しかし、男性保育士というものはまだまだ珍しく浸透していない。それでも和樹が通う園にはもう一人、男性保育士がいた。名前は多田木遼、2つ年上。  園児と一緒に用を足すな。ある日の朝礼で受けた注意は、尾北和樹に向けられたものだった。他の女性職員の前で言われて顔を真っ赤にする和樹に、気にしないように、と多田木はいうが、保護者からのクレームだ。信用問題に関わり、同性職員の多田木にも迷惑をかけてしまう、そう思い、その日から3階の隅にある職員トイレを使うようになった。  しかし、尾北は一日中トイレに行かなくても平気な多田木とは違い、3時間に一回行かないと限界を迎えてしまう体質。加えて激務だ。園児と一緒に済ませるから、今までなんとかやってこれたのだ。それからというものの、限界ギリギリで間に合う、なんて危ない状況が何度か見受けられた。    ある日の紅葉が色づく頃、事件は起こる。その日は何かとタイミングが掴めなくて、いつもよりさらに忙しかった。やっとトイレにいける、そう思ったところで、前を押さえた幼児に捕まってしまい…?

咳が苦しくておしっこが言えなかった同居人

こじらせた処女
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 過労が祟った菖(あやめ)は、風邪をひいてしまった。症状の中で咳が最もひどく、夜も寝苦しくて起きてしまうほど。 それなのに、元々がリモートワークだったこともあってか、休むことはせず、ベッドの上でパソコンを叩いていた。それに怒った同居人の楓(かえで)はその日一日有給を取り、菖を監視する。咳が止まらない菖にホットレモンを作ったり、背中をさすったりと献身的な世話のお陰で一度長い眠りにつくことができた。 しかし、1時間ほどで目を覚ましてしまう。それは水分をたくさんとったことによる尿意なのだが、咳のせいでなかなか言うことが出来ず、限界に近づいていき…?

くまさんのマッサージ♡

はやしかわともえ
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ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。 2024.03.06 閲覧、お気に入りありがとうございます。 m(_ _)m もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。 2024.03.10 完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m 今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。 2024.03.19 https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy イベントページになります。 25日0時より開始です! ※補足 サークルスペースが確定いたしました。 一次創作2: え5 にて出展させていただいてます! 2024.10.28 11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。 2024.11.01 https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2 本日22時より、イベントが開催されます。 よろしければ遊びに来てください。

何度でもイカせてあげる

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美少年を好む柊(しゅう)は、執事の家木(いえき)に言い付けて前から欲しかった少年を屋敷に連れてくる。柊は無慈悲にもその少年を嬲り、焦らし、弄び、何度もイカせ続けるのであった。少年がフルフルと震えながら快感に堪える様は、堪らない…。虐めるのが大好きなお金持ちと、そのエゴで何度も絶頂を迎えさせられる少年の話。

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