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アフリカンチキンの夜

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 涼しい。さらさらして気持ちいい。
 夏野はもぞもぞと体を動かす。素足に触れるシーツや頬に当たる風がひんやりとしている。
 瞼を開くと、見知らぬ格子柄の天井が目に入った。
 羽の長いファンがゆっくりと回っている。
 どこだ、ここ。
 いつもの癖でスマホを掴もうと枕元を探るが、見当たらない。
 身を起こすと見知らぬ部屋のベッドの上だった。
 壁はこっくりと濃いクリーム色で窓はステンドグラスで、床は板張り。天井の高さや内装がどうみても日本じゃない。
 そうか、マカオだっけ。
 
 ぼんやりしていると、窓際の机に向かっていた男が振り向いた。
「起きた? 具合はどう?」
 ベッドに腰掛けると、男は無遠慮に額と手首に触れてくる。
 間近で見る顔はアップでも耐えられるほど整っていて、この男の目の前で気を失ったことを思い出した。
「うん、ほてりも取れたし、脈も正常だね。念のため、もう少し水を飲んでおいて」
 差し出されたペットボトルを一気に半分飲みほした。喉の乾燥が治まり、頭がすっきりする。
「あの、すみません、俺、倒れたんですよね」
 詫びる夏野の頭をジーンは軽く撫でた。
「咄嗟に抱き留めたからどこも怪我してないよ。俺はジーン、君は?」
 名前を聞かれて口ごもった。同時に恐怖が襲ってくる。
 ここは海外で、知らない男の家だ。
 マカオの治安は悪くないけれど、詐欺に騙される日本人は大勢いるとガイドブックに書いてあった。
 そうだ、貴重品! 

 視線を巡らす夏野の思考を読んだように、ジーンはソファを指さした。
「バッグはソファの上に置いてある。中は見てないし開けてない。僕はマカオで通訳をしていて、日本語を含め複数の言語が話せる。ここは僕の自宅兼事務所。君の連絡先もホテルも分からなかったし、病院に行くほどでもないと判断してここに連れてきた。君に法外な謝礼を請求したり、何かを売りつける気はないよ。なんなら身分証も見せようか?」
 気を悪くするでもなく淡々と説明され、疑ったのが恥ずかしくなる。
 赤くなってうつむくと、ジーンは笑った。
「君は顔に出やすいね」
「助けてもらったのに、疑ったみたいな素振りしてごめんなさい」
「いや、それくらいの危機感は持った方がいい」
 それから夏野はベッドから出て、ジーンに向き直った。改めて名乗る。
「俺、日向ひむかい夏野といいます」
「なつの?」
「サマーの夏に、野原の野」
 宙に漢字を書くと、ジーンは何故か嬉しそうに微笑んだ。
「良い名前だね」
 そうだろうか。苗字みたいだとか女の子みたいだとか言われることの方が多い。

 ジーンは夏野夏野と繰り返してから、腕時計を見た。
「5時か。少し早いけど、また倒れる前に何か食べよう。その後、ホテルまで送るよ」
 夕食に行く流れになっているが、介抱させた上に食事まで面倒になるのは申し訳ない。
 丁重に辞退してタクシーだけ呼んでもらおうとした時。 
 ぐーきゅるるるーっ。
 盛大に腹が鳴った。
「……っ!」
 ジーンは元気だね、とおかしそうに笑っている。いたたまれない。
「じゃ、一番近い店にしよう」
「いや、でも」
「ん?」
「あの、迷惑では」
 躊躇していると、ジーンは肩をすくめた。
 長身で姿勢が良いので、舞台俳優みたいな仕草も絵になる。同じ男として羨ましい。
 マカオ人なのだろうが、アジア系にしては肌の色が薄いし、顔立ちに奥行きがある。撫でつけた髪は濃い茶色で、少しウェーブを描いている。 
「あのね、気分が悪そうな君を見かけて水を飲ませて、急に意識を失った君を自宅まで連れてきて、服を脱がせて体をふいて、着替えとベッドまで提供した。迷惑だなんて思うなら、最初から声をかけてないよ」
「う……。え、脱がせて?」
 確かに、見覚えのないロンTにスウェットを着ている。
「君の服は汗だくだったから洗濯した。マカオは暑いから夕食から戻るころには渇くよ」



 一番近い店とは、事務所の1階の食堂だった。1階が店舗で2階以上が住居になっているのだ。
 こういう建築様式をショップハウスというのだとジーンは説明した。
 食堂は、テーブル席が6席とカウンターだけのこじんまりした店だ。空色と黄色を基調とした内装は色あせていて、レトロ感たっぷりだ。
 客はまばらで、店員らしき女の人が客席でスマホを触っている。
 ジーンは「アンジェラ~」と親しげに呼びかけ、何やら広東語でやりとりを始めた。アンジェラさんがちらりと視線を送ってきたので、夏野はぺこりと頭を下げた。
 それを見たアンジェラさんはジーンの肩をばしりと叩き、からかうように笑っている。
 飾り気のない美人で、仲が良さそうだ。
 彼女かな。

 まずは胃に優しいものからと出されたチキンスープにはお米が入っていてほっとする味だった。
 一口食べると空っぽだった胃が動き出して、食欲にエンジンがかかってくる。
 メインは鶏肉だった。肉の塊に飴色のソースがたっぷりかかっている。
 サイドにはフレンチフライとサラダがどっさり。
 ソースからは嗅いだことのないスパイシーな香りがする。
 サーブしてくれたアンジェラさんを見ると、ウィンクをして、「アフリカンチキン、マカオの名物よ。私の得意料理だから味はお墨付き」と英語で説明してくれた。
 ジーンのロンTは悔しいことに袖が長いので、汚れないように捲り上げた。
「うまっ」
 一口食べて思わず声が出た。
 ココナッツミルクのコクに複雑なスパイスが混じりあい、想像以上に美味しい。鶏肉は唐揚げが王様だと思っていたが、それを超える勢いだ。
「いい食べっぷりだね」
 夢中で食べる夏野を、ジーンは楽しそうに見つめている。

 昨日は披露宴でフルコースを食べた後、二次会はほとんど酒だけだった。
 二日酔いだったので朝食は抜いて、歩いているうちに昼も食べ損ねて水分も取っていなかった。
 そう白状すると、ジーンはおかしな顔をした。
「二日酔いって、夏野、未成年じゃないの?」
 あんまりな質問に夏野は動かしていたナイフを止める。
 ジーンは至極真面目な表情だ。からかっているわけではないらしい。
 くっそー、童顔気にしてるんだからな。
「俺、今年26です」
「本当に?」
「本当に。大学卒業して日本の役所に就職して、勤続4年目です」
「それじゃあ僕と同い歳だ」
 今度は夏野が驚く番だった。物腰が落ち着いているので、5歳は上だと思っていた。
 タメなら敬語はやめてやる。
 夏野はフランクに言い返した。
「ジーンが老けすぎなんだろ」
 顔立ちが大人びているだけじゃない。
 髪は台湾俳優みたいに整髪料でびしっと固めているし、ワイシャツにサスペンダーなんてしているから30歳くらいに見える。
「ひどいな」
 夏野の反撃に、ジーンはわざとらしく落ち込む仕草をしてみせる。
 カッコいいのにコミカルな奴だ。
「夏野が可愛らしすぎるんだよ」
「可愛いって言うな。日本人は若く見えるんだよ」
「日本のお役所はそんなくるくるの髪でも良いの?」
「これは天然なんだよ。うちの役所は髪型はそんなうるさくねえから、ロンゲもいるし、女の子だと茶髪も多いし。マカオは違うのか?」
「中国だからね。役人は七三にロイド眼鏡がルールだ」
 ジーンが髪を七三に分けるジェスチャーをしてみせる。
「マジか」
 そんな職場絶対に嫌だ。顔をしかめると、ジーンは澄ました顔で、
「嘘だよ」
 など宣う。
「嘘なのかよ」
 しょうもない嘘なのになんだか可笑しくて、二人で笑い合った。

 ジーンは観光客のガイド兼通訳をすることもあるそうで、食事の間、マカオの名所やグルメについて色々話をしてくれた。
 マカオは市街地区全体が世界遺産に登録されている。
 古い建物に興味はないが、世界遺産と言われると行ってみたくなるから不思議だ。
 今日は大聖堂跡しか見られなかったから、明日はちゃんと水分補給をしながら観光しよう。


「ジーン、広東語で美味しいってなんて言うんだ?」
 食事を終えてそう訊くと、「好食ホウセッ」と教えてくれる。
 夏野は聞いたままに繰り返す。
「好食。で合ってる?」
「うん、上手。耳が良いね」
 合格を貰ったので、皿を下げに来たアンジェラさんに手を合わせて言った。
「好食、唔該ンゴイ
 アンジェラさんはにっこり笑って、「唔使客気(どういたしまして)」と返してくれる。
 Tシャツにジーンズ姿で化粧もしていないけれど、自然体が綺麗な人だ。
 流行の服にばっちりメイクで省内を闊歩する同期の女の子たちより親しみが沸く。
 財布を出そうとすると、アンジェラは仕草でそれを押しとどめた。
「でも」
「ここの食事代は、僕の家賃に入ってるからいいんだよ」
 後ろからジーンが肩をぽんと叩いてくる。
 介抱のお礼に支払いをしようと思っていたのだが、そう言われてしまうと仕方がない。
 夏野は財布をしまって、素直にご馳走様でしたと頭を下げた。
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