ヤンキーDKの献身

ナムラケイ

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Sorano: おまえじゃなくて、空乃。

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「ユキちゃん、週末、どうすんの?」
 木曜日の朝、行人の部屋で朝食のおにぎりを食べながら、空乃そらのは切り出した。
 窓から流れ込む風はどこか湿っぽく重たい。もうすぐ梅雨だ。
 春が終わってゴールデン・ウィークが過ぎても、行人との関係は進展していない。
 否、進展しているが、牛歩のごとくだ。
 ほぼ毎日顔を合わせるし、キスだってする。5回に1回くらいしか受け入れてくれないし、それ以上触ろうとすると容赦なく手をはたかれるが。

 行人は、頬張っていた揚げ玉と葱のおにぎりを飲み込んでから答えた。
「車、買いに行こうと思って」
 意外な予定だった。
「車?」
「今の、動かなくなって結構経つから」
「ユキちゃん、車持ってたのか」
 知らなかったのがちょっと悔しい。行人は指先で窓の外を指した。
「外に停めてるだろ」
「え、あれユキのか」
 コーポアマノの敷地には小さな駐車場兼庭があり、色褪せたビートルが一台だけ停まっている。動かしている気配もなく、どの部屋の持ち主だろうと不思議に思っていたのだ。

「前、ここに住んでた人から譲り受けたんだ。たまに使ってたんだけど、去年動かなくなってからは放置してた」
「都内だと車なくても困らねえもんな。なんで急に買い替えんの」
 そう訊くと、行人は嬉しそうに口元を綻ばせた。
「来月、兄が一時帰国するんだ。空港まで迎えに行く約束だから」
 行人は4兄弟の3男だ。
 仲が良い家族なのだろう。家族の話をする時、行人は普段は見せない優しい表情をするので、ちょっと妬けてしまう。
「なあ、それ、俺も一緒に行っていい?」
「え。迎え?」
 ぎょっとする行人に、空乃は苦笑する。
 いや、流石にその勇気はない。
 ってか、あんただって困るだろ。どういう関係だって紹介すんだよ。
「違うって。車買いに行く方」
「いいけど。同じ車種買うだけだし、別に楽しくないだろ」
「ユキちゃんがいれば、どこだって楽しいって」
 にっこり笑いかけると、行人は赤くなって目を逸らした。
 遊び人のくせに純情って、ホント反則だよな、この人。


 ビートルのフォルムが気に入っているという行人は、迷わずフォルクス・ワーゲンの六本木店に向かった。
 今日の行人は深緑のポロシャツに砂漠色のチノパンを合わせている。際立ってオシャレなわけでも高価なわけでもないが、この人は服のセンスがいい。
「いらっしゃいませ」
 出迎えてくれた年配の女性店員は行人を見て、それからさり気なく空乃に目を走らせた。
 行人に合わせて大人しめな服装にしてきたし、今日はピアスも1個だけだ。
 行人との関係を邪推される前に、空乃はかぶっていたキャスケット帽を脱いで、「こんにちは。お世話になります」と礼儀正しく挨拶をした。店員は安心したように「ごゆっくりご覧ください」とお辞儀をする。

 行人はくるっと店内を見回すと、黒のビートルの横に立った。
「これ、そのままください」
「は、あの、もうお決まりでしょうか?」
 店員も驚いているが、空乃もびっくりだ。
「ちょっと待てって。即決すぎだろ」
「ビートルって決めてたし。車は、動いてモノが運べればいいよ」
 そうかもしれないが、普通はカタログじっくり見たり、値段見たり、試乗したりするだろう。
「色とか内装とかオプションとかローンとか、色々あんだろ」
「お客様。よろしければ試乗も出来ますし、お色やオプション等、じっくりお選びいただけますよ。長く乗られるものですから、私共としてもお客様が一番満足されるものをお買い上げいただきたいと思っています」
 店員も加勢してくれる。さっさと契約に持ち込んで売りつけてしまわないあたり、流石一流店だ。
「一番満足、か」
 行人は店員の言葉を繰り返すと、空乃を振り返った。
「好きな色選べよ」
「え」
「おまえを乗せるのが一番多そうだし。おまえが満足すれば、俺はそれでいいよ」
「っ!」
 なんだよそのモーション無しのクリティカルヒット。
 空乃は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。にやけ顔が押さえられそうもない。


 赤、白、青系、黒系、オレンジの7色の中から、空乃はハバネロ・オレンジを選んだ。
 赤に近いビタミンカラーは見ていて元気が出るし、モノトーンのイメージな行人にはこれくらい明るい方が似合うと思ったのだ。
 行人は支払いや納期をさっさと決めて手続きを済ませた。
 高校生には馴染みのない契約書類をさくさく片付けていく行人と店員は、いかにも大人でカッコよかった。

 店を出ると夕方を過ぎていた。まだ明るいが、六本木界隈は気の早いイルミネーションが灯り出している。
「付き合ってくれたお礼に、夕飯奢るよ」
 行人に誘われて、空乃の心は躍る。なんだかんだ言っても新しい車が届くのは楽しみなのだろう。行人の足取りは心なしか軽い。
「お、さんきゅ。何気にめっちゃ腹減ってるわ」
「何食いたい?」
「ユキちゃん」
 鉄板ネタで返すと、もう慣れたのか行人は怒りはせずに苦笑いしている。
「おまえね」
 これが女の子だったら、簡単に手を繋いだり腰に手を回したりできるけれど。
 簡単に出来ないことがあるっていうのは、存外楽しい。
 我慢して、うずうずしながら、好きな人の横を歩く。それがこんなに心躍ることだと、行人に会うまで知らなかった。
 まだ恋人じゃない。行人は過去に引きずられていて、それをどうしてあげればいいのか、空乃にはまだ分からない。
 でも。
 ちょっとくらい高望みをしてもいいだろうか。

「空乃」
 空乃は滅多に口にすることのない自分の名前を舌に乗せた。
 行人が歩みを止めて空乃を仰ぎ見る。
「は?」
「おまえじゃなくて、空乃」
 夕暮れの六本木は人通りが多い。行人の背を押して促し、人の流れに乗るように歩き始める。
「なんだよ、急に」
「ユキちゃん、何気に俺の名前呼んでくれたことないから」
 いつも「君」か「おまえ」で。上の名前も下の名前も、呼ばれたことがない。
 行人も意識していたのだろう。押し黙ってしまった。
「名前で、呼んでほしい」
 もう一度強請ると、行人は小さく言った。
「じゃあ、三沢君」
 なんだよその余所余所しい感じは。
「駄目」
「なんで」
「苗字好きじゃないから」
 嘘だ。好きじゃないのは名前の方。
 ガキの頃、女みたいだって散々からかわれた。
 だから、家族以外の誰にも、敦たち親しい友人にも名前で呼ばせたことはない。
 けど、ユキちゃんには呼ばれたい。

「空乃」
 観念したのか、行人がそっと名を口にした。
「ははっ」
 空乃は思わず笑ってしまった。行人は怪訝そうにしている。
「なんかおかしかったか?」
「違う違う」
 ただ名前を呼ばれただけ。それがこんなに嬉しくてくすぐったいと思わなかった。
 女子中学生か、俺は。
 自分の名前が空乃で良かったと、この時ほど思ったことはない。
「自分で呼ばせといて変な奴だな。で、空乃。メシ、何食いたい?」
「ユキちゃん」
「俺はメシじゃないだろ」
「だね」
 メシなんかより、もっと美味しそうだ。
 そう、抑えた声で囁いた。
 返事はない。
 聞こえてねえか、そう思って横を見ると、俯いた行人の首筋はピンク色に染まっていた。
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