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2008: 世界の終わり、すれ違う二人
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後から聞いた話だ。
あの夜、一哉は電車に乗ろうと言ったのに、面倒だからタクシーがいいと誠二が押し切ったことを。
赤信号で飛び出した女の子を避けようとタクシーが急ブレーキを踏んだ後、頭をぶつけたらしい一哉がしばらく気を失っていたことを。
一哉が、病院に行こうと言う運転手と誠二に、痛みはないし早くチカに会いたいからと言ったことを。チカを心配させたくないから事故のことは黙っていろと誠二に口止めしたことを。
「無理にでも病院に連れて行くべきだった」
春の盛りの葬儀で苦し気に吐き捨てた誠二の喪服姿を、行人は遠くから見ていた。
あの夜。
妖艶な桜に酔わされたように深く深く愛し合って、満たされて眠りについて。
朝、目を覚ましたのは行人ひとりだけだった。
隣で眠る一哉はまだ温かかったけれど、呼吸はしていなくて、肌の質感が全然違っていた。蝋みたいなゴムみたいな。それでも、大好きな一哉だった。
だから目覚めるまで抱きしめていようと、横にいることにした。
昼になって夜になって、もう一度朝が来ても、一哉は眠り続けたままだった。
そしてまた昼が来て。誠二が帰ってきて。行人の世界はそこで終わった。
高エネルギー外傷。事故の際の強打により、頭蓋骨の下の硬膜とそれが包む脳が損傷したのだろうと医師は説明した。
病院。警察。藤森家のご両親、葬儀。どの記憶も曖昧だ。
火葬場から帰った後、主を亡くした閑古堂の居間で、誠二は土下座をして事故後の対応について詫びた。
こいつだって、兄を失ったのだ。
「おまえのせいじゃない」
絞り出した声は小さく掠れて、誠二に届いたか定かではない。
行人は閑古堂を出て、恵比寿の古いアパートに移り住んだ。閑古堂は閉店し、誠二もどこかに引っ越したらしい。誠二とは、大学で顔を合わせても言葉を交わさなくなった。
***
あれほど仲良くしていたのが嘘のように、行人とはすっかり疎遠になった。
講義に真面目に出席する行人と、バイトやサークル優先の誠二。元より生活スタイルが違ったので、会おうとしなければ、学内で顔を合わせることもほとんどない。
「誠二さあ、柴田ゼミの近間君と仲良くなかったっけ?」
昼休み。
誠二が、ノートのコピーを頼んだ礼に、同じゼミの夏美に昼飯を奢っていた時だった。学食で一番高いA定食を遠慮なく平らげながら、夏美が唐突に言った。
チカ。その名前を呼ばなくなって、何か月経っただろう。誠二は動揺を隠して、なんでもないように答えた。
「あー、まあな。あいつがどうしたよ」
「良くない噂、あるじゃない?」
内緒話をするように夏美が身を乗り出す。グロスで光る唇から飛び出した不穏な言葉に、誠二は眉を顰めた。
「噂?」
「手あたり次第に男と寝てるって」
「……は?」
誠二はカレーライスを掬っていたスプーンを取り落としそうになる。
何の冗談だ。
「びっくりだよね。草食系の地味男子かと思ってたらさ。まー、顔整ってるし、あんま男っぽくないなーとは思ってたけど。ゲイでしかも遊び人だったとはねー」
夏美は面白そうに話している。
「おまえ、それどっから聞いた」
「そんな怖い顔しないでよ。私の元カレの友達、そいつバイなんだけど。近間君とヤったって話しまくってるらしーよ」
交友関係が広い夏美は、誠二にも明け透けで物怖じしない。
「そんな話広めるとか、そいつもおまえの元カレもロクな男じゃないな」
「だから別れたんだって」
夏美は肩をすくめて見せる。
そうやって聞いた話を楽しそうに俺にしてくるおまえも同列だろ。
腹に溜まる怒りを抑え込み、誠二は席を立った。
「ちょっと、誠二?」
「夏美、その話、それ以上言いふらすなよ」
睨みつけると夏美がびくりと震えた。釘を刺してから、誠二は足早に食堂を出た。
法学部関係の教室を回ってみるが、3年までに卒業所要単位を取得し終わっている行人はゼミ以外の授業にはほとんど来ていないらしい。
商法の教室で行人と同じ柴田ゼミの学生を捕まえ、無理矢理住所を聞き出した。
開発が進む恵比寿も、裏道に入れば昔ながらの木造住宅が並んでいる。
iモードの地図サイトを確認しながら辿り着いたコーポアマノは、見るからに古びたアパートだった。
黒ずんだブロック塀の前には枯れた鉢植えが並び、物干し竿やビニール傘が捨てられている。建物の壁には雨の跡が染みつき、鉄製の外階段は錆びている。
203号室のブザーを押すが、反応はない。メーターが回っていないので留守なのだろう。
帰ってくるまで待つつもりだった。
金属製の扉の前でヤンキー座りをしてマルボロライトを吸う。
7本目を吸い終わったところで、階段を昇る音がした。
その音のひとつが、閑古堂の古い階段をぎしぎしと昇るリズムと同じだったので、誠二は煙草を消して腰を上げた。
「せい、じ?」
3か月ぶりに見る行人は頼りなく痩せている。
驚いたように、脅えたように身体を固くする行人の横には見知らぬ男が立っていて、誠二は大きく舌打ちをした。
あの夜、一哉は電車に乗ろうと言ったのに、面倒だからタクシーがいいと誠二が押し切ったことを。
赤信号で飛び出した女の子を避けようとタクシーが急ブレーキを踏んだ後、頭をぶつけたらしい一哉がしばらく気を失っていたことを。
一哉が、病院に行こうと言う運転手と誠二に、痛みはないし早くチカに会いたいからと言ったことを。チカを心配させたくないから事故のことは黙っていろと誠二に口止めしたことを。
「無理にでも病院に連れて行くべきだった」
春の盛りの葬儀で苦し気に吐き捨てた誠二の喪服姿を、行人は遠くから見ていた。
あの夜。
妖艶な桜に酔わされたように深く深く愛し合って、満たされて眠りについて。
朝、目を覚ましたのは行人ひとりだけだった。
隣で眠る一哉はまだ温かかったけれど、呼吸はしていなくて、肌の質感が全然違っていた。蝋みたいなゴムみたいな。それでも、大好きな一哉だった。
だから目覚めるまで抱きしめていようと、横にいることにした。
昼になって夜になって、もう一度朝が来ても、一哉は眠り続けたままだった。
そしてまた昼が来て。誠二が帰ってきて。行人の世界はそこで終わった。
高エネルギー外傷。事故の際の強打により、頭蓋骨の下の硬膜とそれが包む脳が損傷したのだろうと医師は説明した。
病院。警察。藤森家のご両親、葬儀。どの記憶も曖昧だ。
火葬場から帰った後、主を亡くした閑古堂の居間で、誠二は土下座をして事故後の対応について詫びた。
こいつだって、兄を失ったのだ。
「おまえのせいじゃない」
絞り出した声は小さく掠れて、誠二に届いたか定かではない。
行人は閑古堂を出て、恵比寿の古いアパートに移り住んだ。閑古堂は閉店し、誠二もどこかに引っ越したらしい。誠二とは、大学で顔を合わせても言葉を交わさなくなった。
***
あれほど仲良くしていたのが嘘のように、行人とはすっかり疎遠になった。
講義に真面目に出席する行人と、バイトやサークル優先の誠二。元より生活スタイルが違ったので、会おうとしなければ、学内で顔を合わせることもほとんどない。
「誠二さあ、柴田ゼミの近間君と仲良くなかったっけ?」
昼休み。
誠二が、ノートのコピーを頼んだ礼に、同じゼミの夏美に昼飯を奢っていた時だった。学食で一番高いA定食を遠慮なく平らげながら、夏美が唐突に言った。
チカ。その名前を呼ばなくなって、何か月経っただろう。誠二は動揺を隠して、なんでもないように答えた。
「あー、まあな。あいつがどうしたよ」
「良くない噂、あるじゃない?」
内緒話をするように夏美が身を乗り出す。グロスで光る唇から飛び出した不穏な言葉に、誠二は眉を顰めた。
「噂?」
「手あたり次第に男と寝てるって」
「……は?」
誠二はカレーライスを掬っていたスプーンを取り落としそうになる。
何の冗談だ。
「びっくりだよね。草食系の地味男子かと思ってたらさ。まー、顔整ってるし、あんま男っぽくないなーとは思ってたけど。ゲイでしかも遊び人だったとはねー」
夏美は面白そうに話している。
「おまえ、それどっから聞いた」
「そんな怖い顔しないでよ。私の元カレの友達、そいつバイなんだけど。近間君とヤったって話しまくってるらしーよ」
交友関係が広い夏美は、誠二にも明け透けで物怖じしない。
「そんな話広めるとか、そいつもおまえの元カレもロクな男じゃないな」
「だから別れたんだって」
夏美は肩をすくめて見せる。
そうやって聞いた話を楽しそうに俺にしてくるおまえも同列だろ。
腹に溜まる怒りを抑え込み、誠二は席を立った。
「ちょっと、誠二?」
「夏美、その話、それ以上言いふらすなよ」
睨みつけると夏美がびくりと震えた。釘を刺してから、誠二は足早に食堂を出た。
法学部関係の教室を回ってみるが、3年までに卒業所要単位を取得し終わっている行人はゼミ以外の授業にはほとんど来ていないらしい。
商法の教室で行人と同じ柴田ゼミの学生を捕まえ、無理矢理住所を聞き出した。
開発が進む恵比寿も、裏道に入れば昔ながらの木造住宅が並んでいる。
iモードの地図サイトを確認しながら辿り着いたコーポアマノは、見るからに古びたアパートだった。
黒ずんだブロック塀の前には枯れた鉢植えが並び、物干し竿やビニール傘が捨てられている。建物の壁には雨の跡が染みつき、鉄製の外階段は錆びている。
203号室のブザーを押すが、反応はない。メーターが回っていないので留守なのだろう。
帰ってくるまで待つつもりだった。
金属製の扉の前でヤンキー座りをしてマルボロライトを吸う。
7本目を吸い終わったところで、階段を昇る音がした。
その音のひとつが、閑古堂の古い階段をぎしぎしと昇るリズムと同じだったので、誠二は煙草を消して腰を上げた。
「せい、じ?」
3か月ぶりに見る行人は頼りなく痩せている。
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