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2008: 真夜中の、暗い坂道で
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金曜日。
深夜12時前の恵比寿駅は酩酊して家路へ急ぐ人々で混雑している。
付き合いで参加した三次会のカラオケを途中で抜け、行人は駅前のガードレールに腰を下ろした。改札前のハーゲンダッツで買ったラムレーズンのアイスを舐める。
ビールと安い焼酎をしこたま飲んだが、アルコールで身体が温まっただけで、頭はクリアだ。
行人は酒が強い。なんとか酵素が人より多いのだろう。
恵比寿ガーデンプレイスの瀟洒な建物と行き交う人々をぼんやり眺めていると、目の前に影が差した。
「おにーさん、ひとり?」
見上げると、知らない若い男。酔っぱらっていて、嫌な雰囲気だ。
「人、待ってるんで」
「んじゃ、その人来るまで、俺と遊ぼうよ」
行人の素っ気なさをものともせず、男は図々しく横に腰かけた。
街中で絡まれるのは初めてじゃないが、手段は走って逃げることしか知らない。
「結構です」
立ち上がろうとした腕を掴まれ、引き戻される。男は唇を歪めた。
「おにーさん、そっちの人でしょ。俺もなんだよね」
「……な、にが」
「すっげえ、気持ちよくしてあげるからさ」
意味深な言い回しに、ぞっと背筋が冷える。
掴まれた腕が痛い。振りほどこうと力を込めると、持ったままだったアイスのカップから溶けたクリームが飛び散って、顔や首にかかった。
「は。いいね、あんた」
男がにやつく。
その胴体が、行人の目の前で吹っ飛んだ。
見上げると、よく見知った二人の姿。安心して視界が少し滲んだ。
「一哉さん」
現れた一哉は行人の頭にぽんと手を置いてから、先ほど自分が蹴り飛ばした男に目をやった。地面に仰向けに倒れた男の脇腹にごすっと蹴りを入れる。
普段は凪のように穏やかな恋人のその姿。
自分のために怒っているのだと、行人はどうしようもない気持ちになる。
「げほっ、んだよ、てめえ」
咳き込む男を見下ろして、一哉は冷たく言った。
「俺のものに気安く触るな」
もう一度脚を振り上げた一哉を誠二が止める。
「いーちや! ストップ」
「止めるなよ」
「あんまやるとケーサツ呼ばれっぞ」
誠二はそう言ってから、倒れたままの男を無理やり立ち上がらせた。男の耳元に低く吹き込む。
「おにーさん、あんたは何も見てないし、されてないよな」
長身で大柄な誠二は、22歳には見えない異様な迫力がある。
「……っ、は、はいいっ」
男は腹を押さえながら足早に逃げていった。呆気ないものだ。
ぼーっとしていると、一哉にふわんと抱きしめられた。
「やっぱり迎えに来て良かった」
「あんなの、滅多にないから」
温もりが心地よくて、行人は目を閉じる。
「でもあったでしょ。ヒーローみたいにいつも助けられるわけじゃないから、自分の身は自分で守らないと」
叱るようにごつんとおでこをぶつけられ、ついでに頬についたままだったクリームを舐めとられた。
胸がさわさわとくすぐったい。
人通りの多い駅前だけれど、みんな自分の楽しさに夢中で、人のことなんて気にしていない。
誠二を見遣ると、仕方ねえなあとばかりに苦笑している。
行人は甘えるように額を擦り合わせ、大人しく頷いた。
「……はい」
「良い子。じゃ、行こうか」
行人の手を引いた一哉が不意に顔をしかめた。
「一哉さん?」
どこか痛めたのだろうか?
「……いや、大丈夫。久々に蹴りなんか入れたから、脚が痺れただけ」
一哉はすぐにいつも笑顔に戻って、行人の腰に手を回した。
恵比寿ガーデンプレイスの前を抜け、途中のコンビニでZIMAを買って、飲みながらだらだらと茶屋坂を下った。
両側に防衛省の研究所と目黒清掃工場が広がる坂道は人気がなく静かだ。
カラオケでは何を歌うかとか、花見に一番合う酒は何かだとか。くだらない話をしながら、3人で跳ねるように歩く。
瓶を煽ると、ハーブの香りがする甘い炭酸が喉に心地よい。
1本目をすぐに飲み切ると、誠二が目ざとく2本目を差し出してきた。
「まだ飲むか?」
「うん、ありがと」
行人は空瓶と新しい瓶を交換する。誠二が持つコンビニの袋ではビン類がかちかちと音を立てて、重そうだ。
「半分、持つよ」
「いいって。袋、1個しかねえし」
ヤクザの息子とか狂犬とか百人斬りとか。今となっては全部デマだったと分かる噂で大学では怖がられている誠二だ。
こんな姿を見たら、学校の連中はびっくりするだろう。
「あれ、誠二、おでこどうかした?」
白い街灯の下で浮かび上がった誠二の額が薄赤くなっている。行人が訊くと、誠二は額を押さえた。
「あー、さっき事故った」
「は? 事故?」
すっと肝が冷えるが、兄弟は二人とも元気そうだ。
「ここまでタクシーで来たんだけど、赤信号で飛び出した女の子達がいて、運転手が咄嗟にハンドル切ったんだ。その衝撃でぶつけただけ。女の子も俺たちも無事だったし、車も傷ついてないよ」
驚く行人に、誠二が説明してくれる。
「これも、軽いタンコブだ。もう痛くねえし」
「一哉さんは怪我なかった?」
心配すると、誠二は安心させるように微笑んだ。
「窓に頭ぶつかって、ちょっとくらっとしたけど大丈夫だよ。誠二が咄嗟に庇ってくれたし」
「ならいいけど」
行人は背伸びをして、一哉の後頭部の髪に手を差し入れた。
確かに傷もないし、膨らんだりもしていない。
「痛くない?」
「全然。それより、そこ、感じるから今はやめてくれるかな」
一哉がくすぐったそうに笑い、片目をつぶる。
「おまえら、ちょっとは恥じらいを知れよ」
すかさず誠二が突っ込む。このやりとりももう鉄板だ。
「妬くなよ、弟君」
「うるせえよ、おにいちゃん」
真夜中の街に笑い声が響く。
暗い坂を抜けると、そこは桜の海だった。
深夜12時前の恵比寿駅は酩酊して家路へ急ぐ人々で混雑している。
付き合いで参加した三次会のカラオケを途中で抜け、行人は駅前のガードレールに腰を下ろした。改札前のハーゲンダッツで買ったラムレーズンのアイスを舐める。
ビールと安い焼酎をしこたま飲んだが、アルコールで身体が温まっただけで、頭はクリアだ。
行人は酒が強い。なんとか酵素が人より多いのだろう。
恵比寿ガーデンプレイスの瀟洒な建物と行き交う人々をぼんやり眺めていると、目の前に影が差した。
「おにーさん、ひとり?」
見上げると、知らない若い男。酔っぱらっていて、嫌な雰囲気だ。
「人、待ってるんで」
「んじゃ、その人来るまで、俺と遊ぼうよ」
行人の素っ気なさをものともせず、男は図々しく横に腰かけた。
街中で絡まれるのは初めてじゃないが、手段は走って逃げることしか知らない。
「結構です」
立ち上がろうとした腕を掴まれ、引き戻される。男は唇を歪めた。
「おにーさん、そっちの人でしょ。俺もなんだよね」
「……な、にが」
「すっげえ、気持ちよくしてあげるからさ」
意味深な言い回しに、ぞっと背筋が冷える。
掴まれた腕が痛い。振りほどこうと力を込めると、持ったままだったアイスのカップから溶けたクリームが飛び散って、顔や首にかかった。
「は。いいね、あんた」
男がにやつく。
その胴体が、行人の目の前で吹っ飛んだ。
見上げると、よく見知った二人の姿。安心して視界が少し滲んだ。
「一哉さん」
現れた一哉は行人の頭にぽんと手を置いてから、先ほど自分が蹴り飛ばした男に目をやった。地面に仰向けに倒れた男の脇腹にごすっと蹴りを入れる。
普段は凪のように穏やかな恋人のその姿。
自分のために怒っているのだと、行人はどうしようもない気持ちになる。
「げほっ、んだよ、てめえ」
咳き込む男を見下ろして、一哉は冷たく言った。
「俺のものに気安く触るな」
もう一度脚を振り上げた一哉を誠二が止める。
「いーちや! ストップ」
「止めるなよ」
「あんまやるとケーサツ呼ばれっぞ」
誠二はそう言ってから、倒れたままの男を無理やり立ち上がらせた。男の耳元に低く吹き込む。
「おにーさん、あんたは何も見てないし、されてないよな」
長身で大柄な誠二は、22歳には見えない異様な迫力がある。
「……っ、は、はいいっ」
男は腹を押さえながら足早に逃げていった。呆気ないものだ。
ぼーっとしていると、一哉にふわんと抱きしめられた。
「やっぱり迎えに来て良かった」
「あんなの、滅多にないから」
温もりが心地よくて、行人は目を閉じる。
「でもあったでしょ。ヒーローみたいにいつも助けられるわけじゃないから、自分の身は自分で守らないと」
叱るようにごつんとおでこをぶつけられ、ついでに頬についたままだったクリームを舐めとられた。
胸がさわさわとくすぐったい。
人通りの多い駅前だけれど、みんな自分の楽しさに夢中で、人のことなんて気にしていない。
誠二を見遣ると、仕方ねえなあとばかりに苦笑している。
行人は甘えるように額を擦り合わせ、大人しく頷いた。
「……はい」
「良い子。じゃ、行こうか」
行人の手を引いた一哉が不意に顔をしかめた。
「一哉さん?」
どこか痛めたのだろうか?
「……いや、大丈夫。久々に蹴りなんか入れたから、脚が痺れただけ」
一哉はすぐにいつも笑顔に戻って、行人の腰に手を回した。
恵比寿ガーデンプレイスの前を抜け、途中のコンビニでZIMAを買って、飲みながらだらだらと茶屋坂を下った。
両側に防衛省の研究所と目黒清掃工場が広がる坂道は人気がなく静かだ。
カラオケでは何を歌うかとか、花見に一番合う酒は何かだとか。くだらない話をしながら、3人で跳ねるように歩く。
瓶を煽ると、ハーブの香りがする甘い炭酸が喉に心地よい。
1本目をすぐに飲み切ると、誠二が目ざとく2本目を差し出してきた。
「まだ飲むか?」
「うん、ありがと」
行人は空瓶と新しい瓶を交換する。誠二が持つコンビニの袋ではビン類がかちかちと音を立てて、重そうだ。
「半分、持つよ」
「いいって。袋、1個しかねえし」
ヤクザの息子とか狂犬とか百人斬りとか。今となっては全部デマだったと分かる噂で大学では怖がられている誠二だ。
こんな姿を見たら、学校の連中はびっくりするだろう。
「あれ、誠二、おでこどうかした?」
白い街灯の下で浮かび上がった誠二の額が薄赤くなっている。行人が訊くと、誠二は額を押さえた。
「あー、さっき事故った」
「は? 事故?」
すっと肝が冷えるが、兄弟は二人とも元気そうだ。
「ここまでタクシーで来たんだけど、赤信号で飛び出した女の子達がいて、運転手が咄嗟にハンドル切ったんだ。その衝撃でぶつけただけ。女の子も俺たちも無事だったし、車も傷ついてないよ」
驚く行人に、誠二が説明してくれる。
「これも、軽いタンコブだ。もう痛くねえし」
「一哉さんは怪我なかった?」
心配すると、誠二は安心させるように微笑んだ。
「窓に頭ぶつかって、ちょっとくらっとしたけど大丈夫だよ。誠二が咄嗟に庇ってくれたし」
「ならいいけど」
行人は背伸びをして、一哉の後頭部の髪に手を差し入れた。
確かに傷もないし、膨らんだりもしていない。
「痛くない?」
「全然。それより、そこ、感じるから今はやめてくれるかな」
一哉がくすぐったそうに笑い、片目をつぶる。
「おまえら、ちょっとは恥じらいを知れよ」
すかさず誠二が突っ込む。このやりとりももう鉄板だ。
「妬くなよ、弟君」
「うるせえよ、おにいちゃん」
真夜中の街に笑い声が響く。
暗い坂を抜けると、そこは桜の海だった。
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