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2008: 春の夜、酒気をまとって
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誠二が家に帰ると、兄の一哉がひとりで晩酌をしていた。
「おかえり」
「ただいま。あれ、チカは?」
「飲み会だってさ」
ちゃぶ台にはセロリと玉葱を炒めたものと、クレソンと林檎のサラダが乗っている。ワインはマテウス・ロゼだ。
一哉は元々料理が上手いが、行人が同居するようになってから更に研究熱心になった。
肉も魚も好まない行人のために、特にベジのバリエーションはプロ級に増えている。
「おまえも飲むだろ?」
一哉が新しいグラスを取り出し、桃色のワインを注いでくれる。
藤森家の両親は、一哉が大学を卒業すると同時に家業の古本屋を一哉に譲り、鳥取で田舎暮らしを始めた。4歳年上で、高校生の頃からゲイを公言し、穏やかで飄々としている一哉。
自分とは全くタイプの違う兄と、子供の頃は一緒に遊んだ記憶もなかったが、二人暮らしになってからはよく話すようになった。
「勿論。つまみ、何か足すわ」
男子大学生だ。高校の頃ほどではないが、いつも腹は空いている。
ワインを啜りながら台所へ向かうと、一哉もグラスとサラダの皿を持ってついてきた。
昭和初期の家なので、台所は流しも天板もタイル張りだ。白と水色のモザイク模様の作業スペースに食材を広げ、手早く揚げ物の支度をする。
羽根型の換気扇の風を受けながら、一哉が不意に言った。
「誠二、チカのことだけど、遠慮しなくていいんだよ」
「してねえよ。だから、ずっと普通に帰ってきてんだろ」
行人が住み始めてから、いわゆるお邪魔虫となった誠二は、当初は夜遊びやバイトを理由に外泊を増やした。
そうしたら、行人にキレられた。
「おまえが帰ってこなくなるんだったら、俺は出ていく」
変な奴だと思った。
誠二がいなければ、二人でしたいことをし放題だろうに。
三人で飲んだり食ったり、テレビを見たりするのは予想外に楽しい時間だった。
楽しい時間が経つのは早くて、行人との同居はもう1年半になり、誠二と行人はこの四月から4年生になる。
「そうじゃなくて。好きだったらって話」
一哉が静かに言った。
一哉は、誠二が行人に心を揺らがせていることに気づいている。けれどそれは、ただの揺らぎだ。
この兄に嘘は通用しないので、誠二は正直に白状した。
「俺が好きなのは女。男とはヤったことも、ヤりてえと思ったこともねえよ。チカは、バカみてえに真面目でいい奴だし、まあ、可愛いとも思うし、おまえとの色々想像しないわけじゃねえけど。でも、ねえよ」
「ならいいけど。ま、挑まれても、おまえにも誰にも譲る気ないけどね」
そういう兄の目はマジで、かなり怖い。
一哉に逆らう気なんて更々ないし、何より行人の方もベタ惚れなのだ。
倦怠期なんて単語は辞書にないというように、変わらず満たされている二人を見ていると、横やりを入れる気にもならない。
「弟相手に惚気るなよ」
「はは、それもそうだな。あ、これもういいんじゃない?」
手元を見ると、フライパンの中のハムカツはいい具合のキツネ色だ。
菜箸で摘まんだハムカツの余分な油をキッチンペーパーに落としてから、一哉の口元に差し出してやる。
「ん。うまい」
一哉ははふはふと口を動かしながら、親指を立てた。
行儀は悪いが、流しの前でたったままワインを飲みながら、揚げたてのカツや、チーズやナッツを摘まんだ。
腹を満たしてワインを飲み乾すと、二人は居間へ移動してビールを開けた。甘いワインを2本開けたので、妙に喉が渇いている。
見るともなしに流しているテレビでは、海上自衛隊のイージス艦「あたご」が漁船「清徳丸」に衝突した事件の検証番組が流れている。
「チカ、遅いな」
ひとりごちて、一哉が携帯のフリップをパカリと開いた。かちかちとメッセージを打っている。
「遅いって、まだ11時じゃん。あいつ、あんな顔してザルっつーかワクだし、大丈夫だろ」
「それでも心配。というより、早く会いたい」
一哉はふふっと笑って、携帯電話を弄んでいる。
我が兄ながら、なんだこの臆面のなさは。
誠二は飲み干した缶ビールを右手で潰す。
ジリリリンと居間の電話が鳴った。藤森家の電話は昔懐かし黒電話で、花柄のカバーまで掛かっている。母の趣味だ。
「はい、藤森です。ああ、チカ? 今ど」
話している途中で、一哉にダッシュで受話器を奪われた。
「チカ、今どこにいるの? 恵比寿? じゃあ、今から迎えに行くから。いいって店どこ」
一哉は何やら話してから、電話を切った。
「俺、迎えに行ってくるね」
「過保護かよ」
「過保護だよ。大事だからね」
「あー、もう! んじゃ、俺も行くわ。一哉、酔ってんだろ」
「そこまで酔ってないよ。おまえの方こそ、俺より飲んでたくせに」
「俺が酒強いの知ってるだろ、おにーちゃん」
「むかつく弟だね。ま、それじゃあ行こうか」
一哉だって酒は弱くはない。そんなに酔ってないのは分かっていたが、誠二の方も外の空気を吸いたかった。
外に出ると、少し風が強い。春の夜の風だ。
散歩がてら駅まで歩いて電車に乗ろうと言いながら、一歩先を歩く一哉の後ろ姿。
色素の薄い長い髪とスプリングコートの裾が、吹き飛ばされそうに揺れている。
誠二はブルゾンの前を合わせ、兄の後を追った。
「おかえり」
「ただいま。あれ、チカは?」
「飲み会だってさ」
ちゃぶ台にはセロリと玉葱を炒めたものと、クレソンと林檎のサラダが乗っている。ワインはマテウス・ロゼだ。
一哉は元々料理が上手いが、行人が同居するようになってから更に研究熱心になった。
肉も魚も好まない行人のために、特にベジのバリエーションはプロ級に増えている。
「おまえも飲むだろ?」
一哉が新しいグラスを取り出し、桃色のワインを注いでくれる。
藤森家の両親は、一哉が大学を卒業すると同時に家業の古本屋を一哉に譲り、鳥取で田舎暮らしを始めた。4歳年上で、高校生の頃からゲイを公言し、穏やかで飄々としている一哉。
自分とは全くタイプの違う兄と、子供の頃は一緒に遊んだ記憶もなかったが、二人暮らしになってからはよく話すようになった。
「勿論。つまみ、何か足すわ」
男子大学生だ。高校の頃ほどではないが、いつも腹は空いている。
ワインを啜りながら台所へ向かうと、一哉もグラスとサラダの皿を持ってついてきた。
昭和初期の家なので、台所は流しも天板もタイル張りだ。白と水色のモザイク模様の作業スペースに食材を広げ、手早く揚げ物の支度をする。
羽根型の換気扇の風を受けながら、一哉が不意に言った。
「誠二、チカのことだけど、遠慮しなくていいんだよ」
「してねえよ。だから、ずっと普通に帰ってきてんだろ」
行人が住み始めてから、いわゆるお邪魔虫となった誠二は、当初は夜遊びやバイトを理由に外泊を増やした。
そうしたら、行人にキレられた。
「おまえが帰ってこなくなるんだったら、俺は出ていく」
変な奴だと思った。
誠二がいなければ、二人でしたいことをし放題だろうに。
三人で飲んだり食ったり、テレビを見たりするのは予想外に楽しい時間だった。
楽しい時間が経つのは早くて、行人との同居はもう1年半になり、誠二と行人はこの四月から4年生になる。
「そうじゃなくて。好きだったらって話」
一哉が静かに言った。
一哉は、誠二が行人に心を揺らがせていることに気づいている。けれどそれは、ただの揺らぎだ。
この兄に嘘は通用しないので、誠二は正直に白状した。
「俺が好きなのは女。男とはヤったことも、ヤりてえと思ったこともねえよ。チカは、バカみてえに真面目でいい奴だし、まあ、可愛いとも思うし、おまえとの色々想像しないわけじゃねえけど。でも、ねえよ」
「ならいいけど。ま、挑まれても、おまえにも誰にも譲る気ないけどね」
そういう兄の目はマジで、かなり怖い。
一哉に逆らう気なんて更々ないし、何より行人の方もベタ惚れなのだ。
倦怠期なんて単語は辞書にないというように、変わらず満たされている二人を見ていると、横やりを入れる気にもならない。
「弟相手に惚気るなよ」
「はは、それもそうだな。あ、これもういいんじゃない?」
手元を見ると、フライパンの中のハムカツはいい具合のキツネ色だ。
菜箸で摘まんだハムカツの余分な油をキッチンペーパーに落としてから、一哉の口元に差し出してやる。
「ん。うまい」
一哉ははふはふと口を動かしながら、親指を立てた。
行儀は悪いが、流しの前でたったままワインを飲みながら、揚げたてのカツや、チーズやナッツを摘まんだ。
腹を満たしてワインを飲み乾すと、二人は居間へ移動してビールを開けた。甘いワインを2本開けたので、妙に喉が渇いている。
見るともなしに流しているテレビでは、海上自衛隊のイージス艦「あたご」が漁船「清徳丸」に衝突した事件の検証番組が流れている。
「チカ、遅いな」
ひとりごちて、一哉が携帯のフリップをパカリと開いた。かちかちとメッセージを打っている。
「遅いって、まだ11時じゃん。あいつ、あんな顔してザルっつーかワクだし、大丈夫だろ」
「それでも心配。というより、早く会いたい」
一哉はふふっと笑って、携帯電話を弄んでいる。
我が兄ながら、なんだこの臆面のなさは。
誠二は飲み干した缶ビールを右手で潰す。
ジリリリンと居間の電話が鳴った。藤森家の電話は昔懐かし黒電話で、花柄のカバーまで掛かっている。母の趣味だ。
「はい、藤森です。ああ、チカ? 今ど」
話している途中で、一哉にダッシュで受話器を奪われた。
「チカ、今どこにいるの? 恵比寿? じゃあ、今から迎えに行くから。いいって店どこ」
一哉は何やら話してから、電話を切った。
「俺、迎えに行ってくるね」
「過保護かよ」
「過保護だよ。大事だからね」
「あー、もう! んじゃ、俺も行くわ。一哉、酔ってんだろ」
「そこまで酔ってないよ。おまえの方こそ、俺より飲んでたくせに」
「俺が酒強いの知ってるだろ、おにーちゃん」
「むかつく弟だね。ま、それじゃあ行こうか」
一哉だって酒は弱くはない。そんなに酔ってないのは分かっていたが、誠二の方も外の空気を吸いたかった。
外に出ると、少し風が強い。春の夜の風だ。
散歩がてら駅まで歩いて電車に乗ろうと言いながら、一歩先を歩く一哉の後ろ姿。
色素の薄い長い髪とスプリングコートの裾が、吹き飛ばされそうに揺れている。
誠二はブルゾンの前を合わせ、兄の後を追った。
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