戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

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番外編

2032: My name is...

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 人が恋に落ちる理由なんて、ほんの些細なことだと思う。
 私の名前が好きだと言ってくれた。うちのお豆腐を一丁ぺろりと食べてくれた。
 直子はそれだけで、朝倉瑞希を好きになった。

 地方都市でも、中学生活には絶対的なスクールカーストが存在する。
 直子は発育が良く、成績は上の下、テニス部では1年生ながらレギュラーで、学校でも目立つ存在だ。
 一方、朝倉瑞希は線が細く、ごく少ない友人たちと教室の隅で物静かに過ごしている少年だ。

 直子の父親は金沢市消防局の消防士、母親は在宅で直子にはよく分からない仕事をしている。
 直子が小さい頃は家族3人で消防局の官舎で暮らしていたが、数年前、豆腐屋を経営する祖父母が、老朽化した自宅兼店舗を改装したのをきっかけに、直子一家も祖父母の家に同居することになった。
 おじいちゃんとおばあちゃんが大好きな直子にとっては、嬉しいことだった。

「ただいまー」
 夏休み。
 部活を終えて豆腐屋の暖簾をくぐると、社員の園田瑞枝が出迎えてくれた。
 70歳を超える祖父母はかくしゃくとしているが、店は実質的に園田が取り仕切っている。
「おかえり。直子ちゃん」
「ねえ、みんなはまだ?」
「行人君達はもう着いてて、お父さんと上で酒盛り始めてるわよ。陽一郎さんとこは明日の朝到着ですって。恵介君達はさっき空港に着いたそうだから、もうじきね」
「うふふ。楽しみー」

 明日からお盆だから、近間家が勢ぞろいするのだ。
 直子の父は4兄弟の末っ子だ。
 長男の陽一郎と三男の行人は東京に、次男の恵介はシンガポールに住んでいるので、叔父たちとはお正月とお盆くらいしか会う機会がない。
 直子は嬉しくて、その場でぴょんぴょんとジャンプした。
「直子ちゃんは叔父さんたち大好きだものね。そうだ、コロッケ揚げたてだけど、食べる?」
「んー。暑いから、お豆腐の方がいいな」
 そう言うと、園田はくすくすと笑った。
「おやつにお豆腐食べる中学生なんて、直子ちゃんくらいよね」
「だって好きなんだもん」
 直子は学校指定のジャージ姿のまま、絹ごしに岩塩を添えた皿を持って、店の前のベンチに座る。

 クーラーが効いた部屋に飛び込むのもいいが、暑い中で冷たいものを口にするのも好きだ。
 真夏の陽気を歩いて汗ばんだ身体に、冷えた豆腐の滑らかさが心地よい。
 塗りの匙を咥えて、直子はぼんやり空を見上げた。

 アスファルトが溶けそうなほどの熱気。
 その中を、Tシャツにハーフパンツ姿の男の子が歩いてくる。
 私服なので一瞬分からなかったが、クラスメイトだった。 

「朝倉君」
 物静かな少年だが、朝倉瑞希というアイドルみたいな名前を持っているので、直子は彼をよく知っていた。
 呼びかけると、瑞希は直子を認めて、躊躇ったような顔つきになる。
 学校の外で、親しくない同級生と顔を合わせるのはなんだか気まずいものだ。
「朝倉君、どこ行くの?」
 直子が明るく話しかけると、瑞希は足を止めた。
「塾の帰り。そっか、ここ、近間さんの家?」
 瑞希は「近間とうふ店」と書かれた看板を見上げた。
「うん。おじいちゃん家」
「そうなんだ」
 それきり瑞希は黙った。
 喋るでも立ち去るでもないので、直子は半分ほど豆腐が残った器を見せた。
「ねえ、お豆腐食べてかない?」
「いいの?」
 遠慮されるかと思ったが、瑞希は存外あっさり頷いた。
 直子は店に入ると、お豆腐一丁に塩と醤油を添え、瑞希に手渡した。
 小さなベンチに二人で腰掛ける。
「美味しい」
 瑞希は最初に一言そう言ったきり、もくもくと豆腐を食べている。

 35度を超す陽気なのに、瑞希はほとんど汗をかいておらず、その横顔は涼やかだ。
 二人の距離が近いので、直子は身じろぎする。
 部活の後だ。制汗スプレーは使っているけれど、汗臭くないか気になってしまう。
 瑞希はぺろりと豆腐を平らげると、ご馳走様と手を合わせた。
「一丁食べても全然飽きない」
 最上級の褒め言葉に、直子は胸を逸らす。
「一丁食べられないお豆腐はお豆腐じゃないんだって。おじいちゃんの口癖」
 それを聞くと、瑞希はにこっと笑った。
 園田さんがサイダーを出してくれたので、ベンチに腰掛けたままお喋りした。

 共通の話題は学校のことしかない。
 二人のクラスの担任が姫野まりんというアニメキャラのような名前なのに、本人はひとつ結びの黒髪に黒のスーツという中学教師のテンプレのような女性なので、そのギャップの話で盛り上がった。
「朝倉君は、瑞希ってカッコいい名前だよね」
 直子が話を振ると、瑞希は大人びた仕草で肩を竦めた。
「名前負けしてるよ。今はまだいいけどさ。おじいちゃんになっても「瑞希」なんて恥ずかしいよ。男は苗字も変わらないし」
「朝倉君。今からおじいちゃんになったこと考えてるの?」
 直子には、おじいちゃんどころか高校生になった自分さえ想像できない。
「誰にも子供の頃があって、そして、誰もが年を取るよ」
 そう言って、瑞希は直子を見た。
 この男の子は、どこか遠くを見ているような透明な瞳をしている。

「僕、近間さんの直子っていう名前、好きだよ」
 直子の世代には亜理紗ちゃんとか陽鞠ちゃんとか、可愛らしい名前が多い。
 女友達に名前のことを言われた時は、場の空気を読んで、「昭和みたいで地味でしょ」と自嘲気味に茶化してしまうことが多かった。
「古臭いし、地味な名前でしょ」
 だからこの時も同じようにしたら、瑞希は首を傾げた。
「そうかな。響きが柔らかいし、子のつく名前って知的だと思うよ」
 響きとか知的とか。瑞希は中学1年生が日常では使わない言葉を操る。 
 真正面から褒められて、胸がとくんと打った。
 ただでさえ暑いのに、頬が更に熱くなる。
 直子は嬉しさを隠し切れずに笑顔になった。
 本当は自分の名前を卑下したくなんてない。
「私もね、自分の名前、好きなの」
 私の名前は、家族を結び付けるものだから。
「直子の「直」っていう字、私の叔父さんに当たる人から貰ったんだ」
 血縁関係も戸籍上の繋がりも持たない彼を近間家に結び付ける唯一の形あるものが、直子の名前だ。
「叔父さん?」
「そう。私のお父さんのお兄さんの恋人」
 それって、と瑞希が何か言おうとした時、二人の前に緑色のタクシーが止まった。 


「恵ちゃん!」
 車から降りてきたのは叔父の近間恵介だった。
 直子は飛び上がって、恵介に駆け寄った。
「ただいま、直子ちゃん。あれ、また背伸びたね」
 恵介は、直子の背を測るように手をかざし、綺麗に微笑んだ。
 空色のポロシャツを着た恵介は、真夏の熱さなんて知らないように涼やかな印象だ。
 恵介はシンガポール航空のパイロットで、40半ばになるのに、昔から全然変わらない。
 いつでも文句なしにカッコよくて、王子様みたいにきらきらしている。
「今、160センチなの。中1なのに、高すぎるでしょ」
「背が高い女の子って素敵だよ。部活帰り?」
「うん。レギュラー入りしてから、超しごかれてる」
「1年生なのに凄いな」
 話していると、反対側から直樹が降りてきた。
 トランクからスーツケースを出そうとする初老の運転手に、自分でやりますからいいですよと断って、二人分のスーツケースを降ろしている。
「直樹君!」
「直子ちゃん、久しぶり。また可愛くなったね」
 直子は指先で頬を掻いた。
 この二人は、いつも真っすぐに褒めてくれる。
 どんなことに対しても意地悪な見方をしないのだ。

「もしかして、彼氏?」
 恵介が、ベンチに座ったままだった瑞希を見た。
「友達の朝倉君だよ」
 直子が紹介すると、瑞希は慌てて立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
「近間さんと同じクラスの、朝倉瑞希です」
 瑞希は、恵介と直樹の目を順にしっかりと見ながら、名乗った。
 その所作に直子は感心する。
 立派な大人の男に、気負わずに礼儀正しく挨拶できる子供は少ない。
「こんにちは。直子の叔父の近間恵介です」
「梶直樹です」
 関係性には触れずに名乗った直樹に、瑞樹は瞬いた。
「もしかして、この人が、さっき言ってた?」
「そう。直樹君は恵ちゃんの恋人で、直子の「直」は、直樹君から貰ったの!」
 直子は直樹の腕に絡みついた。
「え、でも、男同士……」
 混乱する瑞希に、近間がにっこりと微笑んだ。
「この子は、自分の名前の由来のこと、滅多に人に話さないんだ。直子をどうぞよろしくね」
 老若男女、恵介の笑顔に魅入られない人はいない。
 顔を真っ赤にする瑞希を見て、直子と直樹は顔を見合わせて笑った。
 
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