戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

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これから、もっと楽しい@東京国際空港

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 2020年8月。 

 最後の夜は、ただ抱きしめ合って眠った。
 互いの感触を、体温を、匂いを、そして心をすべて溶け合わせるように。

 備え付けの家具以外、すべて荷出しを終えたDuo Residenceの部屋はがらんとしている。
 この部屋で二人で過ごした2年半。諍いや喧嘩も勿論あった。
 でも、全部楽しかった。

「じゃ、行くか」
 感慨深げに部屋を見回す直樹の背を、後押しするようにわざと強く叩いた。
 一緒に感傷に浸ってしまえば、泣いてしまいそうだったから。
 過去よりも、現在を、そして未来を。
 直樹と会ってから、悲観的になった時は常にそう自分を戒めている。

 引越荷物は船便に出したので、荷物はスーツケースが一つずつだけ。
 靴を履いて、玄関で軽くキスをした。 
 それから、二人並んで、たくさんの思い出が詰まる部屋に向け、深く頭を垂れた。

「お世話になりました!」
 

 在シンガポール日本国大使館防衛駐在官兼一等書記官 近間恵介3等空佐に帰朝を命ずる。防衛省に出向させる。
 航空自衛隊南西航空方面隊第9航空団第204飛行隊勤務を命ずる。

 1か月前、予定通り帰国発令が出た。
 当然分かっていたことだし、勤務地は日本の防衛最前線を担う那覇基地だ。
 仕事の面では嬉しい辞令だったが、直樹との距離は遠くなる。

 無意識に複雑な表情をしていたのだろう。
 直樹はわざとらしいほどの満開の笑顔で「おめでとうございます!」とエールを送ってくれた。その上。
 二人で過ごしたこの部屋に、ひとりでいたくないし、いさせたくありません。
 そう言って、自分も近間と一緒のタイミングで帰国できるよう、五和商事人事部とかなり無理な調整をしてくれた。


 空港でチェックインカウンターに並んでいた時、二人のスマホが震えた。
 シンガポールのキャリアのこの番号を使うのも、今日で最後だ。
 メッセージを見て、近間と直樹は同時に笑った。

「お疲れ様でした!! 今、日本はシンガポールより暑いですよ。覚悟して帰ってきてくださいね!」
 三宅里奈からだった。
 昨年、一足先に帰朝命令を受けた三宅は、現在は霞が関の国土交通省で予算業務を担当している。

 返信しようと画面をタップしていると、更にメッセージが届いた。
「近間さん、直接那覇に行かれるんですね。羽田まで挨拶に行きたかったけど、仕事抜けられなくて><。今度、4人でスカイプ飲みしましょうね」
 続けて、三宅と矢倉のツーショット写真が送られてくる。
 かつて三宅はシンガポール留学中の大学生と交際していたが、紆余曲折を経て、そして一同が度肝を抜かれたことに、今は矢倉翼と付き合っている。

 三宅とほぼ同時期に任期を終えた防衛駐在官の岩崎哲也は、イージス艦の艦長を拝命し、今は南シナ海の洋上だ。



 シンガポール―東京間の6時間半。
 食べて飲んで、映画を見て、うとうとしていればすぐだ。
「ずっと、着かなければいいのに」
 ブランケットの下で手をつなぎながら、直樹が呟いた。
 モニターには映画の「チャーリーズ・エンジェル」を流しているが、ストーリーなんて頭に入って来ない。
 近間は泣きそうになるのを我慢して、苦笑して見せる。
 言うなよ。
 そんなの、俺だってずっと思ってるんだから。
 でもさ。

「ばーか。燃料切れちまうだろ」
 って、笑うしかないだろ。
 めそめそするなんて、俺たちには似合わない。


 シンガポール最後の夜はいつもと同じように過ごした。
 最後の晩餐、なんて豪華なディナーに行くつもりもなくて、最初に2人が出会ったホーカーズでクレイポットライスを食べた。
 店のおばちゃんは相変わらず無愛想だったけど、日本に帰国すると話すと、野菜炒めとスープをサービスしてくれた。

「クレイポットライスの小1つ」

 今では、最初の一音だけで耳をダンボにしてしまうほど、大好きな直樹の声。
 初めて聞いたセリフはその中国語だった。
 小汚い屋台村にスーツ姿で一人メシを食いにくるんだから、在留邦人だと一目で分かった。
 ドラマに出てきそうなぱりっとしたリーマンなのに、売り切れにがっくりと肩を落としていた様子が妙に面白くて、というか可愛くて、思わず声をかけてしまった。

 あの時、クレイポットライスが売り切れていなかったら、近間が声をかけていなかったら。
 いや、そもそも普段は自炊の近間が、なんとなく屋台で外食をしたくなっていなかったら。

 ああ。
 なんか、もう。
 最初から、全部。運命なんじゃないか。

 なんなんだろうな。
 こんなに大好きで大好きで、どうしようもなくなる気持ち。
 父さんと母さんも。
 陽兄とみちるさんも。保と市子ちゃんも。
 直樹のお父さんとお母さんも。
 そうやって人は、愛を紡いできたんだろうか。
 俺たちは、血縁という意味では何も残せないけれど。
 俺とおまえの愛は、確かに、ここにある。

 滲んだ涙を愛おしい指がそっと拭ってくれた時、アナウンスが響いた。
「ご搭乗の皆様。当機は、まもなく羽田空港に向けて最終の着陸態勢に入ります……」


 五和商事東京本社第一営業部配属となった直樹は、羽田空港から世田谷区に向かう。
 直樹は、帰国に伴い、父親と姉と3人で同居するという決断をした。

「上手く行く要素なんてヒトカケラもないんですけどね。それでも、試してみようと思います」
 そう言いながらも笑った直樹は、出会った時よりも強くなった。
 こいつに見合うだけの自分で有り続けようと、近間は決意を新たにする。

 近間は羽田で乗り継いで、そのまま那覇に向かうので、ここで一旦お別れだ。
 国内線乗り継ぎと出口への分かれ道で、2人は立ち止まった。 

「そんな顔すんなよ」
 泣かないと約束していたから、絶対に泣くものかと堪えているのだろう。
 白くなるほど唇を噛みしめる直樹の腹に、近間は猫パンチを繰り出した。
「だって」
 声も唇も震えている直樹の両頬をぱんと叩いた。
 自分にも直樹にも言い聞かせるように大声で言う。

「なあ! シンガポール、楽しかったよな」
「はい。めちゃくちゃ楽しかったです」
 何を思い出しているのか、直樹が顔を綻ばせる。
 近間はすっと息を吸った。
 そして、伝える。
「約束する。俺たちは、これから、もっと楽しい」
 直樹が目を見開く。
「だろ?」
 覗き込むように下から見上げると、直樹はにっと笑った。
 ああ。その自信ありげな顔。
 大好きだよ。

「はい。どれだけ離れても、近間さんへの愛が深まる確信しかありません」
「ははっ。本当、おまえ、鉄板な」
 俺を不安にさせないように、虚勢張って無理をして笑ってくれるおまえが好きだ。
 固めた拳を突き出すと、直樹ががつんと拳を合わせてくる。

「近間さん。Good Luck!」
「おまえもな」
 身体も魂も男同士だ。
 キスがなくても分かり合える。
 拳を打ち付けてから、背を向けて、歩き出す。
 近間は振り返らなかった。直樹もきっとそうだ。

 思い出は大切にしまっておく。
 でも、いつだって、未来の方が過去より楽しい。
 過去を懐かしむより、未来に胸を弾ませたい。

 ターミナルから見上げた東京の空はシンガポールほど濃くはないけれど、透き通るように爽やかな青で。
 その空を一筋の飛行機雲が駆け抜けて行った。
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