戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

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空は繋がっている@シンガポール・リバー

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 昨夜はゆったりと慈しむようなセックスをした。その幸福な余韻がまだ身体に残っている。

 午前中の川風はまだ気温が低く、火照る身体に気持ちいい。
 荷物は自宅に郵送するようホテルに頼み、二人は朝の散歩をするためにシンガポール川に向かった。
 のんびり歩く二人をジョガーが追い越していく。

 この辺りで、近間が「じゃあ、付き合う?」と言ってくれてからまだ1年も経っていないのに、随分昔のことのようだ。

 人気が途切れたのを見計らって、直樹は歩きながら近間の手を取った。
 薬指の指輪に口づけてから、手のひらに小さな紙の袋を乗せた。

「近間さん、これ、持っていてください」
 薄い紙でできた白い袋。
 そこに書かれた「上」の文字と神社名で、近間には中身が分かったようだ。
 驚いたように手の中のものを見つめている。
「おまえ、これ、どうやって」
「指輪以外にも何か贈りたくて。近間さんならこれしかないかなって。再来週、また飛行訓練あるって言ってたし。 
 神社に連絡して事情を説明したら、快く郵送手配してくれました」
 近間が袋から取り出したカード型の御守りには、「守護  飛行神社」と金糸で刺繍されている。

 飛行神社は、京都府八幡市にある、空の安全と航空業界の発展を祈願する神社だ。
 自衛隊の飛行部隊には飛行神社の御札を奉っているところも多いと聞き及び、いつか近間に贈りたいと思っていた。

 近間は御守りを手のひらで包み、祈りを込めるように目を伏せた。
「直樹、ありがとう。最高の誕生日だったよ」


 しばらくの間、近間は考え事をするように黙っていたが、やがて立ち止まった。
 直樹も歩みを止め、シンガポール川を望む欄干に片手を添えた。
「……防衛駐在官の任期は3年って決まっているから、俺は2年後には日本に戻る」
 事実を確認するように、近間が言った。
 直樹は静かに頷く。

 大使館員の任期は大抵3年であることは、近間からも三宅からも何度も聞いている。
 直樹自身、その頃までには帰国の辞令が出るだろう。
 こんなふうに毎日2人でいられる時間はそんなには長くはない。
 そう思って、同居を決意したのだ。

「俺はまず間違いなく地方部隊の勤務になる。幹部自衛官は全国転勤だから、その後もどこに異動になるか分からない」
「分かっていますよ」
 直樹は、近間を安心させるように微笑んだ。
「それを言うなら、俺は全国転勤どころか全世界転勤族ですから。分かっていて、続けていく自信も覚悟もあります。でなければ、指輪なんて贈りません」
「それは俺もだよ。どれだけ離れててもおまえのことをずっと想い続けるって、分かってる」

 シンガポール赴任が終われば離れ離れになる。
 最初から分かっていたことだから、この話は何度も話したことがあるし、その度に同じ結論を出してきた。
 だから、何故今、近間がこの話を蒸し返すのか分からなかった。

「どうしたんですか? 近間さん」
 思いつめたような顔をしている近間の前髪を指先でかき分けた。

「……おまえと一緒にいたい」
 絞り出すように近間が言った。
「近間さん?」
「だから、40になったら自衛官を辞める」

 戦闘機パイロットほど身体を酷使し、体力と精神力を要する職種もないだろう。
 音速を出すあの美しい乗り物に乗るには、当然、若くて頑健な肉体が求められる。
 戦闘機乗りの寿命は概ね40歳だ。それを過ぎると、現役で実任務に就くのは難しくなる。
 戦闘機を降りた後は、後進を育てる教官、部隊指揮官や航空幕僚監部の管理職、輸送機パイロットへの転換等、様々な選択肢があるが、いずれにせよ転勤族に変わりはない。

 直樹は目を細めて近間の瞳を覗き込んだ。
 澄んだ瞳が決意を伝えるように見返してくるが、その奥に揺らぐ迷いは直樹には隠せない。
 直樹はわざとらしく溜め息をついてから、近間の髪をぐしゃぐしゃに掻きまわした。
 ふわふわの毛が絡み合って鳥の巣のようになる。

「ちょっ、何すんだよっ! 人が真面目に話してる時にっ」
「あんた馬鹿ですか」
「はあ? 馬鹿ってなんだよ。……痛っ!」
 睨んでくる近間にデコピンを食らわした。
「馬鹿だから馬鹿って言ったんですよ」

 川沿いで立ち止まって騒ぐ長身の男二人を、ジョガーの女の子が不審な目で見ていく。
 直樹は近間を引き寄せて、その背をぽんぽんと叩いた。
「近間さん、そんな大事なこと、迷ったまま決めたら駄目です」
「迷ってなんか」
「迷ってるでしょ」
 詰めると、近間はうっと目を逸らした。
「仕事って、ただ食うための手段じゃなくて、生き方そのものでしょ。俺と一緒にいるためにじゃなくて、近間さんが一番したいことを選び取ればいいんですよ。あと6年もあるんだから、ゆっくり考えてください」
 諭すように言うと、近間はこくりと頷いた。
「……うん、サンキューな」

 命を懸けて着ている制服を簡単に脱げるわけがない。
 パイロットの近間が好きだ。空を駆けるこの人がどれほど美しく格好いいかを知っている。
 だから、どんな形でもいいから、飛び続けて欲しいと願っている。

「はい。どうしても一緒に住みたいってなったら、俺が転職するっていう手もありますし。そうでなくても、定年後は40年も一緒にいられるわけですし」
「はは、おまえそんな長生きするつもりなの?」
「現代医療の進歩は飛躍的ですからね」
 ツボに入ったのか、近間は爆笑している。本当に、表情がよく変わる人だ。
 いつまで見ていても、全然飽きない。飽きるわけがない。

「近間さん。遠いとか離れるとか、あんまりシリアスに考えなくていいですよ。だって、ほら、あんたが誰よりも知ってるじゃないですか?」
「なにを?」
 問いかける近間の視線を導くように、直樹は人差し指を天に向けた。
 朝の光に輝くシンガポール川の真上には、晴れ渡った南国の空が広がっている。

「世界中どこにいても、空は繋がっているって」
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