戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

文字の大きさ
上 下
59 / 90

出張シェフしましょうか?@コールド・ストレージ

しおりを挟む
 土曜日の昼下がり、アパートの近くにあるスーパー「コールド・ストレージ」で、大西陽子はぼんやりと陳列棚を眺めていた。
 棚には色鮮やかなオーガニック野菜が行儀よく並んでいるが、手を取る気にならない。
 身体が重いし、料理をするのが億劫だ。
 夫はゴルフで帰りが遅いし、お惣菜か外食で済ませようか。

「勇馬、何食べたい?」
 傍らの息子に訊くと、さして興味もなさそうに、「何でもいい」と答える。
 中学1年生の男子なんてこんなものだ。買い物に付いてくるだけ御の字である。
「お昼は炒飯だったし、何かあっさりしたものかしら」
 昼にはチャーシュー入り炒飯を作った。
 脂っこい物は食べたくなかったが、勇馬の好物なのだ。
 その匂いと脂を思い出し、陽子は思わず口元を押さえた。
 陽子は第2子を妊娠している。
 つわりは終わっているのだが、急に気持ち悪くなることがたまにある。

「大丈夫?」
 眉を顰める息子に、陽子は無理やり笑って見せた。
 無口で無愛想な子だが、性根は優しいのだ。妹が生まれることを、誰よりも楽しみにしてくれている。
「大丈夫。ねえ勇馬、夕飯、出来合いのものでいい?」
「何でもいい。父さん、今日も遅いんでしょ。荷物、まだ全然片付いてないし」
「そうね。じゃあ、あっちで、食べたいお惣菜選んできてくれる?」
 陽子は息子のキノコ頭を撫でた。今は陽子より背が低いが、すぐに追い越されるんだろうなと思う。


 フルーツだけは買っておこうと果物コーナーを物色していると、後ろの客の会話が聞こえてきた。
 シンガポールには3万7千人もの在留邦人がいるので、日本語が聞こえてくることは珍しくない。
 マスカットを手に取りながら、聞くともなしに聞く。

「夕飯、何食いたい?」
「んー、アジアンっぽいのがいいです」
「俺、和食しか作れないぞ」
「日本もアジアですよ」
「その理屈だと中華もアジアンになるぞ」
「インド料理もですね。南アジアだから」
「ネパールもアフガンも南アジアだぞ」
「アフガニスタン料理ってどんなのですか?」
「アシュとかバンジャンボラニとかアシャックとか」
「それ、出鱈目じゃないですよね」
「大使館員なめんな」
 くだらないのか知的なのか分からない会話だが、じゃれ合うような口調が楽しそうだ。
 
 あら、でも、この声、聞き覚えが。
 陽子が振り向くと、やはりご近所さんだった。
 同じアパートに住む梶直樹と、一か月ほど前に越してきた極上のイケメン。確か名前は近間だったか。

 陽子の夫は、日系の大手保険会社のシンガポール駐在員だ。
 夫と梶は一回りは年が離れているが、仕事繋がりで、何度かゴルフをしたこともあるようだ。
 独身で、一流商社マンを絵に描いたような梶だが、女性を連れ込んでいるところは見たことがない。
 と思っていたら、びっくりするくらい美形の男と同居を始めたものだから、下世話ながらもあれこれ想像を巡らせたものだ。

「ルームシェアをしてるんです」という直樹の説明を夫は真に受けていたが、陽子は二人の関係はそれだけではないと推察している。
 最初は、勇馬の教育に良くないのではと心配したが、二人は非常に真っ当で礼儀正しく、きちんとした社会人だった。勇馬も懐いているようだ。

「あ、直樹と近間さんだ!」
 戻ってきた勇馬が途端に明るい顔になる。
「勇馬、呼び捨てなんて失礼でしょう」
 陽子は思わず叱る。梶は「直樹さんと呼べ」と口を尖らせながらも、眼は笑っている。
「こんにちは。夕飯の買い物ですか?」
 近間が話しかけてきた。
 一見取っ付きにくそうだが、気さくな人なのだ。
「あ、ええ、はい。何作ろうか迷ってるんです」
 年下相手に敬語になってしまった。
 しかも、何作ろうかなんて言いながら、レジカゴは空っぽのままだし、勇馬は唐揚げとポテトサラダの惣菜パックを持っている。
 梶と近間のカゴは、いかにも自炊している人のそれで、新鮮な肉や野菜が入っているというのに。
 
 陽子は急に恥ずかしくなった。
 2人とも、Tシャツにジーンズという普段着なのに、なんだかとてもお洒落できらきらしている。
 陽子は服も髪も化粧も手抜きの自分を隠したくなる。
 レジカゴを握る指先のマニュキュアは先が剥げていてみっともない。
 だって、妊娠で体調は悪いし、家事も駐在妻の集まりもさぼれないし、荷造りは進まないし、夫は毎日帰りが遅いし。
 駐在妻が優雅だなんて嘘ばっかり。
 黙りこくる陽子に、近間がさらりと言った。
「うちも、何作ろうか迷ってたんです」
 うちも。その言葉の温かさに、陽子の気分は和らぐ。
「本当は、作るの面倒くさくて、出来合いにしようと思ってたとこ」
 無意識に腹に手を当てながら白状すると、梶と近間は顔を見合わせた。
「良かったら、出張シェフしましょうか?」


 イケメン2人がうちのキッチンで料理している。
 陽子が恐縮しつつも申し出を受け入れると、梶と近間の行動は早かった。
 二言三言相談しただけで、メニューを決め、大量の食材を揃え、近間のBMWで4人でアパートに戻り、早速調理を始めた。
 二人並んで調理をしている様子は、いかにも仲が良さそうで微笑ましい。

 その間、陽子と勇馬は荷造りに励むことができた。
 シンガポールの会計年度は日本同様4月始まりで、すなわち3月は異動の時期だ。
 夫にも本社勤務の内示がでて、再来週には帰国をすることになった。
 来週末には船便の荷出しがあるので、部屋中がダンボールだらけだ。
 5年間の駐在生活で増えた荷物は相当な量で、やってもやっても終わらない作業にうんざりする。

「勇馬、遊んでないで手を動かしなさい」
 大量の衣類を畳む陽子の横で、クローゼットから出てきたアルバムを眺め出した勇馬を注意する。
「はーい」
 間延びした返事をし、勇馬はアルバムを本と一緒にダンボールへ詰め込んだ。その様子を見ながら、陽子は溜め息をつく。
 子供だから仕方がないのだが、手際が良くないし、詰めるというより投げ込んでいるような適当さだ。
「きちんと詰めないと、運んでる途中でぐちゃぐちゃになるわよ」
「ん」
 返事はするが、詰め直す気はなさそうだ。隙間だらけのダンボールに乱雑に緩衝材を放り込んでいる。
 整理整頓が苦手なところは父親に似たのだろう。
「まったく。どうしてきちんとできないのかしらね」
 思わず強い口調になってしまった。勇馬が反抗するように眉を顰めた時、ドアが控えめにノックされた。
「食事、出来ましたよ」
 穏やかな梶の声に救われ、陽子はそっと胸を撫で下ろした。


 出てきたのは、鍋焼きうどんだった。
 出汁の良い香りにぐぅっとお腹が鳴る。
 うどんの白に、青梗菜の緑、卵の黄色が鮮やかだ。蒲鉾に椎茸に油揚げ。
 好きな量を食べられるようにか、エビの天麩羅は大皿に盛ってある。

「美味しそう」
 陽子と勇馬は同時に歓声を上げた。
 4人でいただきますをして、箸をつける。クーラーが効いた部屋で食べるあたたかい物は美味しい。
 揚げに染みたダシがじゅんわり口に広がる。
 食欲なんてなかったはずなのに、つるつる箸が進む。

「大西さんはお仕事ですか?」
 麦茶を注いでくれながら、直樹が訊いた。
「土日は大体いつもゴルフなんです」
「週末も仕事だと、大変ですね」
「仕事なんだか遊びなんだか、あの人、ゴルフとしか言わないから。毎日帰りが遅いのも、接待なんだか飲み会なんだか」
 苦笑しながら、肩をすくめた。
「保険会社の支社長って重責ですからね。特に海外支社はローカルスタッフの管理も労力を使いますし」
「でもせめて、もう少し家のことやってくれたらいいんだけど」
 直樹が夫をフォローするのが癪で、つい愚痴ってしまった。
「母さん」
 勇馬が嗜めるように割って入ったので、陽子は慌てて取り繕った。
「ごめんなさい。美味しいごはん頂いてる最中に愚痴なんて」
「いえ、全然。お腹に赤ちゃんいて、帰国準備って大変ですよね。男手が必要だったら、いつでも言ってください」
 近間がにっこりと笑う。陽子より10歳は年下だろうに、頼もしくて思わず見惚れる笑顔だった。
「勇馬も、ちゃんとお母さん助けるんだぞ」
 直樹が言うと、勇馬は分かってるよと素直に頷いている。


 食事と後片付けを終えると、梶と近間は長居することなく玄関へ向かった。
 陽子は何度も頭を下げて礼を言った。

 本当に助かった。
 夕食作りも助かったのだが、夫以外の男性と長い時間話したのは久しぶりで、良い気分転換になった。まだ心が弾んでいる。

「あの、食材代お支払するわ」
 財布を出しながら申し出ると、梶と近間は丁重に固辞した。
 この二人が出張シェフをしてくれるなら、いくらでも払うという女性がいるだろうに。
「大した金額じゃないですし、餞別だと思って受け取ってください」
 どうしてもお金を受け取ってくれないので、陽子は今度何かお礼を持っていこうと心に決める。
「助けが必要だったらいつでも呼んでくださいね。本当に、遠慮せずに」
 近間が念押しすると、直樹が真面目な顔つきで続けた。
「ご主人にもどうぞよろしくお伝えください。それから、勇馬君、礼儀正しくてすごくいい子ですよ。俺が言うのも変ですけど、大事にしてあげてください」
 その口調に、そうか、この二人は生涯子供を持つことがないのだと今更ながら思う。
「どうしてそんなに親切にしてくれるの」
 陽子が訊くと、近間はあっさり答えた。
「ご近所さんですから。助け合うのは当たり前です。では、失礼します」


「近間さん、こういうのってあれですよね」
「あれ?」
「人情下町裏長屋」
「おまえ、帰国子女のくせに良くそんな言葉知ってんな」
「最近、時代劇にハマってて。時代劇だと、近間さんは天才剣士役か、あ、美形の僧侶もいいですね」
「え、俺ハゲなの? おまえはあれだな、呉服問屋のぼんぼん息子」
「嬉しくありません……」
 じゃれるように喋りながら去っていく二人を見送ったあと、陽子は麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けた。
 そして、びっくりする。

「うわ、すげ」
 同じく庫内を覗き込んだ勇馬もぽかんと口を開けている。
 ほとんど空っぽだった冷蔵スペースにはタッパが積み重なり、そのひとつひとつに中身が書かれたポストイットが貼られている。
 きんぴら、ラタトゥイユ、鶏ハム、ポテトサラダ、なす南蛮、ひじきの煮物……。
 どれも日持ちのする常備菜で、一週間分はありそうだ。
 そういえば、鍋焼きうどんには有り余るほどの大量の食材を買い込んでいたのに、二人は手ぶらで帰って行った。
 あの二人みたいに、優しくて頼りがいのある大人になってほしい。
 その思いを込めて、陽子は勇馬の頭と下腹部を同時に撫でた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

愛する息子へ

大衆娯楽 / 連載中 24h.ポイント:78pt お気に入り:0

猫もふあやかしハンガー~爺が空に行かない時は、ハンガーで猫と戯れる~

キャラ文芸 / 連載中 24h.ポイント:63pt お気に入り:170

誰もシナリオ通りに動いてくれないんですけど!

BL / 連載中 24h.ポイント:26,335pt お気に入り:3,133

死に戻り令嬢は、歪愛ルートは遠慮したい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:19,134pt お気に入り:1,631

転生したら死にそうな孤児だった

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:13,333pt お気に入り:143

人生前のめり♪

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:142pt お気に入り:124

 だから奥方様は巣から出ない 〜出なくて良い〜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:52,768pt お気に入り:2,500

【全話まとめ】意味が分かると怖い話【解説付き】

ホラー / 連載中 24h.ポイント:88,011pt お気に入り:666

処理中です...