戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

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いってらっしゃい@エレベーター

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 炊き立てのご飯に大根とワカメの味噌汁、焼き鮭、三つ葉入り卵焼き、キュウリの浅漬け、ほうじ茶。
 完全無欠の日本の朝ごはん@シンガポールである。
 朝6時に起きて、一緒にジョギングをして、一緒にシャワーを浴びて、一緒に朝食を作って、一緒に「いただきます」をした。

 味噌汁を啜る近間をちらりと見て、直樹は安心する。
 血色は良く、目も輝いている。ジョギングでは軽快に走っていたし、食欲もあるようだ。
 月曜日の朝。
 今日から、近間は2週間の飛行訓練に入る。
 3日前の深夜、近間から電話があった時は心底驚いた。
 そんな時間に電話してくることはこれまでなかったから。
 スマホ越しの近間の声は生気がなくて、タクシーを飛ばして会いに行ったらぎょっとした。
 数日ぶりに会った顔は、雛人形みたいに白く、何かに脅えているようだった。
 問い質すと、ずっと眠れていないと打ち明けられ、心底ショックだった。
 年上の近間が安心して頼れるような強さを、自分はまだ持っていないのだと突きつけられたようで。
 互いの思いを打ち明け合った後、直樹の腕の中でようやく近間は眠ってくれた。
 近間が嫌な夢で目を覚ました時に、すぐに微笑んで頭を撫でてあげられるように、その夜、直樹は一睡もせずに夜目で近間の寝顔を見つめていた。

「今日、泊まっていってくれないか? それで、明日の朝、笑って俺を見送ってほしい」
 昨夜、頼みがあると言った近間に、「なんでも叶えます」と答えると、見送りをリクエストされた。
 なんでもないような小さなお願いだが、近間にとっては大事なことだと分かった。
 近間と付き合い始めてから、直樹はひとかどの自衛隊マニアである。
 航空自衛隊の編成も装備品の種類と保有数量も空で言えるし、時々、自衛官妻のブログも覗いたりしている。
 自衛官の仕事は、いつ何が起こるか分からない。
 弾道ミサイル、テロ、災害、事故。出勤したら、その日に無事に帰ってこられる保証はないから。
 どんなに派手な喧嘩をしても、翌朝には笑顔で見送る。
 それが自衛官家族のルールだと直樹は知っていた。

「なんだよ、じろじろ見て。冷めるぞ」
「あ、すみません」
 慌てて箸を取ると、近間は呆れたように眉を下げる。
「おまえ、俺の顔好きだよな」
「好きですよ。近間さんだったら、どんな顔してても好きです」
「はは、なんだそれ」

 食事を終えて、一緒に後片付けをした。
 お泊りすると、日常のあれやこれやが全部「一緒に」になるのが嬉しい。
 汚れるといけないので、食事の間は二人ともTシャツにハーフパンツ姿だった。
 直樹が昨日持ってきておいたスーツに袖を通していると、近間も隣で着替えだした。
 自衛官は着替えが早い。あっという間に着替え終わる。
 その姿を見て、直樹は思わずスマホを構えた。

「何してんの」
 向けられるレンズに近間は警戒する。
「写真、撮りたいです」
「却下する。俺の写真なんかどうするんだよ」
「それは、まあ色々と使い道が…」
「うわなんか怖い。てか、オカズにもなんないだろ、こんな格好」
「なりますめちゃめちゃなります。カッコ可愛いです」
「おまえ、頭悪くなった?」
「頭悪くていいから、撮らせてください」

 直樹が何をこんなに興奮しているのかといえば、近間が戦闘服姿だからである。
 大使館に出勤する時はクールビズだが、今日は直接シンガポール空軍パヤレバ基地に行くためだ。
 空自の制服も、私服も、ジョギングスタイルも水着姿も見たことがある。でも、戦闘服はお初だ。上下ともグレーのデジタル迷彩で、生地は厚くごわっとしている。
 容姿の整った近間が着ると、ハリウッドの戦争映画の俳優のようだ。
 文句なしにカッコいい。

 結局、写真は撮らせてもらえなかった。
 拗ねながらスマホをしまい、ネクタイを結んでいると、近間の指が首元に伸びてきた。
「してやるよ」
 今日のネクタイは、タイシルクで紺色に象の柄が細かく織り込まれたものだ。
 首元で、タイをつまんだ長い指先が器用に動いている。
 定番中の定番の夢シチュエーションに、直樹は赤面する。
 伏せられた長い睫毛が頬に影を落とし、形のいい唇は濃いピンク色で誘うように濡れている。
 俺の象さんが元気になりそうだ。
 アホなことを考えていると、ぽんと胸元を叩かれた。
「はい、おしまい。このネクタイ、洒落てるな……んっ」
 我慢できなくて、迷彩に包まれた腰を引き寄せ、口づけた。
 近間は抵抗せずに身を任せてくる。
 唇を割り開いて舌を吸いたかったが、途中でやめられる自信がない。
 唇を柔らかく食むだけにして、近間を解放した。
「…………っ」
 見上げてくる近間の目は、足りないもっとして、と訴えている。
 直樹だって、こんなキスじゃ全然足りない。
 でもこれ以上は本当に駄目だ。
 近間を家から出してやれなくなる。
「遅刻しますよ。続きは、2週間後にしてあげます」
 理性を総動員すると、直樹は、近間の背中をぽんと叩いた。

 身支度を終え、戸締りと火の元を確認する。
 玄関で、直樹はマドラスの革靴を、近間は半長靴を履く。
 エレベーターを待つ間、直樹は近間のヘルメットバッグに目を遣った。オリーブ色のバッグには「JO」と刺繍が入っている。
「ジョーって?」
「俺のTACネーム」
 パイロットが持つ愛称のことだ。
「なんでジョーなんですか? 明日のジョー? 元ブラジル代表?」
「ハズレ。姉妹じゃないけど、2番目だから」
 謎かけを振られて、すぐにぴんと来た。
「ジョゼフィーン・マーチのジョーですか」
 若草物語に出てくる4姉妹の次女で、ボーイッシュな少女の名前だ。
 近間は4兄弟の次男だから、それとかけたのだろう。
「ぴんぽん」
「ジョーって呼んでいいですか」
「いいけど」
「やっぱやめときます」
 近間さんは、「近間さん」って感じだから。
「どっちだよ」

 おしゃべりしている間に、エレベーターが降下していく。
 タイミングを見計らって、直樹は、監視カメラから隠すように近間を隅に誘導する。
 近間が目を閉じたので、そっと口づけた。
 ぽーんと音がして、エレベーターはロビー階に到着する。
 車通勤の近間はガレージがある地下まで行くので、ここでお別れだ。
 笑顔で見送ってほしい。
 そうお願いされていたから、100万ドルの笑顔を作ってやろうと気負っていたが、キスの後で目が合うと、自然にやわらかい笑みがこぼれた。 
「いってらっしゃい」
 頑張ってきて。楽しんで。無事に帰ってきて。
 待ってるから。
 たくさんの思いを込めて見送りの挨拶をすると、近間は嬉しそうに笑った。
「いってきます」
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