戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

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男なら察しろよ@シンガポール国立博物館

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「腹ごなしに走りたい」
 店を出るなり近間が言った。
 この人の場合、本当に走り出しそうなので、直樹は慌てて止めに入る。
「いやいや、そんなモカシンじゃ走れませんよ」
「冗談だよ。それに、雨が降りそうだ」
 近間は薄く笑い、パンツの両ポケットに親指だけを入れる姿勢で、空を見上げた。こういう何気ない仕草がとても絵になる。
 直樹も釣られて空を見るが、もくっとした雲が少しあるだけで、青空が広がっている。陽射しは強く、二人の足元にも濃い影が出来ている。
「晴れてますよ」
「今はな」
 譲る気はなさそうなので、直樹は頭の中で室内デートスポットを検索する。
 カフェ、モール、映画、ビリヤード、カジノ。女の子とのデートで好評だったスポットを思い浮かべるが、どれもぴんと来ない。
「どっか、行きたいとこあります?」
「俺、赴任3か月目だから、まだよく知らないんだよな」
 だったら、気張らない普通の観光地の方がいいかもしれない。
 本社からの出張者対応で鍛え上げられた観光ルートから、近間が気に入りそうなものを選ぶ。
「じゃあ、おまかせってことで」
 車に乗り込むと、直樹はナビを務めるべく、WAZEアプリを立ち上げた。

 到着したのは、スタンフォード・ロードにあるネオクラシカル様式の白亜の建物。
 ガイドブックに必ず出てくる定番観光スポット、シンガポール国立博物館である。
「意外」
 円形のドームと石造りの堅牢な建物を見上げ、近間がぽつりと漏らす。
「なにがですか?」
「おまえのことだから、ダーツだのビリヤードだの連れてかれると思ってた」
「どんなイメージですか、俺」
 確かにその選択肢もあったので、反論は弱々しい。
「うーん。遊び人? 商社マンだし」
「あんた今、全国の商社マン敵に回しましたよ。まあでも、否定はしませんけど」
「だろ?」
 軽口を叩き合っていたが、チケットを買って歴史ギャラリーという名の展示室に入ると、二人は展示に没頭した。
 その名のとおり、シンガポールの決して長くはない歴史が解説されているコーナーだ。
 19世紀初頭のラッフルズの上陸、貿易都市としての発展、孫文の革命活動、太平洋戦争、日本による占領、イギリスによる植民地支配、マラヤ連邦の結成、マレーシアからの分離独立、そして独立後の急速な経済発展。
 近間は、当時の出版物や写真、説明書きのパネルをひとつひとつ丁寧に見ては、感想や質問を投げかけてくる。直樹はこの博物館には何度も来ているが、いつもはさっと見て歩くだけだ。
 単調な英文の説明を飽きずに真剣に読んでいる近間は、集中力が高いのだろう。

 2時間ほどかけて展示室を見回ると、さすがに少し疲れていた。
 薄暗い展示室から窓がある吹き抜けスペースに出ると、来た時より薄暗い。窓の外を見やると、大雨だった。
「うわ。気象予報士ですか」
 直樹が窓の外を指さすと、近間がしたり顔で答える。
「パイロットだよ。天候はフライトを左右するからな。自衛隊にも気象の専門家がいるけど、俺も雲や風、湿度である程度の天気は読める」
「飛行機雲が消えないと、雨が降るって聞いたことあります」
「よく知ってんじゃん。上空の湿度が高いと消えにくいからな」
 近間との雑談は楽しい。
 激しいスコールを眺めながらおしゃべりしていると、学芸員であろう女性が声をかけてきた。
「展示はいかがでしたか?」
 英語で話しかけてきたその若い女は、心なしか顔が赤い。
 本人は自分の容姿に全く無頓着だが、近間はどこにいても目立つ。
 国際都市のシンガポールだ。イケメンや美人など珍しくもないし、直樹だって長身で顔立ちも悪くない方だ。しかし。
 近間さんは、別格なんだよな。
 なんだかもう作り物のように整った顔で、一見冷たそうなのに、軽く微笑んだだけで一気に親しみやすい顔になる。
 綺麗だけど、女みたいなわけではない。身長は170半ばあるし、細身だが鍛えられた身体付きをしている。
 二人きりのところを邪魔されたことと、その女性が明らかに近間に関心を持っているのを感じて、直樹はすぐには応じなかった。
 代わりに近間が、
「とても興味深かったです。展示の仕方も説明書きも素晴らしいですね」
 と答えている。
 近間の英語は、語彙や言い回しこそ日本人英語だが、発音はニューヨーカーのようにこなれている。
「ありがとうございます。ご質問がありましたら、いつでもお声掛けくださいね」
 にっこり笑う学芸員に、直樹は作り笑いを浮かべる。
「ありがとう。でも大丈夫です」
 近間を促して立ち去ろうとする直樹を引き止めるように、学芸員は言った。
「日本のアーティストのデジタル作品が展示されていますので、是非ご覧になってください。日常を離れた体験ができますから」

 螺旋を描く回廊の片側に、樹々や花々が描かれ、その間に動物たちが現れる。
 アニメーションような絵柄だが、光輝く極彩色の映像が美しい。映像の中で季節は絶えず変化しており、朝から昼、夕方、夜へと時刻が流れ、乾期から雨季へと移りゆく。
 普段近間と歩く時は、傍から見ておかしくないように、友人としての物理的な距離を保っている。
 けれど今は、大雨のせいか他に誰もいないことを幸いに、いつもより近間との距離を縮めて、下る回廊をゆっくりと歩く。
 作り物の森の中で、時々、近間の匂いが鼻孔をくすぐり、直樹はその度にどきりとする。

 最後に辿り着いたところは、高さ10メートルを超えるドーム空間だった。
 真っ暗のドームは前後左右360度と上部がスクリーンになっており、宇宙空間が広がっている。
「すげ」
 思わず二人で声を漏らす。
 座っても寝そべっても好きな姿勢で鑑賞していいと件の学芸員が言っていたので、ドームの真ん中に並んで仰向けになった。
 濡れた大地から草が生え、樹が背を伸ばし、森になり、花が咲き乱れ、動物が現れる。雨が大地に恵みを与え、太陽が成長を促し、光の粒がこぼれ、星が光る。
 幻想的だった。
 なんだか、RPGの世界に紛れ込んだみたいだ。
 仰向けで無限空間の映像に囚われていると、直樹は不意に、自分がひとりぼっちで宇宙に投げ出されたような感覚に陥った。
 現実世界を認識できるものが何もなく、ただひとりで、無限のプールに浮かんでいるようだ。
 幼い頃、湿度の低い広い自宅でひとりっきりで座っていた時間。
 バラエティ番組もゲームも空しくなるだけで、時々うなる冷蔵庫の音をじっと聞いていた。
 その時と、同じような。
 あ。これ。ちょっと、無理かも。俺。また、ひとりで。
 思わず息を止めて、ぎゅっと目を閉じていると、ふわり、と左手に柔らかいものが触れた。
 横を見ると、近間と目が合った。その目が、平気か?というように尋ねている。
「大丈夫、です」
 その声は自分でも笑えるほどに掠れていた。
「綺麗だな」
 その震えには気づかないふりをしてくれ、近間が穏やかに言う。
 デジタル映像の色とりどりの光が映り込み、近間の瞳には星屑が散らばっているようだ。
「はい。綺麗、です」
「おまえと二人で、ずっとこういうとこにいられたらいいな。なんて、柄でもないか」
 冗談めかして囁く恋人の右手をぎゅっと握りしめた。
 ひとりじゃない。
 俺は今、この人と、一緒にいる。
 男を恋愛対象として見たことなんてなかった。
 何人もの女性と付き合ってきたし、心から満たされるようなことはなくても、不満は覚えたことがなかった。
 でも、この人は特別だった。
 雑多な屋台村で、この人だけが異質だった。
 その整った容姿に見惚れ、美味しそうに土鍋飯を頬張る姿を好ましいと思い、初対面の相手に食事をシェアしてくれ、なんでもない世間話を楽しそうに聞いてくれるその優しさに惹かれた。
 航空自衛官の制服を着た凛々しい姿も、今みたいに力を抜いてリラックスしている姿も、全部。
 全部好きだ。 
 直樹が家族の負の話をしている間中、近間は、おまえは悪くないとか、母親が死んだのはおまえのせいじゃないとか、下手な同情も月並みな慰めの言葉も口にしなかった。
 きっとこの人は、人の不幸というものに存外慣れていて、人の痛みを自分のことのように感じてしまう人なのだろうと思う。
 ドームでは、力強く幹を伸ばして天へ届く樹々に、やわらかな恵みの雨が降り注いでいる。赤や橙や紫や、熱帯の鮮やかな花が咲き乱れ、二人に降り注いでくる。
 ずっと手をつないでいたい。抱きしめたい。唇に触れて、キスをして、その口腔の奥まで舌を伸ばして。
 身体中の全部のパーツに触れて、それ以上のこともしたい。この優しい人とひとつになりたい。
 胸はないし、やわらかくもないし。俺と同じものがついている。
 それでも、俺は、これまでの誰と一緒にいた時よりも、近間さんに欲情してる。

「ストップ!」
 直樹の思念は、近間の鋭い声で遮られた。
 我に返り、自分の体勢を認識して、赤面する。
 無意識に、横に寝そべる近間に覆いかぶさろうとしていたらしい。
 正気には戻ったが、若い情欲は簡単には消え去らない。
 キスだけでもしたいと顔を寄せる直樹から、近間は全力で離れた。
「公共の場では絶対禁止」
「誰もいないし、暗いから防犯カメラにも映らないですよ」
 精一杯甘い声を出してみるが、近間はじろりと直樹を睨む。
「あほ。こういうとこのCCTVは赤外線だろ。知ってると思うけど、シンガポールでは男同士の同性愛は違法だ。逮捕されるぞ」
「そんな大袈裟な」
「あのな。俺は国家公務員で外交官。不祥事は袋叩きにされるし、PNGだけは勘弁」
「PNG?」
 拡張子? パプアニューギニア?
 近間との会話には、時々意味の分からない単語が紛れ込む。
「後でぐぐれ」
 冷たく言い放った近間は、立ち上がるといまだ寝そべったままの直樹に手を差し伸べた。
 悪戯っぽく笑うその顔は凶悪的に可愛らしく、また身体に熱がたまるのを感じる。
「うち、来るか?」
 小首を傾げて、近間が言う。
 ああ、もう。だから。それ、絶対わざとですよね。
 その、悩殺的に可愛らしい仕草するの。
 直樹は右手を額に当てる。
 こんな申し出を断れる男がいたらお目にかかりたい。
「行きます」
「じゃ、はやく立て」
「えーと、あと3分ください」
 躊躇いがちにお願いしてみる。
 妄想と今の会話で、股間にちょっとした熱が溜まってしまっているのだ。
「は? なんで3分?」
「男なら察しろよ、あんたも!」
 つい乱暴な口調になってしまったが、それだけで近間はきちんと分かったらしい。笑いながら言った。
「駐車場まで、パンフレットで隠しながら歩いてやるよ」
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