戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

文字の大きさ
上 下
8 / 90

チリクラブってさ@エスプラネード

しおりを挟む
 シンガポール川の下流に、エスプラネード・オブ・ザ・ベイと呼ばれるシアターがある。
 縦長のドームにアルミニウムのパネルがぎざぎざと貼られた果物のドリアンのような建物だ。
 その1階の「ノー・サインボード・シーフード」というレストランの一角。
 真っ白なテーブルクロスの上にサーブされた大皿を、直樹と近間は二人して覗きこんだ。
 皿から溢れそうなオレンジ色のチリソース。
 その中には、大ぶりな蟹が殻ごと鎮座ましましている。
「うわ、うまそ」
 声が重なり、二人は目を合わせて噴き出す。

 チリクラブ。茹でた蟹を溶き卵が入ったたっぷりのチリソースで炒め煮した、シンガポールが誇る名物料理である。
「食べようぜ」
「はい」
 近間が両手を合わせて「いただきます」をするので、直樹もそれに倣う。
「近間さんて、ちゃんとしてますよね」
「なにがだ?」
 二人して、専用のペンチでがきがきと蟹の甲羅を割っていく。
 手はすぐにソースでべたべたになるが、気にしていたらこの料理は食べられない。
「いただきますとかごちそうさまとか、挨拶とか。自衛官だからですか?」
「いやいや。それ、子供の頃に習うことだろ。……悪い」
 近間が謝ったのは、直樹が父子家庭で育ったことを知っているからだ。
 蟹を割る直樹の手が一瞬止まったのを、近間は目ざとく気づいた。
 この人は、人の心の機微に敏い。
「謝らなくても。ほら、食べてください。近間さんのリクエストなんですから」
「おう」
 ぎゅっと身が詰まった蟹肉に濃厚なソースが絡みつく。添えられた揚げパンをソースに浸して食べるのも最高だ。
「チリクラブ、好きなんですね」
 近間は見ていて気持ちいいほど美味しそうに食べている。
「ん。このソース、最高じゃん。この店のが一番好きだ。それに、滅多に食べられないからな」
「どうしてですか? レストランでもホーカーズでも、割とどこでも食べられますよね」
 直樹が首を傾げると、近間は広げた右手のひらを突き出して見せた。
 指先についたチリソースがてらてらと光っている。
「チリクラブってさ、汚れるじゃん。手も口もべたべたに。殻割って食べるのに必死になるから、あんま喋れないし。おまけに、結構値が張るだろ」
「確かに。1人1万円は超えますよね」
「だから、気心知れた奴としか食いたくない」
 気心知れた奴。
 その言葉に嬉しくなる直樹の前で、近間は親指を口元に持って行った。赤い舌が指先のソースを舐めとる。
 うわ。この人、これ、わざとかよ。
 一瞬のその仕草に妙に色気を感じてしまい、直樹は慌てて視線を逸らした。
 やばい、ちょっと、股間にきた。
 慌てて天井を見上げて円周率を数える。
「どうかしたか?」
「ナンデモアリマセン」
「アンドロイドかよ」
 近間は笑って、また汚れた指先を舐めた。
 だからやめてくださいって、それ。


 チリクラブの他に、マテ貝の蒸し物と炒飯まで平らげて、中国茶で一息つく。
 満腹になったらしい近間の顔はほんのり上気していて、お茶を飲みながら、時々優しい目で直樹を見てくれる。
 俺、この人のこと本当好きだなと思い、それから、話しておきたいと思った。
「近間さん」
「なに」
「俺、家でメシ食う時は、いただきますもごちそうさまも言ったことなかったんです。勿論、仕事飯の時なんかは礼儀だから言いますけど」
「うん」
 大事な話だと分かったのだろう。近間は持っていた茶器を置いた。
「俺、母親がいないっていう話はしましたよね」
 初めて、近間と大使館で弁当の昼飯を食べた時に打ち明けたことだ。その時は、詳しい話はしなかった。
「うん」
「母親、俺を産んだ時に死んだんです。俺には姉が1人いて、その時7歳だったんですけど、母親が死んだのは俺のせいだと思ってて。まあ実際その通りなんですけどね。
 だから、姉は俺のことを嫌っていて、同じ家に住んでいても喋ることがなくて」
 近間は時々頷きながら、直樹の話をただ聞いてくれている。
「父親は俺を責めることはなかったし、大企業の重役だったから経済的に困ることもなかったけど、代わりにほとんど家にいなくて。だから、家で誰かとメシ食った記憶も、誰かと手を合わせていただきますって言った記憶も、ない、です」
「そっか」
 近間は腰を浮かせて手を伸ばすと、直樹の頭をぽんぽんと叩いた。
 人の目があるレストランの中なのに、全く躊躇のない動作だった。

 近間は再び腰かけてから、なんでもないことのように言った。
「でもおまえ、今はさ、俺とメシ食って、俺といただきますしてるんだから、それでいいじゃん」
 うわ。
 直樹は慌てて何度も瞬きをする。
 じんと来た。
 胸に。とても。あたたかく。
 涙が出そうになるのを誤魔化して、笑顔を作った。
「ですよね。近間さんと会えて、俺、良かったです」
「あほ。こんなとこで涙ぐむな」
「はい。あ、デザート、食べますか」
「いらない。蟹とおまえの話で満腹」
「すみません」
「謝んなって。……なあ、お姉さんとは今でも仲良くないの」
「あー。良くは、ないです」
「含みあるいい方だな」
「姉貴はまだ独身で、東京の化粧品会社で働いてます。お互い就職してからは、時々メシに誘ってくるんですけど、俺の方がまだ気持ちの整理がつかないっていうか」
 姉の茗子は、直樹との和解を望んでいる。
 まだ幼かった子供の時や、ロンドンで過ごした多感な十代の時に直樹に投げつけた心無い言葉の数々について、姉は何度も謝罪してきた。
 けれど、直樹はまだ、許せないでいる。

「和解できたら、お姉さん紹介して」
 恋人からの思わぬリクエストに、直樹はぎょっとする。
「え、なんでですか! 姉貴、確かに美人だけど、え、それひどくないですか?」
 動揺する直樹に、近間は爆笑している。
「違うよ。俺、弟と付き合いながらその姉にも手を出すような鬼畜に見えるか?」
「見えません」
「だろ? おまえの家族を紹介してって言ってるの。お姉さんだけじゃなくて、出来れば、そのうちお父さんも。友達としてでいいからさ」
 穏やかに言う近間に、直樹は力強く頷いて見せた。
「友達としてじゃなく、紹介できるように努力します」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

くまさんのマッサージ♡

はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。 2024.03.06 閲覧、お気に入りありがとうございます。 m(_ _)m もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。 2024.03.10 完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m 今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。 2024.03.19 https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy イベントページになります。 25日0時より開始です! ※補足 サークルスペースが確定いたしました。 一次創作2: え5 にて出展させていただいてます! 2024.10.28 11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。 2024.11.01 https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2 本日22時より、イベントが開催されます。 よろしければ遊びに来てください。

極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。 あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。 そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。 翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。 しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。 ********** ●早瀬 果歩(はやせ かほ) 25歳、OL 元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。 ●逢見 翔(おうみ しょう) 28歳、パイロット 世界を飛び回るエリートパイロット。 ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。 翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……? ●航(わたる) 1歳半 果歩と翔の息子。飛行機が好き。 ※表記年齢は初登場です ********** webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です! 完結しました!

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

その溺愛は伝わりづらい!気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました

海野幻創
BL
人好きのする端正な顔立ちを持ち、文武両道でなんでも無難にこなせることのできた生田雅紀(いくたまさき)は、小さい頃から多くの友人に囲まれていた。 しかし他人との付き合いは広く浅くの最小限に留めるタイプで、女性とも身体だけの付き合いしかしてこなかった。 偶然出会った久世透(くぜとおる)は、嫉妬を覚えるほどのスタイルと美貌をもち、引け目を感じるほどの高学歴で、議員の孫であり大企業役員の息子だった。 御曹司であることにふさわしく、スマートに大金を使ってみせるところがありながら、生田の前では捨てられた子犬のようにおどおどして気弱な様子を見せ、そのギャップを生田は面白がっていたのだが……。 これまで他人と深くは関わってこなかったはずなのに、会うたびに違う一面を見せる久世は、いつしか生田にとって離れがたい存在となっていく。 【7/27完結しました。読んでいただいてありがとうございました。】 【続編も8/17完結しました。】 「その溺愛は行き場を彷徨う……気弱なスパダリ御曹司は政略結婚を回避したい」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785 ↑この続編は、R18の過激描写がありますので、苦手な方はご注意ください。

Good day !

葉月 まい
恋愛
『Good day !』シリーズ Vol.1 人一倍真面目で努力家のコーパイと イケメンのエリートキャプテン そんな二人の 恋と仕事と、飛行機の物語… ꙳⋆ ˖𓂃܀✈* 登場人物 *☆܀𓂃˖ ⋆꙳ 日本ウイング航空(Japan Wing Airline) 副操縦士 藤崎 恵真(27歳) Fujisaki Ema 機長 佐倉 大和(35歳) Sakura Yamato

【R18】僕とあいつのいちゃラブな日々

紫紺(紗子)
BL
絶倫美形ギタリスト×欲しがりイケメンマネの日常。 大人男子のただただラブラブでえっちな日々を綴ります。 基本、1話完結です。 どこをつまんでも大丈夫。毎回何かしらいちゃつきます(回によってはエロ強めのお話もございます)。 物足りない夜のお供にいかがですか? もちろん朝でも昼でもOKです。

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

後輩の幸せな片思い

Gemini
BL
【完結】設計事務所で働く井上は、幸せな片思いをしている。一級建築士の勉強と仕事を両立する日々の中で先輩の恭介を好きになった。どうやら先輩にも思い人がいるらしい。でも憧れの先輩と毎日仕事ができればそれでいい。……と思っていたのにいざ先輩の思い人が現れて心は乱れまくった。

処理中です...