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チリクラブってさ@エスプラネード
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シンガポール川の下流に、エスプラネード・オブ・ザ・ベイと呼ばれるシアターがある。
縦長のドームにアルミニウムのパネルがぎざぎざと貼られた果物のドリアンのような建物だ。
その1階の「ノー・サインボード・シーフード」というレストランの一角。
真っ白なテーブルクロスの上にサーブされた大皿を、直樹と近間は二人して覗きこんだ。
皿から溢れそうなオレンジ色のチリソース。
その中には、大ぶりな蟹が殻ごと鎮座ましましている。
「うわ、うまそ」
声が重なり、二人は目を合わせて噴き出す。
チリクラブ。茹でた蟹を溶き卵が入ったたっぷりのチリソースで炒め煮した、シンガポールが誇る名物料理である。
「食べようぜ」
「はい」
近間が両手を合わせて「いただきます」をするので、直樹もそれに倣う。
「近間さんて、ちゃんとしてますよね」
「なにがだ?」
二人して、専用のペンチでがきがきと蟹の甲羅を割っていく。
手はすぐにソースでべたべたになるが、気にしていたらこの料理は食べられない。
「いただきますとかごちそうさまとか、挨拶とか。自衛官だからですか?」
「いやいや。それ、子供の頃に習うことだろ。……悪い」
近間が謝ったのは、直樹が父子家庭で育ったことを知っているからだ。
蟹を割る直樹の手が一瞬止まったのを、近間は目ざとく気づいた。
この人は、人の心の機微に敏い。
「謝らなくても。ほら、食べてください。近間さんのリクエストなんですから」
「おう」
ぎゅっと身が詰まった蟹肉に濃厚なソースが絡みつく。添えられた揚げパンをソースに浸して食べるのも最高だ。
「チリクラブ、好きなんですね」
近間は見ていて気持ちいいほど美味しそうに食べている。
「ん。このソース、最高じゃん。この店のが一番好きだ。それに、滅多に食べられないからな」
「どうしてですか? レストランでもホーカーズでも、割とどこでも食べられますよね」
直樹が首を傾げると、近間は広げた右手のひらを突き出して見せた。
指先についたチリソースがてらてらと光っている。
「チリクラブってさ、汚れるじゃん。手も口もべたべたに。殻割って食べるのに必死になるから、あんま喋れないし。おまけに、結構値が張るだろ」
「確かに。1人1万円は超えますよね」
「だから、気心知れた奴としか食いたくない」
気心知れた奴。
その言葉に嬉しくなる直樹の前で、近間は親指を口元に持って行った。赤い舌が指先のソースを舐めとる。
うわ。この人、これ、わざとかよ。
一瞬のその仕草に妙に色気を感じてしまい、直樹は慌てて視線を逸らした。
やばい、ちょっと、股間にきた。
慌てて天井を見上げて円周率を数える。
「どうかしたか?」
「ナンデモアリマセン」
「アンドロイドかよ」
近間は笑って、また汚れた指先を舐めた。
だからやめてくださいって、それ。
チリクラブの他に、マテ貝の蒸し物と炒飯まで平らげて、中国茶で一息つく。
満腹になったらしい近間の顔はほんのり上気していて、お茶を飲みながら、時々優しい目で直樹を見てくれる。
俺、この人のこと本当好きだなと思い、それから、話しておきたいと思った。
「近間さん」
「なに」
「俺、家でメシ食う時は、いただきますもごちそうさまも言ったことなかったんです。勿論、仕事飯の時なんかは礼儀だから言いますけど」
「うん」
大事な話だと分かったのだろう。近間は持っていた茶器を置いた。
「俺、母親がいないっていう話はしましたよね」
初めて、近間と大使館で弁当の昼飯を食べた時に打ち明けたことだ。その時は、詳しい話はしなかった。
「うん」
「母親、俺を産んだ時に死んだんです。俺には姉が1人いて、その時7歳だったんですけど、母親が死んだのは俺のせいだと思ってて。まあ実際その通りなんですけどね。
だから、姉は俺のことを嫌っていて、同じ家に住んでいても喋ることがなくて」
近間は時々頷きながら、直樹の話をただ聞いてくれている。
「父親は俺を責めることはなかったし、大企業の重役だったから経済的に困ることもなかったけど、代わりにほとんど家にいなくて。だから、家で誰かとメシ食った記憶も、誰かと手を合わせていただきますって言った記憶も、ない、です」
「そっか」
近間は腰を浮かせて手を伸ばすと、直樹の頭をぽんぽんと叩いた。
人の目があるレストランの中なのに、全く躊躇のない動作だった。
近間は再び腰かけてから、なんでもないことのように言った。
「でもおまえ、今はさ、俺とメシ食って、俺といただきますしてるんだから、それでいいじゃん」
うわ。
直樹は慌てて何度も瞬きをする。
じんと来た。
胸に。とても。あたたかく。
涙が出そうになるのを誤魔化して、笑顔を作った。
「ですよね。近間さんと会えて、俺、良かったです」
「あほ。こんなとこで涙ぐむな」
「はい。あ、デザート、食べますか」
「いらない。蟹とおまえの話で満腹」
「すみません」
「謝んなって。……なあ、お姉さんとは今でも仲良くないの」
「あー。良くは、ないです」
「含みあるいい方だな」
「姉貴はまだ独身で、東京の化粧品会社で働いてます。お互い就職してからは、時々メシに誘ってくるんですけど、俺の方がまだ気持ちの整理がつかないっていうか」
姉の茗子は、直樹との和解を望んでいる。
まだ幼かった子供の時や、ロンドンで過ごした多感な十代の時に直樹に投げつけた心無い言葉の数々について、姉は何度も謝罪してきた。
けれど、直樹はまだ、許せないでいる。
「和解できたら、お姉さん紹介して」
恋人からの思わぬリクエストに、直樹はぎょっとする。
「え、なんでですか! 姉貴、確かに美人だけど、え、それひどくないですか?」
動揺する直樹に、近間は爆笑している。
「違うよ。俺、弟と付き合いながらその姉にも手を出すような鬼畜に見えるか?」
「見えません」
「だろ? おまえの家族を紹介してって言ってるの。お姉さんだけじゃなくて、出来れば、そのうちお父さんも。友達としてでいいからさ」
穏やかに言う近間に、直樹は力強く頷いて見せた。
「友達としてじゃなく、紹介できるように努力します」
縦長のドームにアルミニウムのパネルがぎざぎざと貼られた果物のドリアンのような建物だ。
その1階の「ノー・サインボード・シーフード」というレストランの一角。
真っ白なテーブルクロスの上にサーブされた大皿を、直樹と近間は二人して覗きこんだ。
皿から溢れそうなオレンジ色のチリソース。
その中には、大ぶりな蟹が殻ごと鎮座ましましている。
「うわ、うまそ」
声が重なり、二人は目を合わせて噴き出す。
チリクラブ。茹でた蟹を溶き卵が入ったたっぷりのチリソースで炒め煮した、シンガポールが誇る名物料理である。
「食べようぜ」
「はい」
近間が両手を合わせて「いただきます」をするので、直樹もそれに倣う。
「近間さんて、ちゃんとしてますよね」
「なにがだ?」
二人して、専用のペンチでがきがきと蟹の甲羅を割っていく。
手はすぐにソースでべたべたになるが、気にしていたらこの料理は食べられない。
「いただきますとかごちそうさまとか、挨拶とか。自衛官だからですか?」
「いやいや。それ、子供の頃に習うことだろ。……悪い」
近間が謝ったのは、直樹が父子家庭で育ったことを知っているからだ。
蟹を割る直樹の手が一瞬止まったのを、近間は目ざとく気づいた。
この人は、人の心の機微に敏い。
「謝らなくても。ほら、食べてください。近間さんのリクエストなんですから」
「おう」
ぎゅっと身が詰まった蟹肉に濃厚なソースが絡みつく。添えられた揚げパンをソースに浸して食べるのも最高だ。
「チリクラブ、好きなんですね」
近間は見ていて気持ちいいほど美味しそうに食べている。
「ん。このソース、最高じゃん。この店のが一番好きだ。それに、滅多に食べられないからな」
「どうしてですか? レストランでもホーカーズでも、割とどこでも食べられますよね」
直樹が首を傾げると、近間は広げた右手のひらを突き出して見せた。
指先についたチリソースがてらてらと光っている。
「チリクラブってさ、汚れるじゃん。手も口もべたべたに。殻割って食べるのに必死になるから、あんま喋れないし。おまけに、結構値が張るだろ」
「確かに。1人1万円は超えますよね」
「だから、気心知れた奴としか食いたくない」
気心知れた奴。
その言葉に嬉しくなる直樹の前で、近間は親指を口元に持って行った。赤い舌が指先のソースを舐めとる。
うわ。この人、これ、わざとかよ。
一瞬のその仕草に妙に色気を感じてしまい、直樹は慌てて視線を逸らした。
やばい、ちょっと、股間にきた。
慌てて天井を見上げて円周率を数える。
「どうかしたか?」
「ナンデモアリマセン」
「アンドロイドかよ」
近間は笑って、また汚れた指先を舐めた。
だからやめてくださいって、それ。
チリクラブの他に、マテ貝の蒸し物と炒飯まで平らげて、中国茶で一息つく。
満腹になったらしい近間の顔はほんのり上気していて、お茶を飲みながら、時々優しい目で直樹を見てくれる。
俺、この人のこと本当好きだなと思い、それから、話しておきたいと思った。
「近間さん」
「なに」
「俺、家でメシ食う時は、いただきますもごちそうさまも言ったことなかったんです。勿論、仕事飯の時なんかは礼儀だから言いますけど」
「うん」
大事な話だと分かったのだろう。近間は持っていた茶器を置いた。
「俺、母親がいないっていう話はしましたよね」
初めて、近間と大使館で弁当の昼飯を食べた時に打ち明けたことだ。その時は、詳しい話はしなかった。
「うん」
「母親、俺を産んだ時に死んだんです。俺には姉が1人いて、その時7歳だったんですけど、母親が死んだのは俺のせいだと思ってて。まあ実際その通りなんですけどね。
だから、姉は俺のことを嫌っていて、同じ家に住んでいても喋ることがなくて」
近間は時々頷きながら、直樹の話をただ聞いてくれている。
「父親は俺を責めることはなかったし、大企業の重役だったから経済的に困ることもなかったけど、代わりにほとんど家にいなくて。だから、家で誰かとメシ食った記憶も、誰かと手を合わせていただきますって言った記憶も、ない、です」
「そっか」
近間は腰を浮かせて手を伸ばすと、直樹の頭をぽんぽんと叩いた。
人の目があるレストランの中なのに、全く躊躇のない動作だった。
近間は再び腰かけてから、なんでもないことのように言った。
「でもおまえ、今はさ、俺とメシ食って、俺といただきますしてるんだから、それでいいじゃん」
うわ。
直樹は慌てて何度も瞬きをする。
じんと来た。
胸に。とても。あたたかく。
涙が出そうになるのを誤魔化して、笑顔を作った。
「ですよね。近間さんと会えて、俺、良かったです」
「あほ。こんなとこで涙ぐむな」
「はい。あ、デザート、食べますか」
「いらない。蟹とおまえの話で満腹」
「すみません」
「謝んなって。……なあ、お姉さんとは今でも仲良くないの」
「あー。良くは、ないです」
「含みあるいい方だな」
「姉貴はまだ独身で、東京の化粧品会社で働いてます。お互い就職してからは、時々メシに誘ってくるんですけど、俺の方がまだ気持ちの整理がつかないっていうか」
姉の茗子は、直樹との和解を望んでいる。
まだ幼かった子供の時や、ロンドンで過ごした多感な十代の時に直樹に投げつけた心無い言葉の数々について、姉は何度も謝罪してきた。
けれど、直樹はまだ、許せないでいる。
「和解できたら、お姉さん紹介して」
恋人からの思わぬリクエストに、直樹はぎょっとする。
「え、なんでですか! 姉貴、確かに美人だけど、え、それひどくないですか?」
動揺する直樹に、近間は爆笑している。
「違うよ。俺、弟と付き合いながらその姉にも手を出すような鬼畜に見えるか?」
「見えません」
「だろ? おまえの家族を紹介してって言ってるの。お姉さんだけじゃなくて、出来れば、そのうちお父さんも。友達としてでいいからさ」
穏やかに言う近間に、直樹は力強く頷いて見せた。
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