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こら、事故るだろ@BMW
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「高い給料払ってんだから、いいものを着ろ。みっともない恰好はすんな」
入社1年目に上司から言われた言葉だ。
この上司命令に加え、元々服が好きだったこともあり、直樹のワードローブはかなり充実している。
はずなのに、何を着て行ったらいいのか分からず、結局トップスから靴下まで新調してしまった。
気合い入れすぎだよな、俺。
でも仕方がない。近間さんとの初デートだ。
アパートの姿見の前で何度も身だしなみをチェックしていると、スマホが震えた。
アパートのメインエントランスを出ると、紺色のセダンが止まっていた。
正面に輝くエンブレムはBMWである。
運転席の窓が下がり、近間が顔を覗かせた。端正な顔が微笑む。
「乗れよ」
シンガポールの正午は容赦なく熱い。涼しい車内に滑り込むと、車は滑らかに動き出した。
「おまえ、なんか上機嫌だな」
「だって、近間さんとデートですから」
「蟹食いに行くだけだろ」
「立派なデートです。そして記念すべき初デートです」
力説すると、近間は楽しそうに笑った。
「おまえって、結構恥ずかしい奴だよな」
直樹と近間が付き合い始めて、2週間が経った。
ランチを4回一緒に食べ、キスも4回した。けれど、休日に出かけるのは初めてだ。
近間さん、商社マンなんかより全然忙しいんだよな。
防衛駐在官というのがそんなに多忙な職務だとは知らなかった。
日中は通常業務や出張者対応に追われ、会食やレセプションが毎晩のようにあり、休日もシンガポール国軍の記念行事だの司令官(ちなみに直樹はこの単語を人生で初めて口にした)交代式だのソーシャル・イベントだので、潰れることが多いと言う。
つまり、二人共に予定が全くないというこの土日は極めて貴重なのだ。服を新調するくらい浮かれていても多めに見てほしい。
車は、直樹のアパートがあるブギス地区から目的地のエスプラネードを目指している。
「車持ってるなんて、凄いですよね。車両購入権って何百万円もするって聞きましたけど」
狭小な国土と裕福な国民を抱えるシンガポールは、極めて高度な管理社会だ。
渋滞や環境汚染を防ぐために、車両購入には本体価格や税金の他に車両購入権と呼ばれる資格の購入が必要になる。結果として、プリウス1台が1千万円を超えてしまうのだ。
バスも地下鉄もタクシーシステムも発達しているので、車など必要ないと言えばそれまでだが、直樹は買う気にもならない。
「外交官は対象外なんだよ」
「え、まじで。いいなー。外交官特権ってやつですか」
「通勤と週末に乗るくらいだけどな。これ、前々任者から引き継いだ車だから、いい加減古いし」
「近間さん、BMW似合います」
「はは。なんだそれ」
今日の近間は紺のポロシャツに白いパンツ姿だ。
ハンドルを握る手は大きくて指が長く、腕はしなやかな筋肉がついて細くしまっている。
正面を見つめる横顔は、ちょっと驚くほどに整っていて、ずっと見ていたくなる。なんというか、気品があるの。
直樹は、シフトレバーを握る近間の手をそっと右手で包み込んだ。
滑らかで、でも男らしく節がしっかりしている。体温が伝わってきて、それだけで心地よかったけれど、悪戯心が芽生えた。
人差し指で、触れるか触れないかの距離ですっと手の甲を撫でてみる。
びくりと近間さんが震えた。
「……っ、こら、事故るだろ」
抗議する近間の耳元がわずかに赤くなっている。
調子に乗って、その耳元にふっと息を吹きかけてみた。またびくっと震えている。
なんだこの人、めちゃめちゃ可愛い。
にやけていると、近間がじろりと睨んできた。
「おい、こら」
怒気を孕んだ声に、慌てて手をどけて謝る。
「すみませんすみません、もうしません」
「まじで危ないからやめろ」
「でも、近間さん運転上手いし、全然事故りそうにないですよ」
助手席にいると分かるが、近間は運転が上手い。
加速も減速も停車もスムーズで、車体がほとんど揺れないのだ。高級リムジンに乗っているかのようだ。
いや、乗ったことねーけどさ。
「乗り物の操縦、好きだからな」
「操縦?」
運転じゃなくて?
あまり聞かない言い回しに首をひねる。
「あれ、言ってなかったっけ。俺、戦闘機のパイロットだから」
さらっと言われた事実に、直樹はぎょっとする。
戦闘機って、あの映画とかに出てくる、あれか。
いや、一般常識として、航空自衛隊が戦闘機を配備していて、外国が領空侵犯してくる度にスクランブルしてるっていうくらいは知っているけれど。
え。この人、こんな王子様みたいな涼しい顔して、あんなのに乗って空飛んでんのか。
近間は直樹をちらりと見ると、頭の中を見透かしているように言った。
「そ。あれに乗ってるの。F-15って知ってる?」
「名前くらいしか」
「後でぐぐってみ」
早速スマホで画像検索すると、青空を切り裂くように駆け上がる戦闘機の写真が映し出される。
色はいかにも武器という無骨なグレーだが、大きな三角形の翼とコックピットの丸みがスタイリッシュで美しい。
素直に、綺麗な乗り物だなと思った。
「俺は、凄い人を恋人にしたんでしょうか」
その呟きに、近間は少し黙ってから、真面目に答えた。
「凄くないとは言わない。謙遜もしない。
それに乗って飛ぶために、相応の努力と覚悟をしている」
その時の近間は、フロントガラスではなく、どこか遠くにある何かを見つめているようだった。
入社1年目に上司から言われた言葉だ。
この上司命令に加え、元々服が好きだったこともあり、直樹のワードローブはかなり充実している。
はずなのに、何を着て行ったらいいのか分からず、結局トップスから靴下まで新調してしまった。
気合い入れすぎだよな、俺。
でも仕方がない。近間さんとの初デートだ。
アパートの姿見の前で何度も身だしなみをチェックしていると、スマホが震えた。
アパートのメインエントランスを出ると、紺色のセダンが止まっていた。
正面に輝くエンブレムはBMWである。
運転席の窓が下がり、近間が顔を覗かせた。端正な顔が微笑む。
「乗れよ」
シンガポールの正午は容赦なく熱い。涼しい車内に滑り込むと、車は滑らかに動き出した。
「おまえ、なんか上機嫌だな」
「だって、近間さんとデートですから」
「蟹食いに行くだけだろ」
「立派なデートです。そして記念すべき初デートです」
力説すると、近間は楽しそうに笑った。
「おまえって、結構恥ずかしい奴だよな」
直樹と近間が付き合い始めて、2週間が経った。
ランチを4回一緒に食べ、キスも4回した。けれど、休日に出かけるのは初めてだ。
近間さん、商社マンなんかより全然忙しいんだよな。
防衛駐在官というのがそんなに多忙な職務だとは知らなかった。
日中は通常業務や出張者対応に追われ、会食やレセプションが毎晩のようにあり、休日もシンガポール国軍の記念行事だの司令官(ちなみに直樹はこの単語を人生で初めて口にした)交代式だのソーシャル・イベントだので、潰れることが多いと言う。
つまり、二人共に予定が全くないというこの土日は極めて貴重なのだ。服を新調するくらい浮かれていても多めに見てほしい。
車は、直樹のアパートがあるブギス地区から目的地のエスプラネードを目指している。
「車持ってるなんて、凄いですよね。車両購入権って何百万円もするって聞きましたけど」
狭小な国土と裕福な国民を抱えるシンガポールは、極めて高度な管理社会だ。
渋滞や環境汚染を防ぐために、車両購入には本体価格や税金の他に車両購入権と呼ばれる資格の購入が必要になる。結果として、プリウス1台が1千万円を超えてしまうのだ。
バスも地下鉄もタクシーシステムも発達しているので、車など必要ないと言えばそれまでだが、直樹は買う気にもならない。
「外交官は対象外なんだよ」
「え、まじで。いいなー。外交官特権ってやつですか」
「通勤と週末に乗るくらいだけどな。これ、前々任者から引き継いだ車だから、いい加減古いし」
「近間さん、BMW似合います」
「はは。なんだそれ」
今日の近間は紺のポロシャツに白いパンツ姿だ。
ハンドルを握る手は大きくて指が長く、腕はしなやかな筋肉がついて細くしまっている。
正面を見つめる横顔は、ちょっと驚くほどに整っていて、ずっと見ていたくなる。なんというか、気品があるの。
直樹は、シフトレバーを握る近間の手をそっと右手で包み込んだ。
滑らかで、でも男らしく節がしっかりしている。体温が伝わってきて、それだけで心地よかったけれど、悪戯心が芽生えた。
人差し指で、触れるか触れないかの距離ですっと手の甲を撫でてみる。
びくりと近間さんが震えた。
「……っ、こら、事故るだろ」
抗議する近間の耳元がわずかに赤くなっている。
調子に乗って、その耳元にふっと息を吹きかけてみた。またびくっと震えている。
なんだこの人、めちゃめちゃ可愛い。
にやけていると、近間がじろりと睨んできた。
「おい、こら」
怒気を孕んだ声に、慌てて手をどけて謝る。
「すみませんすみません、もうしません」
「まじで危ないからやめろ」
「でも、近間さん運転上手いし、全然事故りそうにないですよ」
助手席にいると分かるが、近間は運転が上手い。
加速も減速も停車もスムーズで、車体がほとんど揺れないのだ。高級リムジンに乗っているかのようだ。
いや、乗ったことねーけどさ。
「乗り物の操縦、好きだからな」
「操縦?」
運転じゃなくて?
あまり聞かない言い回しに首をひねる。
「あれ、言ってなかったっけ。俺、戦闘機のパイロットだから」
さらっと言われた事実に、直樹はぎょっとする。
戦闘機って、あの映画とかに出てくる、あれか。
いや、一般常識として、航空自衛隊が戦闘機を配備していて、外国が領空侵犯してくる度にスクランブルしてるっていうくらいは知っているけれど。
え。この人、こんな王子様みたいな涼しい顔して、あんなのに乗って空飛んでんのか。
近間は直樹をちらりと見ると、頭の中を見透かしているように言った。
「そ。あれに乗ってるの。F-15って知ってる?」
「名前くらいしか」
「後でぐぐってみ」
早速スマホで画像検索すると、青空を切り裂くように駆け上がる戦闘機の写真が映し出される。
色はいかにも武器という無骨なグレーだが、大きな三角形の翼とコックピットの丸みがスタイリッシュで美しい。
素直に、綺麗な乗り物だなと思った。
「俺は、凄い人を恋人にしたんでしょうか」
その呟きに、近間は少し黙ってから、真面目に答えた。
「凄くないとは言わない。謙遜もしない。
それに乗って飛ぶために、相応の努力と覚悟をしている」
その時の近間は、フロントガラスではなく、どこか遠くにある何かを見つめているようだった。
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