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名前、聞いてもいいですか@チャイナタウン
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2017年10月。
東京では各地で雨が降り、この秋一番の寒さになったと朝のニュースが言っていた。寒いなんて、羨ましい限りだ。
「あちーなー」
梶直樹は、汗ばんだ肌に風を送りこむように、ワイシャツの胸元をぱたぱたと動かした。
チャイナタウン・コンプレックスの2階にある屋台村ホーカーズは、夕食にありつく地元住民でごった返している。
夕方降った雨の湿気と調理の火、人々の熱気と食欲が小さな空間に溢れている。
年中常夏の国、シンガポール。
中華街の屋台村とあって、客のほとんどは中華系。
大声の中国語でまくしたてながら、ビールを飲み、料理を平らげていく。
旺盛な食欲にどんどん汚れていくテーブル。
日本にはないこのエネルギーが、直樹は好きだ。
目当ての屋台に辿り着くと、大量の土鍋の火加減を調節しているおばちゃんに中国語で話しかけた。
「クレイポットライスの小1つ」
「売り切れだよ」
おばちゃんは振り向きもせずに言う。
この店には何度も来ていて、おばちゃんとも顔見知りだというのに、この素っ気なさだ。
「そんなー。これ食べるためにベイエリアから出てきたのに」
「明日、もっと早い時間に来な」
小柄なおばちゃんは182センチある直樹を見上げて笑うと、出来上がったばかりのクレイポットライスの土鍋を、近くに座る男性客の前に置いた。
香ばしい醤油の匂いが漂い、いかにも美味そうだ。腹の虫が鳴るが、仕方ない。
何か別のものを食うか。
立ち去ろうとした直樹に、いましがたクレイポットライスをサーブされたばかりの男が言った。
「If you don’t mind, shall we share this?」
明らかにノンネイティヴの英語だったが、発音がニューヨーカーのようにこなれていたので、おやと思う。
英語で返そうと振り向くと、その男と視線があった。
まじまじと二度見してしまったのは、ちょっといないくらいの美形だったからだ。
直樹の顔を見て、男は一重の目を瞬かせた。
「あれ、日本人?」
「です」
頷くと、相手は微笑んだ。冷たい印象だった顔が途端にマイルドになる。
「なんだ。中国語上手だったから、ローカルかと思った」
「駐在、3年目なんで」
「良かったら、一緒にどうぞ。これ、小でも二人前はあるから」
男は向かいの席に座るよう促した。
なんだか人懐こい人だ。
在留邦人3万7千人のシンガポールだ。
日本人なんてそこら中にいるが、こんな風に知らない人に声をかけるのは珍しい。
明るくて話しやすい人だった。
すっきりした、いかにも日本人というオリエンタルな顔立ちに、短めの黒髪がふわふわと揺れている。
細身で、肥満とは縁がなさそうな無駄のない身体つき。半袖のワイシャツと細身のパンツは小ざっぱりしていて、雑多なホーカーズでは浮いている感じが否めない。
「このあと、仕事ですか?」
服装と雰囲気からして、観光客には見えないのでそう訊いてみると、男は首を振った。
「今日はもう終わり」
「お酒、好きですか?」
「飲めるけど」
「じゃあ、飲みましょう」
直樹は席を立って、酒類を販売する屋台へ向かった。
ホーカーズは、ずらりと並んだ簡素なテーブルと椅子の周りを屋台がぐるりと囲んでいて、好きな店で食べ物や飲み物を買えるようになっている。
タイガービールと蒸し餃子を仕入れて席に戻ると、男は何をするでもなく姿勢よく待っていた。
乾杯をして、食事を開始する。
女子が喜びそうな王子様的外見をしているのに、男らしい食べ方だった。
大口を開けて美味しそうに食べるし、食べるスピードも速い。
あっという間に自分の分を平らげている。
「腹、減ってたんですね」
そう言うと、照れるように笑った。
「あー。職業病、かな」
早食いの職業なんてあるのだろうか。まさかフードファイターでもあるまいし。
直樹は自分が食事を続ける間、相手を手持無沙汰にさせないように話題を振った。
商社マンなので、こういう話術は得意だ。
相手の職業や身元を質すようなことはせず、シンガポールでの駐在生活や美味い店、シンガポーリアンの特徴、天気について当たり障りのない話をする。
男は聞き上手でよく笑った。
同い年くらいに見えるが、躊躇わずにタメ口を遣ってくるところを見ると、年上だという自覚があるのかもしれない。
食事を終えると、一緒に地下鉄(MRT)のホームに向かった。
男が乗る電車が先にホームに滑り込んでくる。
これで終わりだというのがなんとなく嫌で、思わず口を開いた。
「名前、聞いてもいいですか。俺は、梶直樹と言います」
男は瞬きをひとつしてから、口端を上げた。
「近間恵介。じゃあな。ビール、ご馳走様」
その男、近間は電車に乗り込む。
見送っていると、男は振りむいて、ガラス窓越しにひらひらと手を振ってきた。
嬉しくなって、直樹も軽く手を挙げる。
最寄り駅について外に出ると、熱帯の夜はまだ蒸していたけれど、気分は妙にうきうきしていた。
東京では各地で雨が降り、この秋一番の寒さになったと朝のニュースが言っていた。寒いなんて、羨ましい限りだ。
「あちーなー」
梶直樹は、汗ばんだ肌に風を送りこむように、ワイシャツの胸元をぱたぱたと動かした。
チャイナタウン・コンプレックスの2階にある屋台村ホーカーズは、夕食にありつく地元住民でごった返している。
夕方降った雨の湿気と調理の火、人々の熱気と食欲が小さな空間に溢れている。
年中常夏の国、シンガポール。
中華街の屋台村とあって、客のほとんどは中華系。
大声の中国語でまくしたてながら、ビールを飲み、料理を平らげていく。
旺盛な食欲にどんどん汚れていくテーブル。
日本にはないこのエネルギーが、直樹は好きだ。
目当ての屋台に辿り着くと、大量の土鍋の火加減を調節しているおばちゃんに中国語で話しかけた。
「クレイポットライスの小1つ」
「売り切れだよ」
おばちゃんは振り向きもせずに言う。
この店には何度も来ていて、おばちゃんとも顔見知りだというのに、この素っ気なさだ。
「そんなー。これ食べるためにベイエリアから出てきたのに」
「明日、もっと早い時間に来な」
小柄なおばちゃんは182センチある直樹を見上げて笑うと、出来上がったばかりのクレイポットライスの土鍋を、近くに座る男性客の前に置いた。
香ばしい醤油の匂いが漂い、いかにも美味そうだ。腹の虫が鳴るが、仕方ない。
何か別のものを食うか。
立ち去ろうとした直樹に、いましがたクレイポットライスをサーブされたばかりの男が言った。
「If you don’t mind, shall we share this?」
明らかにノンネイティヴの英語だったが、発音がニューヨーカーのようにこなれていたので、おやと思う。
英語で返そうと振り向くと、その男と視線があった。
まじまじと二度見してしまったのは、ちょっといないくらいの美形だったからだ。
直樹の顔を見て、男は一重の目を瞬かせた。
「あれ、日本人?」
「です」
頷くと、相手は微笑んだ。冷たい印象だった顔が途端にマイルドになる。
「なんだ。中国語上手だったから、ローカルかと思った」
「駐在、3年目なんで」
「良かったら、一緒にどうぞ。これ、小でも二人前はあるから」
男は向かいの席に座るよう促した。
なんだか人懐こい人だ。
在留邦人3万7千人のシンガポールだ。
日本人なんてそこら中にいるが、こんな風に知らない人に声をかけるのは珍しい。
明るくて話しやすい人だった。
すっきりした、いかにも日本人というオリエンタルな顔立ちに、短めの黒髪がふわふわと揺れている。
細身で、肥満とは縁がなさそうな無駄のない身体つき。半袖のワイシャツと細身のパンツは小ざっぱりしていて、雑多なホーカーズでは浮いている感じが否めない。
「このあと、仕事ですか?」
服装と雰囲気からして、観光客には見えないのでそう訊いてみると、男は首を振った。
「今日はもう終わり」
「お酒、好きですか?」
「飲めるけど」
「じゃあ、飲みましょう」
直樹は席を立って、酒類を販売する屋台へ向かった。
ホーカーズは、ずらりと並んだ簡素なテーブルと椅子の周りを屋台がぐるりと囲んでいて、好きな店で食べ物や飲み物を買えるようになっている。
タイガービールと蒸し餃子を仕入れて席に戻ると、男は何をするでもなく姿勢よく待っていた。
乾杯をして、食事を開始する。
女子が喜びそうな王子様的外見をしているのに、男らしい食べ方だった。
大口を開けて美味しそうに食べるし、食べるスピードも速い。
あっという間に自分の分を平らげている。
「腹、減ってたんですね」
そう言うと、照れるように笑った。
「あー。職業病、かな」
早食いの職業なんてあるのだろうか。まさかフードファイターでもあるまいし。
直樹は自分が食事を続ける間、相手を手持無沙汰にさせないように話題を振った。
商社マンなので、こういう話術は得意だ。
相手の職業や身元を質すようなことはせず、シンガポールでの駐在生活や美味い店、シンガポーリアンの特徴、天気について当たり障りのない話をする。
男は聞き上手でよく笑った。
同い年くらいに見えるが、躊躇わずにタメ口を遣ってくるところを見ると、年上だという自覚があるのかもしれない。
食事を終えると、一緒に地下鉄(MRT)のホームに向かった。
男が乗る電車が先にホームに滑り込んでくる。
これで終わりだというのがなんとなく嫌で、思わず口を開いた。
「名前、聞いてもいいですか。俺は、梶直樹と言います」
男は瞬きをひとつしてから、口端を上げた。
「近間恵介。じゃあな。ビール、ご馳走様」
その男、近間は電車に乗り込む。
見送っていると、男は振りむいて、ガラス窓越しにひらひらと手を振ってきた。
嬉しくなって、直樹も軽く手を挙げる。
最寄り駅について外に出ると、熱帯の夜はまだ蒸していたけれど、気分は妙にうきうきしていた。
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