狼と犬は籠の中。

狗嵜ネムリ

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狼と犬は籠の中。・2

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「そういう訳ですので、これからもどうぞ宜しくお願いします」
 夜霧がいなくなった後、畳に手をついた夕凪が俺に向かって頭を下げた。昨日まで対等に接していたのに、突然そんな態度を取られると何だかくすぐったい。
「別に普段通りでいいよ、夕凪」
「いえ。本日より朱月様は矢代家の正式なご子息となったのです。これからは今までのような接し方をする訳にはいきません」
「朱月って、やっぱり夕凪もそう呼ぶのか」
 唇を尖らせた俺を見つめる夕凪の顔には相変わらず表情が無く、まるで精密に造られた人型の機械みたいだ。その無表情のまま夕凪が立ち上がり、俺に手を差し伸べる。
「……それでは朱月様、お部屋まで案内致します」
 広間から廊下に出て、夕凪の一歩後ろを歩きながら辺りに目を向けた。板張りの床は埃一つ落ちていないし、それぞれの部屋の障子や襖も新品みたいな綺麗さだ。明治からある屋敷と聞いていたけれど、全くそんな感じは見受けられない。
「本当に俺、今日からここで暮らすの?」
「ええ。例え朱月様の母上が亡くならなくとも、いずれオヤジは貴方を本家に迎えるつもりだったようです」
「でも俺は隠し子なのに、それが突然家族として一緒に暮らすなんていいのかな」
 歩きながら夕凪に顔を向けると、味も素っ気もない答えが返ってきた。
「勿論良く思わない方もいます。由緒正しき矢代家の歴史に、妾の子である雑種の朱月様が入り込んでしまった訳ですから」
「雑種って……嫌な言い方だな」
 だけどそう言われて妙に納得してしまった。半分矢代家、半分奥田家の俺はこの家の人達から見れば実際、雑種そのものじゃないか。
「さっきオヤジと話していた時、同席していた重役の方々が今にも飛びかかってきそうな目で朱月様を見てらっしゃいました。あれが彼らの本心でしょう」
「あの人達は誰なんだっけ。村長の人しか覚えてないけど……」
 俺の質問に、夕凪はメモを見るでもなく諳んじる。
「丑が原村村長の飯田梅吉様と重役の皆様。矢代会矢代一家三代目会長の荻野総一郎様と、そのご子息の総司様。矢代会幹部、幹部候補生、そして本家の四代目頭首であり父上の矢代宵闇様と、次期頭首の夜霧様です」
「……全然覚えられない」
「ちなみに俺は矢代会の元幹部候補生で、二十歳の時に当時三歳だった朱月様のボディガード兼世話役に抜擢されました」
「そうだったのか。それで十五年間も……」
 二階へ続く木造の階段を上がる途中、俺は少し迷ってから問いかけた。
「……本当は夕凪も、俺がここで暮らすの嫌だって思ってる?」
「いえ。俺は貴方が子供の頃からずっとお仕えしてきたのです。ある意味では家族のようなものだと、勝手に思わせて頂いております」
 声に抑揚はないけれど、先を行く大きな背中は少しも動じていない。
「ですから心無い者達に何を言われても、俺だけは朱月様の味方だと思って下さって結構です。何か不安なことがありましたら、いつでも俺に言って下さい」
 それを聞いて不覚にも涙腺が緩みそうになった。夕凪だけは俺の味方でいてくれる。見知らぬ土地で、広すぎる屋敷の中で、これ以上心強いことはない。
 階段を上がりきったところで、夕凪が長い廊下の先を指さした。
「二階はご子息達の部屋がメインとなっています。左側廊下の一番奥が朱月様の部屋です」
「ご子息、……達?」
「右手側の廊下を進むと茶室や詩を詠む座敷があります。休憩されたい時はそちらを……」
「ちょっと待って夕凪。この家って、俺と夜霧の他にまだ息子がいるのか?」
「ええ。夜霧様の弟様が」
 急激に頭の奥が重くなってきた。夜霧一人でも気が滅入りそうなのに、更にもう一人兄弟がいるなんて精神的負担がきつすぎる。
「弟様には後で一緒にご挨拶に行きましょう。取り敢えず今は朱月様のお部屋に……」
 その時、背後から階段を上がってくる小さな足音が聞こえてきた。
「噂をすれば、弟様がご帰宅されたようです」
 背後を向いた夕凪が、階段からひょっこり現れた少年に頭を垂れた。
「お帰りなさいませ。お久し振りです、斗箴とばり様」
「あっ、夕凪っ!」
 パッと顔を輝かせた少年が、勢い良く走ってきて夕凪に体当たりをする。夕凪が抱き上げると少年はくすぐったそうに笑い、夕凪の首にぎゅうとしがみついた。黄色い帽子。紺色のブレザーと、同じ色の半ズボンに真っ白な靴下。肩から斜めに下げた黄色の鞄には『こまどり組・やしろとばり』と書かれた名札が下がっている。
「夕凪、よく来てくれたな! またしばらく泊まっていくのか?」
「いいえ、今日からずっと本家で暮らすことになりました」
「やった!」
 珍しく弛んだ口元を見る限り、どうやら夕凪も素直に喜んでいるらしい。俺はそんな彼らをぼんやりと見つめながらその場に立ち尽くしていた。
「ん。客人か?」
 ようやく俺の存在に気付いた少年が床に下りて姿勢を正し、スッと頭を下げて言った。
「矢代家次男、矢代斗箴。五歳です。どうぞよろしくお願いします」
「よろしく。五歳なのに随分しっかりしてるな……」
 それだけ教育されているということなんだろう。頭も相当良さそうだ。
「斗箴様。こちらは今日から斗箴様の新しい兄様あにさまになる、朱月様です」
「新しい兄様……?」
「色々と迷惑かけるかもしれないけど、これからよろしく」
 自分で自己紹介する前に夕凪に言われて決まりが悪くなり、つい笑って誤魔化した。
 だけど──。
「父様から聞いている。お前が父様の妾の子か」
「えっ?」
 一瞬、思考が停止した。「妾の子」──この五歳児が、そう言ったのか? 
 先ほどまで笑っていたはずの斗箴の目が、今はキッと吊り上がっている。自分よりもずっと小さな子供を前に、俺は背中に冷や汗が伝うのを感じた。
「今日から本家で暮らすみたいだが、おれは純粋な矢代家の血を引いているのだからな、お前より立場が上だということを忘れるな」
「………」
「絶対におれの勉強の邪魔はするなよ。妾の子はそれらしく、黙って隠れていろ」
「なっ、なに言っ……」
 俺が何かを言う前に、夕凪が俺達の間に割って入った。
「しばらく見ないうちに斗箴様も大人っぽくなられましたね。そういう訳ですので、朱月様と仲良くしてあげて下さい」
「これから宿題をするのだ。失礼するぞ」
 フンと鼻を鳴らして俺達の横を通り過ぎて行った斗箴が、部屋に入って襖をピシャリと閉める。俺は夕凪に向き直り、腹の底から溜息を吐き出した。
「俺って、あんな小さい子供にまで見下される存在なのか」
「オヤジや夜霧様の口調を精一杯真似てらっしゃるのです。中身は見たままの幼い少年ですよ」
「そうは思えないけど……」
「じきに慣れるかと思います。それでは遅くなりましたが、こちらが朱月様のお部屋です」
 斗箴の部屋から少し歩いたところにある襖を夕凪が開けた。部屋自体が広いから出入り口となる襖はかなり離れているものの、実際は斗箴の部屋の隣だ。気が滅入る。
 それでも中に入ってみて驚いた。てっきり畳敷きの古い部屋だと思っていたのに、意外にも作りは今風の洋室だったのだ。大きなベッドと本棚、中央に背の低いテーブル、奥には勉強机のような物と椅子、立派な天体望遠鏡や地球儀……。
「夜霧様が小学生の時に使われていた部屋です。ここにある物はどれも自由に利用して構いませんが、雑に扱って壊すことのないようにお願い致します」
 言われなくても、あの夜霧が使っていた物なんて怖くて触る気にもなれない。
「そう言えば俺は色々禁止されてるけど、携帯は持ってていいんだろうか」
「村には殆ど電波がありませんので、普通の携帯はまず繋がりませんよ。俺のは矢代会から支給されている特別製ですが──」
 その時、タイミングを見計らったように夕凪のスーツの内ポケットで携帯が鳴った。取り出した携帯の画面を見つめながら、夕凪が申し訳なさそうな顔をして言う。
「すみません、急用が入りましたので数時間ほど失礼させて頂きます。夕飯は5時からですので、それまでには一度戻って来ますが」
「えっ、でも俺、まだトイレがどこにあるのかも分からないし……」
「トイレは廊下の突き当たりに。他のことは……取り敢えず、弟様に聞いて頂ければ」
「だ、大丈夫かよ?」
「何かありましたら屋敷の電話から連絡下さい」
 それでは、と部屋を出た夕凪が小走りで廊下を進んで行く。俺はその後ろ姿を見送りながら不安に唇を噛みしめた。
 ふと、隣の部屋の襖に目を向ける。
「………」
 襖に手をかけてそっと開くと、それに気付いた斗箴が眉を顰めて俺を睨んだ。
「なんだ、お前。勝手に開けるなんて失礼だぞ」
 斗箴は部屋の奥にある文机の前で正座をしていた。小さな机の上には宿題らしきプリントと筆記用具がきちんと揃えられている。
「ちょっとお邪魔します」
 とにかく独りでいるのが心細くて返事も待たずに部屋に入り、俺は斗箴の正面に腰を下ろした。子供用の小さな文机だけど、高級品なのは明らかだ。
「幼稚園の宿題って掛け算なんか使ってるんだ? 凄いな」
 プリントを覗き込みながら感嘆の溜息を洩らすと、斗箴が得意げな顔をして言った。
「もう九九も言える。簡単な割り算だってできるぞ。漢字も、ローマ字も読み書きできる」
「はぁ、流石に良家のお坊ちゃまだな」
 名前欄には幼稚園児らしくない達筆な文字で『矢代斗箴』と書かれてある。俺もそれなりに勉強はできた方だけど、斗箴がその年頃になったら恐らく俺の期末の最高得点なんか楽々超えてしまうんだろう。
「ところであかつき、何しにきた? おれに用事があるのか?」
「用事というか……」
 座ったままの姿勢で部屋の中をぐるりと見回すと、棚の上に一枚の写真が飾られてあるのが目に留まった。口元に静かな笑みを湛えた、綺麗な女性の写真だった。
「あの写真、斗箴のお母さん?」
「そうだぞ。本物の母様はおれが生まれてすぐに死んじゃったけどな。矢代家は昔からおんなが早死にする家系だって、兄様が言ってた」
「そうなのか……」
 何だか不吉な家だ。放っておいたらそのうち滅びてしまうんじゃないだろうか? ひょっとしたら、そういう理由で俺のような隠し子が存在しているのかもしれない。
「………」
 だけど斗箴の年齢で母親がいないとなると、その寂しさは相当のものだろうと思う。幼稚園から帰っても、こうして一人で宿題をするだけだなんて。親父が斗箴を相手に遊んでやってるとは思えないし、斗箴が懐いているらしい夕凪も何だかんだ忙しい。
「斗箴も寂しいだろ。これからは、出来るだけ俺が遊び相手になるからさ」
「別にいい。おれは宿題や勉強で忙しいから、遊んでる暇なんてない」
 あっさりと拒否されて、一瞬茫然としてしまった。
「なんだよ。せっかく誘ってやったのに……」
「必要ない。さぁ、もう自分の部屋に戻れ」
 ついに出てけと言われてしまって俺は仕方なく立ち上がった。
 襖の引手に指をかけたところで、ふと思い出して振り返る。
「そう言えば、夜霧は一緒に遊んでくれないのか? ……と言っても、あっちも忙しそうだから仕方ないか……」
「えっ。……お前、兄様のことを知っているのか?」
「さっき広間で会ったんだよ。親父に言われて俺の面倒見てくれることになったんだけど、本人は乗り気じゃなかったみたいで──」
「あ、兄様がお前の面倒を見るだとっ。おれでさえ滅多に遊んでもらえないのに!」
 顔を真っ赤にした斗箴が、茫然とする俺に人差し指をつき付けて怒鳴った。
「良いかあかつき。兄様は矢代家の頭首になる日が近いから、本当はお前なんかの相手をしている暇なんてないのだ! 絶対に兄様に迷惑かけるなよ、分かったか!」
「わ、分かったよ。ごめん……」
 どうして俺が謝らなければならないのか意味が分からないけど、これ以上斗箴を怒らせる訳にもいかない。仕方なく自分の部屋に戻った俺は、ベッドに身を横たえて夕凪が戻って来るのを待つことにした。
 これからのことを考えると、正直気が重い……。

「………」
「朱月様。朱月様──」
 体を揺さぶられて薄ら目蓋を開くと、上から俺を覗き込む形で目の前に夕凪の顔があった。数分も寝てないような気がしたけど、時計の針は既に夕方五時近くを指している。
「夕凪、お帰り……」
「さあ起きて下さい。夕食の時間です、下に行きますよ」
 ベッドの上で伸びをして、ふらつく足で部屋を出る。言われてみれば腹の中が空っぽだ。思えば今日は朝食を軽くとっただけで、それ以外は何も口にしていない。
 階段を下りながら口元の涎を拭うと、夕凪が俺を振り返って言った。
「俺は同席できません。くれぐれも行儀の悪い真似をなさらないようにお願いします」
「分かってるよ。最低限のマナーくらい、俺だって……」
 ぼんやりとそれに応える俺を見て、夕凪の無表情がやや険しくなった。
「夜霧様が貴方の『教育係』となった以上、どんなに些細な失敗も許されません。どうかそれをお忘れなく」
「………」
 夕凪の言葉が単なる脅しじゃないことに気付き、俺はごくりと唾を飲んでから両頬を軽く叩いて自分に気合を入れた。
 食事の間の前に膝をついた夕凪が襖を開き、それから、目で俺に「入れ」と言う。
「し、失礼します」
 二十畳ほどの和室。高価そうな正方形の黒いテーブル。温かな夕食のいい匂い──。
 上座に座った親父が相変わらずのオーラを放ちながら、自分の正面の席を顎で指した。
「朱月か。そこに座れ」
 俺から見て右側の席には斗箴がきちんと正座をしていた。今はまだいないが、左側の席には夜霧が座るのだろう。
 目の前の食事に視線を落とす。大きな皿に盛られているのは海の幸と野菜がたっぷり入った本格的なカレーライスだ。ナイフとフォークがずらりと並んだ洋食や、箸を付ける順番がある細々した和食だったらどうしようという不安は、一先ず解消された。
 斗箴の前にも俺と同じカレーが置かれていた。だけど、親父と夜霧の前には特上マグロや鯛、フグといった刺身の盛り合わせと、恐らくは高級和牛と思われる肉が野菜や魚と一緒に煮込まれている鍋がある。恐らくは「頭首側」と「それ以外」とで食事内容も区別されてるんだろう。
「………」
 沈黙が続く。ちらりと正面を盗み見ると、胡坐をかいた親父はじっと目を瞑って腕を組んでいた。相変わらずの重い空気。少なくとも、これから食事をする雰囲気ではない。
「今戻った」
 程なくして開かれた襖から夜霧が現れ、俺の左側に腰を下ろした。ただそれだけのことで、さっき広間で感じた緊張感が俺の中で蘇ってくる。
「夜霧。村議の連中に話はつけたのか」
 目を閉じたまま、親父が低い声で問いかけた。
「飯田の爺さんが引き続き当確で決まりです。有力な対抗馬が出るという話は結局、開発反対派の助役の戯言だったらしい」
「そうか。その助役の首は切るように言っておけ」
「既に切っておいた。とにかく今回は親父が出るほどの問題ではないです」
 何やら小難しい話をしている。当確とか対抗馬とか、選挙でもあるのだろうか? そうだとしたら、頭首交代に選挙に俺の教育……夜霧には相当な負担がかかっているはずだ。これでは斗箴が怒るのも頷ける。
「夜霧よ、今年は村長選が終わればすぐに五代目頭首披露の儀がある。隣町との間に波風を立てないためにも、必ず梅吉を当選させねばならんぞ」
 それから親父が、俺と斗箴を交互に見て言った。
「お前達も分かっているな。くれぐれも気を抜くなよ」
「分かっています父様。おれも全力で兄様を支えるつもりです!」
 興奮した様子で斗箴が声をあげた。夜霧に向けられたその目はまるで、憧れのヒーローを見るかのように輝いている。
「お、俺も頑張ります。役に立てるかは分かりませんが……」
 不安げに呟いた俺の頬に、横から斗箴の冷たい視線が突き刺さってくる。
「それでは、食事を頂くとするか」
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