愛玩犬は恋を知る

狗嵜ネムリ

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愛玩犬は恋を知る・5

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 どうして、俺がこんな目に。
 俺が何かしただろうか。なるべく目立たないように生きてきたこの俺が、あの男に気に入られる要素なんて本当にあるのだろうか。まだたったの数時間しか過ごしていないのだ。互いのことなんて、何も知らないのに。
 一晩かけて考えたが、結局何の対策も練られないまま朝を迎えてしまった。この半年間決められたシフトを休むことなく働いてきたけれど、ここまで出勤が憂鬱になったのは初めてだ。
「おう、伊吹。今日は朝帰りじゃないんだな、服が違う」
「う、うん……」
 縮こまる俺を見て燈司が笑う。が、今日の俺は一緒になって笑う余裕がない。生体売場から愛らしい鳴き声が聞こえてきても、顔を上げてそちらを見る勇気もない。
 とにかく、何も起こらず一日が終わるのを待つのみだ。
「俺、ワゴンの商品出すから。伊吹はレジ金の準備してくれ」
 予め金庫から持ってきておいたクリアケースの蓋を開け、中からコインケースや棒金のままの硬貨を取り出す。昨日のレジ金残高と照らし合わせながら、必要な分だけをレジに入れる。もう何度もしてきた朝の作業なのに、すぐ近くに彰久がいると思うと……妙な緊張で手元が覚束なくなってしまう。
「わっ」
 案の定ケースから百円玉を取り出そうとして手が滑り、床に硬貨をぶちまけてしまった。
「おいおい、伊吹。何やってんだ」
「ご、ごめんっ」
 慌てて床に這いつくばり、硬貨を拾い集める。確かケースの中の百円玉は二十枚だったはずだ。一、二、……十六、十七、十八。
「あと二枚。……あと二枚」
 呪文のように繰り返しながらカウンターの下を探っていると、燈司が来て百円玉をカウンターに乗せた。
「全部あったか」
「あ、あと一枚」
 俺は朝から何をしているんだろう。こんな初歩的なミスをしてしまうなんて、相当動揺している証拠だ。この調子では開店してからも何かやらかしてしまいそうで、怖い。
「本当にあと一枚か?」
「数えてたから間違いないと思う……」
 レジ横のワゴンと床の隙間に腕を入れ、中を探る。埃だらけで服が汚れるが気にしてなんかいられない。必死になって腕を伸ばしていると、後ろから軽く頭をつつかれた。
「燈司、あった?」
 振り向いた先にいたのは燈司ではなかった。
「通路の方まで転がってたぞ。気を付けろよ、伊吹くん」
「あ、……」
 俺を見下ろしていたのは彰久だった。手のひらに乗せた百円玉を俺に差し出し、口元だけを弛めて勝ち誇ったように笑っている。
「……ありがとう、……ございます」
 どうしても視線が合わせられない。俺は硬貨を受け取ってからそそくさとレジの方へ戻り、無言で作業に戻った。
「彰久さん、おはようございます」
「テイおはよ。悪いけど伊吹くんのこと注意して見てやってくれな。……今日は随分と調子悪いみたいだし? この後も何かやらかすかもしれねえぞ」
 その言葉に思わず彰久を睨み付けたが、既に彰久は生体売場の店内へと消えていた。
「どうしたんな、伊吹。具合でも悪い?」
「平気。……ごめん、気を付けるから。もう大丈夫」
「きつかったら言え。体調崩して長く休まれるより、早めに治してもらった方がいいからな」
 具合なんてちっとも悪くない。ただ、精神的に問題があるだけだ。
 ──こんなんじゃ駄目だぞ。燈司にも迷惑かけてしまう。
 俺は大きく深呼吸をしてから、自分に喝を入れる意味で軽く両頬を叩いた。
「開店二分前。ライト点けるぞ」
 そして無理矢理、頭から雑念を振り払う。こうなったら俺だって彰久のように開き直って、自分の仕事をするしかない。
 ──一目惚れしたんだ。
「っ、……」
 何も考えるな。そう思えば思うほど、昨日聞いた彰久の言葉が頭の中に浮かんできてしまう。
 ──俺こそがお前にとっての運命の相手だ。
 運命の相手。それは、和真からことあるごとに囁かれてきた台詞と同じだった。ただの使い古された言い回しというだけなのに、今はただそれに対して無性に腹が立つ。
 本気で彰久が俺に一目惚れしたと言うなら、それは昨日の昼間、生体売場でしどろもどろの接客をしていた時ということだ。それならばあの時の発言も、満更冗談ではなかったのか。
「あのさ、……」
 鼻歌混じりで商品の値付けをしている燈司の背中に、俺は何気なく質問した。
「燈司って、誰かに一目惚れしたことある?」
 こちらを振り返った燈司の眠たげな目が、意外そうに見開かれる。俺は頬を赤くさせながらもどうにか無表情を保ち、続けて燈司に質問した。
「ナンパした女の子と付き合ったことある?」
「珍しいな。普段は興味が無いのかってくらい、女の話なんかしないくせに」
「いいから」
「一目惚れっていうのかは分からんけど、……ナンパして付き合ったことはあるぞ。一カ月くらいですぐ別れたけど」
「一目惚れとナンパって違う?」
「似てるようで違う。一目惚れは好きになることで、ナンパはただヤれたらいいってだけ」
「でも実際の話、本当に一目惚れなんてあるのかな。相手のこと全然分からないのに、見た目だけで好きになる訳だろ。それもある意味ではただの性欲なんじゃないの?」
「うーん……」
 商品のゴムボールを持ったまま燈司が呻り、俺は息を飲んでその答えを待った。経験豊富な燈司が言うことならまず間違いない。それだけに、どんな回答をされるのかが怖い。
「まあ、見た目が好き、ってのは要するに性欲にも関係してると思う。ただナンパの場合はその日限りでもいいけど、一目惚れはその先もずっと一緒にいたいってことなんじゃねえの? もちろん例外もあるけどな。俺の知り合いなんかは、ナンパで出会って結婚までいったし」
「そうなの?」
「ああ。要は人それぞれってことで、みんなそこまで難しく考えてる訳じゃねえと思うよ。気に入った子がいるなら、ガンガン行っちゃえよ」
「そ、そういう訳じゃなくて……」
 結局はっきりとした定義が分からず、俺は小さく溜息を漏らした。
「どちらにも言えることは、チャンスを無駄にするな、ってことかな。ナンパも一種の出会いだし、一目惚れも立派な恋の始まりだろ」
「恋の始まり、ねぇ……」
 俺は自分の見た目に自信がないし、性格も決して良いとは言えない。こんな俺のどこに惚れる要素があると言うのか、さっぱり分からない。
 それとも初めの期待値が高い分、これから徐々に冷めて行くのだろうか。こんな奴だと思わなかったと、彰久もいずれは俺に構わなくなるのだろうか。それはそれで惨めな気もする。
 俺と違って彰久は外見に関しては申し分ないし、店長を任されるくらいなのだから仕事もできるのだろう。本当なら、俺の方が惚れてもおかしくないレベルの男だ。付き合って一緒に出掛けたり、くだらないことで笑い合ったりできたらきっと楽しいだろうな、とは思う。
 だけど、どうにも信用できない。
 恋愛事で傷付くのは、和真の件で懲りている。優しくされた分、期待した分、駄目だった時のことを考えると彰久の言葉を鵜呑みにすることができない。
「生体の方、今日は朝から混んでるな。広告でも打ったのかな」
 燈司の声に顔を上げ、通路の向こうに視線を向ける。売場の前では、若いカップルや子供連れの母親が仔犬を抱いて笑っていた。
 接客しているスタッフの中には彰久もいた。今まさにケージから取り出したプードルを、小学生くらいの少女に抱かせてやっているところだ。俺には決して見せないような明るい笑顔で少女と仔犬を見ている。母親らしき女性に何か話しかけられ、それにも笑顔で対応している。
 あんな風に笑うこともあるのか。
「………」
 気を抜いた一瞬、彰久と目が合った。途端に彰久の顔から接客用の優しげな笑顔がスッと消え、いつもの、あの勝ち誇ったような冷笑が浮かぶ。俺はそれを無視して生体売場から顔を背けた。目が合ったことよりも、無視してしまったことの方が恥ずかしかった。
「……燈司、ごめん。俺今日、早めに昼休憩もらってもいいかな」
「え?」
 時刻はまだ十一時だ。今休憩に入ったら後でもたなくなることは分かっている。だけどどうにも落ち着かず、このままでは仕事にならない。一度冷静になって考える必要があると思った。
「生体の方混んでるから、もしかしたらこっちも忙しくなるかもしれないし。混む前に休憩入った方がいいかなって思って」
「そういうアレなら、俺が先に入ろうか?」
「いいよ、燈司は後からゆっくり入って」
 俺は逃げるようにして自分の売場から離れ、五階にある従業員用の休憩室に向かった。
 時間が時間だけに、休憩室は空いていた。奥のテレビでは昼のワイドショーが流れていて、その前に座った地下総菜売場のおばさん達が煙草を吸っている。
 俺は入口近くの一番後ろの席に腰を下ろし、出勤前にコンビニで買ったパンを齧った。少しも腹は減っていない。半分も食べないうちに残りを袋へ戻し、缶コーヒーを啜る。
 ──どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 軽率に関係を持ってしまった俺も悪い。失恋し、なおかつ酔っていたからとは言え、初めて会ったよく知りもしない男に抱かれるなんてあまり褒められたことではない。
 だけどそれはお互い様じゃいのか。それなのに、どうして俺ばかりがこんな思いをしなければならないのだろう。
「よう」
「ひっ、……!」
 考えていたら突然背後から両肩に手が乗せられ、俺は椅子に座ったまま飛び上がった。
「な、なにっ……あっ、彰久っ……?」
 焦る俺を見て心底可笑しそうに笑いながら、彰久がテーブルの正面に回って来る。俺は体中から冷たい汗が噴き出てくるのを感じ、しかしそれでも動くことができず、彰久が正面の席に座るのをただじっと見つめていた。
「昼飯か。早いじゃん」
「………」
 彰久がテーブルに烏龍茶のボトルを置き、煙草を咥える。
「無視すんな。聞いてんのか、伊吹くん」
「……いつも急に現れるんだな。ストーカーかよ」
「そうだよ」
 こうして向かい合っていると、昨日のファーストフード店での件を思い出して身構えてしまう。なるべく彰久から距離を取ろうとして、俺は椅子の背もたれに上体を寄りかからせた。
「伊吹って、いつもパン食ってるな。自分と同じで柔こいから好きなのか」
「別に。フランスパンとか硬いのも好きだけど……」
「淫乱」
「何だよそれ? ていうか、あんたも飯食いに来たんじゃないのかよ」
「俺はただの一服休憩。今日は昼飯食えるか分からねえな。予想以上に客が多いけど、まだ契約は一件も決まってねえよ。せっかく広告打ったのに、どうなってんだか」
「そう簡単に買えないだろ。生き物だし、安くても十万円近くするし」
 視線を逸らしながら呟くと、彰久が「確かに、十万は大金か」と笑った。
「……金持ちのあんたにとっては大金じゃないんだろうけど」
「金持ちじゃねえよ、全然」
 嫌味な奴だ。その若さでタワーマンションの最上階に住むのが金持ちでないというなら、アパート暮らしの俺なんて大貧民じゃないか。
 つい、ムッとなってしまう。
「ていうか、仕事中は休憩時でもなるべく俺に声かけてほしくないんだけど」
「どうして」
「どうしてって……。俺らのことが周りにバレたらどうするんだよ。前の店長だってセクハラで飛ばされたんだぞ」
「俺のはセクハラじゃねえよ。昨日のはお前も満更じゃなかったろうし、れっきとした合意の上での和姦だ。それに……」
「わっ、分かった、分かったから黙れっ……」
 俺は両手で彰久の口を塞ぎ、それ以上何も言わせまいと思い切り眉間に皺を寄せた。テレビ前のおばさん達が、俺達の方をちらちらと振り返っているのが堪らなく恥ずかしい。
「頼むから公共の場でそういうこと言わないでくれ。言われれば言われるほど、恥ずかしくて俺、あんたのことが嫌いになる……」
 組んだ手で口元を隠し、視線を横に逸らしながら呻くように訴えると、彰久がニッと歯を見せて笑った後で俺の方へと身を乗り出してきた。
「気は強いのに、意外と照れ屋なんだな」
「………」
 気が強いなんて言われたのは初めてだ。どうしてだろう。彰久の前だと、普段は我慢して飲み込むような言葉が何の躊躇いもなく出てくる。
「顔、真っ赤だぞ」
「……うるさい」
 それほどこの男に対して腹が立っているということか。
 俺は残りのコーヒーを飲み干してから、財布とコンビニの袋を鷲掴みにして席を立った。
「待てよ伊吹。一緒に戻ろ」
 無視して従業員通路の廊下を歩いていると、突然背後から彰久に腕を掴まれた。「っ……」振り解こうとしたが全く動かない。物凄い力だった。
「は、放せっ」
 一方的な力によって壁に背を押し付けられた俺は、縋るような目で彰久を見つめた。
 唇を噛み、恐怖から体が震え出しそうになるのを必死に堪える。目前に迫った彰久はいつもの冷笑を浮かべておらず、真剣そのものの気迫に満ちた顔をしていた。
「伊吹。お前、次の休みいつだ」
「え……。あ、明後日だけど……」
 足が竦む。喉が渇いて、掠れた声しか出なくなる。情けないが、彰久の狂気染みたと言っても過言ではないほどの鋭い視線が怖くて堪らない。
「明後日か。奇遇だな、俺もだ」
「………」
「一度、ちゃんと決着つけた方がいいかもな。明後日の午前十一時、駅の時計台前で待ってろ」
「何だよそれ、……決闘でもすんの……?」
「馬鹿か。デートだよ、デート」
「デート……?」
 彰久の手が俺の腕から離れ、代わりに頭に乗せられる。
「ちゃんと余所行きの服着て来いよ。明後日は、俺らの記念日だ」
 滅茶苦茶に頭を撫でられ、俺の髪を鳥の巣にしてからようやく彰久が俺から離れた。踵を返し、そのまま従業員通路を歩いて行く。俺はその背中を茫然と見つめながら、余所行きの服なんて持っていたっけ、とどうでも良いことを考えていた。
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