夜かかる魔法について

狗嵜ネムリ

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 翌日、目が覚めた時は既に午後になっていた。
『仕事行ってくる』
 翔宇の書き置きがテーブルにあり、その横に玉子焼きと簡単なサラダが用意されていた。白飯が盛られた茶碗にはラップがしてある。台所の鍋には味噌汁も作られてあった。
 テーブルの前に座ってそれらで遅い昼食をとりながら、ぼんやりと昨夜の翔宇の言葉を思い出す。
 零にまともな人生を歩ませたい──。
 翔宇が呟いたその言葉は、同じ仕事をしている俺にとってこれ以上ないほど酷なものだった。しかもその後、はっきりと言われた。零のことが好きなのだと。
 高校を卒業して以来、翔宇から特定の誰かを好きになったという話を聞くのはこれが初めてだ。昔から誰にでも気があるような素振りをしていた翔宇だから、あんなにも強く自分の気持ちを口にするなんて信じられないという思いもあった。
 翔宇が心から好きな相手と幸せになれるのなら、俺は身を引いてもいい。元々実ることを期待しないで抱き続けていた想いなのだ。零のことは俺も好きだし、あの二人なら性格的にも上手くやっていけそうな気がする。
 ……だけど、一人になるのが怖い。
 翔宇がこの部屋からいなくなったら、俺は一人で食事をし、一人で仕事に行き、一人で眠ることになる。一人でテレビを見て、一人で煙草を吸い、一人でスマホをいじって、一人で生活する。
 耐えられない。七年も一緒にいたのだ。今さら、翔宇がいない生活なんて送れる自信がない。
「………」
 そう思うと味噌汁がさらにしょっぱくなって、涙が止まらなくて、俺は泣きながら翔宇の作ってくれた玉子焼きを口に入れた。
「美味い……」
 呟いて、また涙が溢れた。
 外は今日も雨が降っている。俺の心の中も鉛色の空と同様に曇り、濡れていた。
「ん」
 テーブルに置いたスマホが鳴り出した。手に取ってディスプレイを見ると、画面には店の名前が表示されていた。口の中で玉子焼きを噛みながら通話ボタンを押す。
「はい……」
〈流星くんお疲れ様。今日、四時から一本予約入ったけど大丈夫?〉
 急いで玉子焼きを飲み込み、俺は明るい声でそれに答えた。
「大丈夫です。店に行けばいいですか?」
〈××ホテルの六〇三号室。行ったことあるっけ?〉
「ん。ちょっと自信ないですね。新規のお客さんですか?」
〈サイト見て指名してくれたお客さんだよ。百二十分コースだから、お疲れのとこ悪いけどよろしくね〉
「分かりました」
〈じゃあ今から迎え行くから、外で待っててくれる?〉
「了解っす」
 急いで皿を洗い、軽くシャワーを浴びた。失恋に泣いてる暇などない。俺を待っててくれる人がいるんだ。流星は仕事に私情を挟んで手を抜くような奴じゃない。新規の客なら、なおさら頑張って次に繋げないと……。
「………」
 繋げてどうする? 心のどこかでそんな声がした。
 翔宇がいなくなったら、俺に残されてるのは売り専の仕事だけだもんな。これで客からも見放されたら本当に一人ぼっちだ。だから必死になってるんだろ……。
「……う、……」
 自分の弱さを思い知り、シャワーに打たれながら俺はその場にうずくまった。
 零のマンションとは比べ物にならない程に狭い浴室。翔宇だってきっと、もしもその時が来たならあの部屋で生活する方を選ぶに決まっている。逆で考えたら、俺だってそうするはずだ。
 この先翔宇のいない生活が来た場合を考えると、どうしていいのか分からずに涙だけが溢れてくる。止めようと思っても、止まらない。
「ん……」
 脱衣所でスマホが鳴っているのに気付き、俺はのろのろと体を起こしてシャワーの栓をひねり、タオルで手を拭いてからそれを手にした。また店の番号だ……。
「もしもし……」
〈お、響希起きてんじゃん。おはようさん〉
「翔宇っ……?」
 端末の向こう側から聞こえてきた翔宇の声。その瞬間、一気に俺の心の中が鉛色から明るい水色に変わった。
〈ごめんな。スマホの充電し忘れてさ、店から電話してんの。今仕事終わったから〉
 聞き慣れた翔宇の低い声が、俺の耳から体中に浸透してゆく。胸がむず痒くなり、僅かに手が震えた。これも一種の快楽といえるのかもしれない。
「そうか、お疲れ。俺は今一本予約入って、家で迎え待ってんだ」
〈なんだよ、これから仕事かぁ。今日はもうあがって家帰ろうと思ったから、夕飯何がいいか聞こうと思って電話したのに〉
「悪い。終わったらすぐ帰るわ。二時間コースだから、七時までには帰れると思う」
〈お、そんじゃ飯作って待っててやるよ〉
「楽しみにしてる。あと、玉子焼きと味噌汁ありがとな。美味かった」
〈……響希。泣いてた?〉
「泣いてねえよ。なんで?」
〈いつもと声が違う。何かあったんか?〉
「……何もねえよ。風呂場だから違って聞こえるんじゃねえの」
〈そっか。じゃ、待ってるから仕事頑張ってな〉
「うん。じゃな」
 通話を切った後、俺は頬を叩いて無理矢理自分に気合を入れた。今の今までみっともないくらいに泣いていたのに、翔宇の声を聞いただけで再び元気が湧いてきた。自分でも笑えてしまう程に単純な性格だ。
「頑張るぞ!」
 全裸のまま洗面所で歯を磨きながら、鏡に向かってニッと笑う。それからアッシュブラウンに染めたばかりの髪をドライヤーで乾かし、ワックスを付けて両手の指先で無造作に散らした。
 いつだったか客に貰ったピアスを付けて、俺の勝負カラーである黒のボクサーパンツを手に取る。穿いてから、それが翔宇の物だということに気付いた。
「……まぁいいか」
 客からセクシーだと言われたこともある下唇。可愛いと言われたこともある左目の泣きぼくろ。いつも通りの俺だ。たぶん、大丈夫。きっと気に入ってもらえる。
『着いたよ~』
 送迎車からの到着メールを受けて外に飛び出した。
 アパート前に停まった車の後部座席に乗り込み、運転席でハンドルを握っている奥田さんに明るい声で挨拶をする。
「お疲れ様です!」
「びっくりした! 流星くん相変わらず元気だね、お疲れ様!」
 そろそろ四十近い年齢の奥田さんは、Gラッシュで一番信頼されているベテランスタッフだ。その仕事ぶりと人柄の良さは店長や他のスタッフ達からも受けがいい。若い頃にボーイをしていたこともあり、その経験を生かして仕事やプライベートのことまでなにかとボーイ達の相談に乗ったりもしてくれている。人見知りの激しい俺が、今の店に来てから一番初めに心を開いたのも彼だった。
「流星くん今日もかっこいいね。新しい髪型も似合ってるよ。アシメっていうんだっけ?」
 エンジンをかけながら奥田さんが言った。嫌味のない言い方に、俺も気分が良くなる。
「詩音には最初不評だったんですけどね。チャラいとか言われましたけど」
「詩音くんは見た目だけは硬派だからなぁ。あ、その詩音くんにさっき店で聞いたけど、昨日一緒に焼き肉食いに行ったんだって?」
 翔宇の野郎、お喋りな奴だ。だけどさすがに、その場に他店のボーイである零がいたことまでは言っていないだろう。
「詩音の奢りですよ。あいつ稼いでるから」
「流星くんも同じくらい人気でしょ。そう言えば来月の『誕生日』、常連の結城さんから予約の電話きたよ。気が早いね」
「ああ、……そうなんですか」
「どうしようか? 一応まだ先のことだから仮予約ってことにしておいたけど、流星くんがオッケーだったら六日からそのまま泊まりで、七日の夜までお願いしたいんだって」
 瞬時に頭の中で電卓を叩いた。
 二日間の貸切だと給料は九万円ちょっとか。それプラス、結城さんからのチップやプレゼントなんかもある。
「一応前向きに考えときますんで、取り敢えず保留にしといてもらえますか」
「ほいよ。じゃあ前向きに考えつつ、今日のお客さんもよろしくね」
「はい」
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