夜かかる魔法について

狗嵜ネムリ

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 静かなクラシック音楽が室内に流れている。
 真っ白な壁をぼんやりと眺めながら、俺はホテルのダブルベッドに全裸のまま横たわっていた。散々汗をかいた肌は爽やかな空調の風に撫でられ続け、既にさらさらに乾いている。
「流星、来月誕生日だっけ?」
 窓際に立ち、雨に濡れた街をガラス越しに見つめている男が煙草の煙と共に言った。しばし考えた後、俺はハッとして男に顔を向ける。
「そうですよ。七月七日、七夕だから覚えやすいでしょ」
 いつだったか、自分が覚えやすいからそう言ったはずなのにすっかり忘れていた。
「誕生日の日って予約できるのか?」
「どうかな。まだ先のことだし、店に聞いてみないと」
 一カ月後のことなんか分かる訳ないだろと心の中で呟きながら、俺はにっこりと男に向かって微笑む。
 俺の一番の常連客──結城佳宏、三十五歳。未婚者。この若さでも彼は会社経営者だ。
 今からちょうど半年前に初めての来店で俺を指名してくれて、それからひと月に二、三度、時間が空いては俺に予約を入れてくるようになった。こんな俺のどこを気に入っているのかは分からないが、彼はいつも豪華な食事やプレゼントを用意してくれている。
 もし「誕生日」に予約してもらえたなら、かなり贅沢な夜になることは約束されたも同然だ。
「俺の誕生日、どっか連れてってくれるんですか?」
 俺はうつ伏せになって肘をつき、含み笑いをしながら上目に彼を見つめた。
「いいよ。それに流星が欲しい物は何でも買ってやるし、美味い物も好きなだけ食わせてあげるよ」
「本当ですか? 楽しみだなぁ……」
 七月七日。金曜日でないことを祈る。
「だからさ、今もう一回、いいか?」
 紺色の柔らかなバスローブを脱ぎながら、結城佳宏がベッドに上がってくる。
「結城さん、元気ですね。でももうあんまり時間ないですよ」
「一時間延長するよ。流星、頼む」
 見ると彼のそれは既に屹立していた。三十五歳で色男の会社社長が、二十一歳の若造に抱かれたがっている。世の中にはいろんな需要があるモンだと、俺は自嘲気味に笑った。
「そんなに俺のが欲しいですか?」
「ああ、次いつ来れるか分からないからな」
 彼が煙草を灰皿で揉み消すのを見つめながら、内心では焦っていた。
 現在六時半。一時間の延長を足したら終わるのは七時半だ。翔宇との約束の時間である八時に果たして間に合うだろうか。
 だけど上客の頼みを断る訳にはいかない。俺は店に電話を入れて延長料の七千円を受け取ってから、彼に向かって両手を伸ばした。
「じゃ、三回戦行きますよ」
「流星……」
 あぐらをかいた俺の股間に結城さんが顔を埋めてくるが、三回目ともなるとなかなか反応してくれない。しかも今日は彼の前にも、四人ほど客の相手をしてきたのだ。その全てで射精した訳ではないが、さすがに疲れていた。
「ん……気持ちいい……」
 申し訳ないけどこういう時は目を閉じて、翔宇を頭に思い描く。翔宇にされてると思えば、何回だっていける、気がする。
 翔宇の唇に挟まれ、翔宇の舌で激しく撫で付けられる。そう考えると頭の芯が熱くなり、俺は座ったままの状態で背中をのけ反らせた。
「あっ……、すげ、いい」
 間違っても翔宇の名前が出ないように、細心の注意を払いながら。
「くっ……」
「流星っ……、もっと……」
 俺は翔宇を想像し、翔宇の腰を支え、翔宇の体をかき抱いた。



 店に戻ってから今日の分の給料を受け取り、駅まで走ってなんとかぎりぎり間に合った。
 土曜日、午後八時のスクランブル交差点は雨にも関わらず人の波で溢れ返っている。
 色とりどりの傘が咲く中、駅前中央広場の時計台前に立っていた翔宇が俺の姿に気付いて手をあげた。昨夜のスーツ姿とは打って変わって、今日はラフなTシャツとジーンズを穿いている。俺も同じような格好だ。
「お疲れさん。響希もっと早く来ると思ったから、俺も早目に待ってたのに」
「悪い。延長たもうて」
「お。良かったじゃん。そんじゃ行こか」
 タクシー乗り場へ行き、列に並びながら俺と翔宇は色々な話をする。混雑の邪魔にならないようにと、翔宇が自分の傘を畳んで俺の傘の下に入ってきた。
「響希今日の給料いくらだった?」
「朝から五人で、店と分けてだいたい六万五千くらい。それとチップでプラス一万」
「うへぇ、想像しただけで疲れるわ。売れっ子はつらいね」
 翔宇はいつも人目を憚らずに仕事の話をしてくるから恥ずかしい。
「あ。あそこで信号待ちしてる男。あの人よく店来るよな、俺もついたことあるよ。気付かれないように傘で顔隠しとこうぜ。ビニールじゃ意味ねえかな」
「別に見られてもいいだろ。ていうか、そういう話を大声でするなって」
 中央広場では、俺と同い年くらいの見知らぬ若者達が騒いでいる。彼らと同じように今どきのファッションや映画やゲームの話がしたいのに、翔宇の脳内は仕事と男のことばかりだ。
「でもさ、マジで今日会う奴可愛いからな。響希、びっくりして腰抜かすなよ?」
「……俺はもうそんな体力残ってねえよ。傍から見てるわ」
「そんなこと言うなって。せっかく俺が発掘してきたのに」
 翔宇は学生の頃から俺と違って人見知りすることが殆どなく、誰とでもすぐに仲良くなれるのが長所だった。俺達が所属してる店以外の売り専にも、オフの日はたまに客として行ってるらしい。
 普通ならボーイの連絡先を聞き出す行為は禁止されている場合が多いが、翔宇はどんな手を使っているのか、俺の知らないところで他店の友達を増やしまくっていた。
「そいつには俺も行くってこと言ってあるのか?」
「あ、言ってねえ。でもたぶん大丈夫っしょ」
「お前……」
 丁度その時、俺達の番がきてタクシーのドアが開かれた。
「……えっと、六丁目のコンビニまでお願いします。あのナントカってビルの一階に入ってるとこ、クリーニング屋の正面にあるコンビニ」
 乗り込んだタクシーの中で俺は溜息をつき、乗車の直前に言おうとしていた台詞を翔宇にぶつけた。
「お前、マジで適当すぎ。俺が行ったら迷惑かもしれないだろ」
「そんなことねえよ。あ、でも行っていきなり『チェンジ!』とか言われたらウケるな。そしたらどうする? 響希一人で漫画喫茶でも行っとく?」
「……帰るわ、そんなの」
 翔宇の能天気さが羨ましい。このくらい適当に生きられたら人生楽しいだろうなとは思うけど、さすがにタクシーの中でそんな話をするのは勘弁願いたい。
 少しして、翔宇が後部座席から身を乗り出して前方を指さした。
「運転手さん。次の角を左に曲がって、そこにあるコンビニの前でオッケーです」
「はい、次を左ね」
「なんだ、駅から全然近いじゃねえか。徒歩で行けたんじゃねえの」
「だって歩くのだるいじゃん。雨も降ってるし」
 当然のようにそう言われて、俺は肩を落とした。
 翔宇と遊ぶ時、歩いて行ける距離にもタクシーを使うようになったのはいつからだろう。ここ最近はバスも電車も乗っていない。面倒臭がりの翔宇だから、隣駅へ行くにもタクシーばかりなのだ。出かける時、家からわざわざ携帯で呼び出すこともある。
 炎天下を自転車で走り回っていた中学時代が、ふと懐かしくなった。
「ここで大丈夫ですか?」
「はい、ここで」
 千円にも満たない料金。こんな若造のために、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「万札しかねえや。響希、小銭持ってる?」
「ん」
「悪い。後で煙草奢るわ」
 下車してから、翔宇が目の前にあるコンビニに入って行った。籠の中へ缶ビールや炭酸飲料を適当に入れながらスマホを肩に挟んでいる。
「もし、俺だけど。今コンビニにいるから、迎えに来れる?」
 俺が雑誌コーナーで立ち読みをしていると、翔宇が来て恥ずかしげもなくコンドームの箱を籠に放り投げた。
「………」
「そうそう、今日俺の友達も一緒に行くからさ。ん? 同じとこで働いてる奴だよ。そうだな、綺麗めなお兄系って感じで超かっこいいぞ。惚れるなよ?」
「おい、適当なことを言うな」
「声聴こえた? あはは、声もかっこいいだろ」
 俺は手にしていた雑誌を元に戻してコンビニを出た。雨除けの下で振り出した煙草を口に咥え、ライターを探してジーンズのポケットに手を入れる。が、出勤前は確かにあったはずのライターが消えていた。
「クソ。店に忘れてきたか……?」
 と、その時。
「どうぞ」
 横からライターを持った手が伸びてきて、俺の煙草に火が近付けられた。考える間もなくそれを借り、煙を吐き出したところで礼を言う。
「ありがとう」
 見るとそこには水色の傘が揺れていて、その下に俺よりもだいぶ年下と見受けられる男が立っていた。
「どういたしまして」
 男、というよりは少年に近いかもしれない。長い睫毛を生やした大きな目を愛らしく細めながらにこやかに微笑んでいる。白い肌。柔らかそうな薄茶色の髪。
 まるで上等な人形のようだった。
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