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君色の空に微笑みを・1
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五年前のあの日に見た少年のことは、今でもよく覚えている。
風に揺れる茶金の髪。寒さに染まる赤い頬と、静かな笑みを湛えた口元。
青空に掲げたサイダーの瓶。それを見つめる鳶色の瞳。
透明な瓶の中、彼は何を見ているのだろう。
気付けば俺はその横顔へ、起動させた携帯のカメラを向けていた。
こんな場所にホテルがあるなんて助かった。
金曜の夜。時刻はとっくに零時を回って、今は土曜日の午前一時過ぎ。
終電は既に無い。適当な場所に泊まろうにも、週末の深夜ということもあってどこも宿泊客で一杯だ。
「クソ……」
呟きながら額に手をあてる。頭の奥が痛むのは慣れない酒を飲み過ぎたせいだと、自分でも分かっていた。
今日は仕事を終えた後で会社から二駅離れた町の居酒屋に移動し、そこで古株スタッフの送別会が行われたのだが、それは「送別会」とは言い難いほどの微妙な空気で幕を開け、その空気のままで幕を閉じた。
関東を中心に百店舗近くのセレクトショップを開いている「株式会社ブルーウィンド」――その本社で働き始めて半年。スタッフ五人から成るシステム管理部の中で、俺は二十六歳という年齢ながら一番のヒヨッコ社員だった。
事務仕事なんて初めての経験だったしパソコン機器にも不慣れな俺だが、それでも早く職場に慣れようと自分なりに努力はしていた。仕事で一番大切なのは人間関係だと思っていたから、同じ部の仲間達にも積極的に話しかけるようにした。
だけど、どうもこの環境は俺には合わないらしい。
同じシステムのスタッフ達は皆普段から無口で、俺が話しかけてもいつも一言、二言で会話が終わってしまう。他の部のスタッフ達も――彼らは彼らで個々に固まり、自分達以外の部の人間とは必要最低限の接触をするだけで、基本的に俺達システムの人間のことなんて「根暗の集まり」としか思っていない。
さっきの送別会でだって、退社するスタッフへ声をかけていたのは初めの僅か数分だけで、その後はそれぞれの部署の仲間同士、好き勝手に飲んで騒いでいただけだ。当然「根暗なシステム部の面々」は、その楽しそうな輪の中には入れない。取り残された俺達は座敷の隅の方でぽつぽつと何かを話し、最後には殆ど無言でお開きの時間を迎えた。
その地獄のような時間からやっと解放されたと思ったら、これだ。終電を逃して見知らぬ町を彷徨い、貴重な休日の前夜を棒に振った。
おまけに無為に歩き続けたせいで、段々と都会らしからぬうら寂しい場所へと迷い込んでしまったらしい。表通りには腐るほどあったコンビニも全く見当たらず、そもそも俺以外に歩いている人間の姿もない。まるで神隠しに遭ったかのような心細さが募り、心身ともに疲労しすぎて、もう良い齢した大人だというのに不覚にも泣きそうになってしまった。
――だから迷いに迷って偶然見つけたこのホテルは、俺にとって安らぎの宿。大袈裟でも何でもなく希望の光、そのものだ。
『幻龍楼』――黄金色の龍が舞う重々しい看板にはそう書かれている。名前もさることながら、建物の外観も普通のホテルと違ってかなり個性的な造りとなっていた。
入口を彩る偽の桜と竹。柔らかな乳白色の光を放つ吊り提灯、そして夜目にも鮮やかな朱色の壁や格子。背後の月夜にそれらがよく映え、いつだったかテレビで見た江戸時代の遊郭、もしくは子供の頃に絵本で読んだ竹藪の中の雀の宿みたいだと思った。
それでも表に出ている看板には、
『全部屋インターネット完備。休憩・宿泊可能』。こう書いてある。
建物自体は大きくて立派だし、汚れ一つない綺麗な看板を見る限り割と新しそうだ。それでいて一泊五千円というのは有り難い。気になるのはこの異様な外観だが、今の時代コスプレ喫茶や戦国居酒屋もあるくらいだし、少しくらい個性的でも別段おかしなことじゃないのかもしれなかった。
「いらっしゃい」
エントランスにもあちこち桜の造花が散りばめられていて、朱色の壁には艶やかな柄の扇や番傘が飾られている。少々目が痛いものの、基本的に清潔感に溢れていた。
ひょっとしたら花魁の格好をした女性店員が出迎えてくれるのだろうか。そんな期待を抱きつつ受付へ進んだ俺は、次の瞬間、軽く裏切られた気になった。
「お一人? 初めて?」
受付にいたスタッフは男、しかも今の俺が一番求めていないタイプの男だった。
眩しいほどに逆立った金髪。両耳に幾つものピアス。緩いTシャツから覗いた腕には右も左もがっつりと墨が入っている。ぎょろついた目、咥え煙草、接客業とは思えないような軽い口調。どう見てもまともな社会人の風貌ではない。
「一人です。初めてです……」
「うん、それじゃあこの紙に名前とか色々書いて。会員証作るから」
男がカウンターに滑らせた紙に記入をしながら、俺はちらりと彼の胸に付けられたネームプレートを盗み見た。驚いたことに、この男がここの責任者らしい。ネームプレートには手書きの派手な文字で『和了(店長)』と書かれている。
「……書きました」
「うん、飯島浩介さんね。二十六歳か……俺の六個も下じゃん。で、ウチは部屋代一晩三千円で、その他諸々のオプションはその都度加算されてく感じだけど、何か質問ある?」
質問なんてハナから受け付けていないんじゃないだろうかと思わせるほどの、威圧的な喋り方だ。何も後ろめたいことなどないのに緊張してしまう。
「いえ。取り敢えず、始発の時間まで寝られれば……」
「いいよ。ウチは休憩よりも宿泊の方に力入れてるから」
「しかしこの立派な内装で五千円て、かなり安い方ですよね。こんな値段で寝泊まりさせて貰っていいのかなって、逆に不安になったりして」
適当に話を合わせようとしてそう言うと、店長がカウンターに肘をついて大きく口を開けた。そこから俺めがけて煙草の煙が吐き出され、思わず咳き込んでしまう。
「な、何すんですかっ……」
「……まあいいや。それじゃ帰る時にこの伝票持ってきて。その時会計するから」
渡された伝票には315と書かれていた。
「三階の十五番の部屋な。そこのエレベーター使っていいよ、ごゆっくり」
「……どうも」
「和了さん」
エレベーターに向かおうとしたその時、カウンター奥の仕切りカーテンから別の男が出て来た。
前髪を水色のゴムで雑に縛っている。口の周りにスナック菓子のカスを付けながら更に菓子の袋を抱えていて、店長と比べるとだいぶ幼い。体付きも華奢で見ようによっては中学生のようでもある。胸に付けられたプレートには、やはり手書きで『副露』と書かれてあった。
和了と副露。――確か、麻雀用語だ。
「なに、副露ちゃん」
「エレベーター調子悪いから使えないよ。明日の朝、業者さんが来るんでしょ」
「ああ、忘れてた。悪いけど兄さん、階段使ってくれるかな」
「はあ」
三階まで階段か。できれば一刻も早く休みたかったのだが……。
仕方なく歩き出すと、背後でクスクス笑う二人の声が聞こえた。
「はあ、だって」
「ね」
「………」
もう二度と来るもんか。
ムカムカしながら階段を上がり、315号室に辿り着いた時には全身の疲れがピークに達していた。だが――
「な、何だ。……随分凝ってんな」
部屋の壁や天井はやはり朱色で、沓脱ぎの向こう側は畳になっている。和傘をイメージした照明が橙色の優しい光を発し、部屋全体にノスタルジックな雰囲気を与えていた。
そんな部屋のデザインに不釣り合いなパソコンや大型液晶テレビの他に、セミダブルのベッドと、二人掛けのソファが設置されている。勿論ちゃんとしたバスルームもある。いくら宿泊に力を入れていると言っても、これで五千円は少し安すぎるんじゃないだろうか。
しかし、今はとにかく有り難い。俺は脱いだコートを壁にかけてからベッドにダイブして、思い切り両手両足を伸ばした。枕元の照明スイッチをひねると、和傘の明かりが橙色から明るい白に変わった。
「ラブホみたいだな……」
照明スイッチの横にあったファイルを手に取り、開く。そこにはホテルの簡単なシステム説明などと一緒に、フードメニューがずらりと書かれてあった。
『出来たての料理をお持ちします。インターフォンからお気軽にどうぞ』
牛丼、ラーメン、カレーやパスタなどの定番物からロコモコ、パエリア、リゾットなんて洒落た物まであるらしい。値段も安いし、飲み会の席ではろくな物を食べられなかったから良い感じに小腹が空いている。
俺は早速内線の受話器を肩に挟み、メニューを見ながら相手が出るのを待った。
〈フロントだけど〉
この威圧的な声……和了だ。
「ええと、食事を頼みたいんですが」
〈いいよ。何にする〉
「カレーと、あとシーフードサラダを」
〈ちょっと待って。――おおい、副露。カレーまだあったっけ?〉
〈あるよ!〉
〈了解! ――お待たせ。カレーとサラダね、じゃあ五分後くらいに持って行きますわ〉
どうやらただのレトルトらしい。まぁ、値段を考えれば当然か。
それからぴったり五分後、部屋のドアがノックされた。
「カレーとサラダお持ちしました。伝票くださいな」
「………」
盆を持って現れた副露は、明らかに口の中でガムを噛んでいる。こんなにも凝った造りのホテルなのに、従業員の方はどうも適当すぎる気がしてならない。
手渡した伝票に注文した物の記入をしながら、副露が言った。
「お兄さん、ウチの利用初めてでしょ? どっから来たの?」
「北西沢町に会社があって、今日は飲み会の帰りなんだ。終電逃しちゃってさ」
「ふうん。一人暮らししてるの?」
「ああ、二十歳の時に東京出てきて、それで――」
「俺はね二年前にこっち来て、和了さんに拾われたの。この仕事、和了さんが俺のために始めたの」
「へ、へえ。副露って名前も店長に付けてもらったのか?」
「そうだよ。和了さんかっこいいでしょ、俺のだから取っちゃ駄目だよ」
「いや取らないけど……」
ニッと笑って、副露が伝票を俺に返した。
「だけど初めてならびっくりしたでしょ?」
「ああ、こんな綺麗な部屋だって思わなかったから……」
「この建物、前は遊郭をイメージしたラブホだったみたい。和了さんの知り合いが経営してて、内装とか備品とか、殆どそのまま譲ってもらったんだよ」
「なるほどなぁ。でも、それでも一泊五千円て、明らかに割に合わないっていうか……こんな値段で商売成り立ってるのか?」
興味本位で質問すると、ペンの先を軽く咥えた副露が意味ありげに首を傾げた。
「どうかな?」
「どうかなって……。まぁ内部事情は軽率に喋れないか。ごめん、変なこと聞いて」
「全然いいよ。――ところでお兄さん、ウチのシステム説明のファイルって、最後まで読んだ?」
「いや」
「時間あったら読んでみてよ。ウチって他には無い独自のサービスしてるから、どうせなら楽しんでもらいたいな」
「分かった、読んでみるよ」
副露がドアに手をかけて、俺を振り返った。
「じゃあ、ごゆっくり」
副露が出て行った後、俺は具の少ないカレーを頬張りながら言われた通りにファイルを捲った。
『幻龍楼だけの特別システム』。そんな謳い文句の下に、サービス内容が色々と書かれている。
各部屋は完全防音になっていて、大音量でのゲームや映画鑑賞、カラオケなどもできるらしい。流石に元ラブホテルなだけあって、新旧様々なゲーム機やDVDの貸し出しも行われている。
更には従業員と客共用のプレイルームが二階にあり、従業員にゲームで勝てば料金割引なんていう遊び心の効いたサービスまであった。麻雀の二人打ちで和了に勝てば料金はタダだそうだ。ただし『勝てたら、だけどな』の一文が付け加えられていて、今まで勝った者はいないらしいことが安易に予想できる。
なるほど。確かに見た目同様、他のホテルとはひと味違うようだ。
次のページを捲ると、そこには『陰間メニュー』という謎の項目について書かれてあった。
風に揺れる茶金の髪。寒さに染まる赤い頬と、静かな笑みを湛えた口元。
青空に掲げたサイダーの瓶。それを見つめる鳶色の瞳。
透明な瓶の中、彼は何を見ているのだろう。
気付けば俺はその横顔へ、起動させた携帯のカメラを向けていた。
こんな場所にホテルがあるなんて助かった。
金曜の夜。時刻はとっくに零時を回って、今は土曜日の午前一時過ぎ。
終電は既に無い。適当な場所に泊まろうにも、週末の深夜ということもあってどこも宿泊客で一杯だ。
「クソ……」
呟きながら額に手をあてる。頭の奥が痛むのは慣れない酒を飲み過ぎたせいだと、自分でも分かっていた。
今日は仕事を終えた後で会社から二駅離れた町の居酒屋に移動し、そこで古株スタッフの送別会が行われたのだが、それは「送別会」とは言い難いほどの微妙な空気で幕を開け、その空気のままで幕を閉じた。
関東を中心に百店舗近くのセレクトショップを開いている「株式会社ブルーウィンド」――その本社で働き始めて半年。スタッフ五人から成るシステム管理部の中で、俺は二十六歳という年齢ながら一番のヒヨッコ社員だった。
事務仕事なんて初めての経験だったしパソコン機器にも不慣れな俺だが、それでも早く職場に慣れようと自分なりに努力はしていた。仕事で一番大切なのは人間関係だと思っていたから、同じ部の仲間達にも積極的に話しかけるようにした。
だけど、どうもこの環境は俺には合わないらしい。
同じシステムのスタッフ達は皆普段から無口で、俺が話しかけてもいつも一言、二言で会話が終わってしまう。他の部のスタッフ達も――彼らは彼らで個々に固まり、自分達以外の部の人間とは必要最低限の接触をするだけで、基本的に俺達システムの人間のことなんて「根暗の集まり」としか思っていない。
さっきの送別会でだって、退社するスタッフへ声をかけていたのは初めの僅か数分だけで、その後はそれぞれの部署の仲間同士、好き勝手に飲んで騒いでいただけだ。当然「根暗なシステム部の面々」は、その楽しそうな輪の中には入れない。取り残された俺達は座敷の隅の方でぽつぽつと何かを話し、最後には殆ど無言でお開きの時間を迎えた。
その地獄のような時間からやっと解放されたと思ったら、これだ。終電を逃して見知らぬ町を彷徨い、貴重な休日の前夜を棒に振った。
おまけに無為に歩き続けたせいで、段々と都会らしからぬうら寂しい場所へと迷い込んでしまったらしい。表通りには腐るほどあったコンビニも全く見当たらず、そもそも俺以外に歩いている人間の姿もない。まるで神隠しに遭ったかのような心細さが募り、心身ともに疲労しすぎて、もう良い齢した大人だというのに不覚にも泣きそうになってしまった。
――だから迷いに迷って偶然見つけたこのホテルは、俺にとって安らぎの宿。大袈裟でも何でもなく希望の光、そのものだ。
『幻龍楼』――黄金色の龍が舞う重々しい看板にはそう書かれている。名前もさることながら、建物の外観も普通のホテルと違ってかなり個性的な造りとなっていた。
入口を彩る偽の桜と竹。柔らかな乳白色の光を放つ吊り提灯、そして夜目にも鮮やかな朱色の壁や格子。背後の月夜にそれらがよく映え、いつだったかテレビで見た江戸時代の遊郭、もしくは子供の頃に絵本で読んだ竹藪の中の雀の宿みたいだと思った。
それでも表に出ている看板には、
『全部屋インターネット完備。休憩・宿泊可能』。こう書いてある。
建物自体は大きくて立派だし、汚れ一つない綺麗な看板を見る限り割と新しそうだ。それでいて一泊五千円というのは有り難い。気になるのはこの異様な外観だが、今の時代コスプレ喫茶や戦国居酒屋もあるくらいだし、少しくらい個性的でも別段おかしなことじゃないのかもしれなかった。
「いらっしゃい」
エントランスにもあちこち桜の造花が散りばめられていて、朱色の壁には艶やかな柄の扇や番傘が飾られている。少々目が痛いものの、基本的に清潔感に溢れていた。
ひょっとしたら花魁の格好をした女性店員が出迎えてくれるのだろうか。そんな期待を抱きつつ受付へ進んだ俺は、次の瞬間、軽く裏切られた気になった。
「お一人? 初めて?」
受付にいたスタッフは男、しかも今の俺が一番求めていないタイプの男だった。
眩しいほどに逆立った金髪。両耳に幾つものピアス。緩いTシャツから覗いた腕には右も左もがっつりと墨が入っている。ぎょろついた目、咥え煙草、接客業とは思えないような軽い口調。どう見てもまともな社会人の風貌ではない。
「一人です。初めてです……」
「うん、それじゃあこの紙に名前とか色々書いて。会員証作るから」
男がカウンターに滑らせた紙に記入をしながら、俺はちらりと彼の胸に付けられたネームプレートを盗み見た。驚いたことに、この男がここの責任者らしい。ネームプレートには手書きの派手な文字で『和了(店長)』と書かれている。
「……書きました」
「うん、飯島浩介さんね。二十六歳か……俺の六個も下じゃん。で、ウチは部屋代一晩三千円で、その他諸々のオプションはその都度加算されてく感じだけど、何か質問ある?」
質問なんてハナから受け付けていないんじゃないだろうかと思わせるほどの、威圧的な喋り方だ。何も後ろめたいことなどないのに緊張してしまう。
「いえ。取り敢えず、始発の時間まで寝られれば……」
「いいよ。ウチは休憩よりも宿泊の方に力入れてるから」
「しかしこの立派な内装で五千円て、かなり安い方ですよね。こんな値段で寝泊まりさせて貰っていいのかなって、逆に不安になったりして」
適当に話を合わせようとしてそう言うと、店長がカウンターに肘をついて大きく口を開けた。そこから俺めがけて煙草の煙が吐き出され、思わず咳き込んでしまう。
「な、何すんですかっ……」
「……まあいいや。それじゃ帰る時にこの伝票持ってきて。その時会計するから」
渡された伝票には315と書かれていた。
「三階の十五番の部屋な。そこのエレベーター使っていいよ、ごゆっくり」
「……どうも」
「和了さん」
エレベーターに向かおうとしたその時、カウンター奥の仕切りカーテンから別の男が出て来た。
前髪を水色のゴムで雑に縛っている。口の周りにスナック菓子のカスを付けながら更に菓子の袋を抱えていて、店長と比べるとだいぶ幼い。体付きも華奢で見ようによっては中学生のようでもある。胸に付けられたプレートには、やはり手書きで『副露』と書かれてあった。
和了と副露。――確か、麻雀用語だ。
「なに、副露ちゃん」
「エレベーター調子悪いから使えないよ。明日の朝、業者さんが来るんでしょ」
「ああ、忘れてた。悪いけど兄さん、階段使ってくれるかな」
「はあ」
三階まで階段か。できれば一刻も早く休みたかったのだが……。
仕方なく歩き出すと、背後でクスクス笑う二人の声が聞こえた。
「はあ、だって」
「ね」
「………」
もう二度と来るもんか。
ムカムカしながら階段を上がり、315号室に辿り着いた時には全身の疲れがピークに達していた。だが――
「な、何だ。……随分凝ってんな」
部屋の壁や天井はやはり朱色で、沓脱ぎの向こう側は畳になっている。和傘をイメージした照明が橙色の優しい光を発し、部屋全体にノスタルジックな雰囲気を与えていた。
そんな部屋のデザインに不釣り合いなパソコンや大型液晶テレビの他に、セミダブルのベッドと、二人掛けのソファが設置されている。勿論ちゃんとしたバスルームもある。いくら宿泊に力を入れていると言っても、これで五千円は少し安すぎるんじゃないだろうか。
しかし、今はとにかく有り難い。俺は脱いだコートを壁にかけてからベッドにダイブして、思い切り両手両足を伸ばした。枕元の照明スイッチをひねると、和傘の明かりが橙色から明るい白に変わった。
「ラブホみたいだな……」
照明スイッチの横にあったファイルを手に取り、開く。そこにはホテルの簡単なシステム説明などと一緒に、フードメニューがずらりと書かれてあった。
『出来たての料理をお持ちします。インターフォンからお気軽にどうぞ』
牛丼、ラーメン、カレーやパスタなどの定番物からロコモコ、パエリア、リゾットなんて洒落た物まであるらしい。値段も安いし、飲み会の席ではろくな物を食べられなかったから良い感じに小腹が空いている。
俺は早速内線の受話器を肩に挟み、メニューを見ながら相手が出るのを待った。
〈フロントだけど〉
この威圧的な声……和了だ。
「ええと、食事を頼みたいんですが」
〈いいよ。何にする〉
「カレーと、あとシーフードサラダを」
〈ちょっと待って。――おおい、副露。カレーまだあったっけ?〉
〈あるよ!〉
〈了解! ――お待たせ。カレーとサラダね、じゃあ五分後くらいに持って行きますわ〉
どうやらただのレトルトらしい。まぁ、値段を考えれば当然か。
それからぴったり五分後、部屋のドアがノックされた。
「カレーとサラダお持ちしました。伝票くださいな」
「………」
盆を持って現れた副露は、明らかに口の中でガムを噛んでいる。こんなにも凝った造りのホテルなのに、従業員の方はどうも適当すぎる気がしてならない。
手渡した伝票に注文した物の記入をしながら、副露が言った。
「お兄さん、ウチの利用初めてでしょ? どっから来たの?」
「北西沢町に会社があって、今日は飲み会の帰りなんだ。終電逃しちゃってさ」
「ふうん。一人暮らししてるの?」
「ああ、二十歳の時に東京出てきて、それで――」
「俺はね二年前にこっち来て、和了さんに拾われたの。この仕事、和了さんが俺のために始めたの」
「へ、へえ。副露って名前も店長に付けてもらったのか?」
「そうだよ。和了さんかっこいいでしょ、俺のだから取っちゃ駄目だよ」
「いや取らないけど……」
ニッと笑って、副露が伝票を俺に返した。
「だけど初めてならびっくりしたでしょ?」
「ああ、こんな綺麗な部屋だって思わなかったから……」
「この建物、前は遊郭をイメージしたラブホだったみたい。和了さんの知り合いが経営してて、内装とか備品とか、殆どそのまま譲ってもらったんだよ」
「なるほどなぁ。でも、それでも一泊五千円て、明らかに割に合わないっていうか……こんな値段で商売成り立ってるのか?」
興味本位で質問すると、ペンの先を軽く咥えた副露が意味ありげに首を傾げた。
「どうかな?」
「どうかなって……。まぁ内部事情は軽率に喋れないか。ごめん、変なこと聞いて」
「全然いいよ。――ところでお兄さん、ウチのシステム説明のファイルって、最後まで読んだ?」
「いや」
「時間あったら読んでみてよ。ウチって他には無い独自のサービスしてるから、どうせなら楽しんでもらいたいな」
「分かった、読んでみるよ」
副露がドアに手をかけて、俺を振り返った。
「じゃあ、ごゆっくり」
副露が出て行った後、俺は具の少ないカレーを頬張りながら言われた通りにファイルを捲った。
『幻龍楼だけの特別システム』。そんな謳い文句の下に、サービス内容が色々と書かれている。
各部屋は完全防音になっていて、大音量でのゲームや映画鑑賞、カラオケなどもできるらしい。流石に元ラブホテルなだけあって、新旧様々なゲーム機やDVDの貸し出しも行われている。
更には従業員と客共用のプレイルームが二階にあり、従業員にゲームで勝てば料金割引なんていう遊び心の効いたサービスまであった。麻雀の二人打ちで和了に勝てば料金はタダだそうだ。ただし『勝てたら、だけどな』の一文が付け加えられていて、今まで勝った者はいないらしいことが安易に予想できる。
なるほど。確かに見た目同様、他のホテルとはひと味違うようだ。
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