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第六話 タイムリミット
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「湖のそばのずいぶんひっそりした場所にあったから、逆にご利益ありそうだーってあの人が言い出して。ふふ、もうとっくに昇天したでしょうけれど、もしかしたらハルくんのこと守ってくれてたのかも」
「……この顔」
白い容貌は、ほのかに笑っていた。まるで世の哀しみを見通すような、柔らかく、どこか物悲しい微笑み。
それは紛れもない、天使の笑みだった。
「これ、いつの——」
「ハルくん?」
そんなはずがない。守護天使像は一年経てば消えてしまう。昇天してしまう。そうして次の一年で、再び地上に降臨するのがサイクルだ。天使自身もそれを認めていた。
アルバムに手を伸ばし、そっと写真を取り出す。そして右下に小さく入ったタイムスタンプを確認する。
——2010/08/03。
「六年前……だって!?」
僕が、小学二年生の頃だ。
天使は一年で昇天する。天界に帰り、大天使に地上の様子を伝えるのだと天使は確かに言っていた。
しかし——この写真に映る六年前の像は、確かにあの天使であり、場所も母さんが言うにはあの湖のそばだ。
「ハルくん?」
「ごめんお母さんっ、アルバム見れてよかった、ありがとう!」
写真を中に仕舞ってアルバムを返すと、困惑する母さんをよそに僕は急いで廊下へ飛び出した。
階段を駆け上がり、自室のドアを開け放つ。
「天使!」
「……ハルさん」
するとそこには、身投げでもするかのように、窓を開けて身を乗り出す天使がいた。
「きみ、なにを……いや、なんだ? 腕が透けて……」
窓枠に触れる手。それから手首、肘に至るまでが雲ったガラスで出来ているみたいに半透明になって、向こう側を透かしている。
「ここまでみたい。元々ね、もう長くはいられないって思ってたの。十日くらいって話してたよね、最初に。わたしは初めから禁忌を犯してたから」
「六年、この世に留まっていることか」
「あれ。なんだ、ハルさん知ってたの? 覚えてくれてたのに黙ってたなんて、人が悪いよ」
「ついさっき、母さんがアルバムを見せてくれたんだ。六年前の夏、僕はきみの天使像の前で写真を撮っていた」
「そうだよ。ハルさんにとっては何気ない日常の一ページ……でも、わたしにとっては鮮烈な出来事だった。誰も来ない、石像になって遠くから眺めることのしかできなかった毎日で、初めてすぐそばにまで来てくれた人だったから」
天使は覚えていた。僕が忘れてしまった、六年前の夜を。
「戻りたくなかった。一年の役割を終えて天界に戻れば、記憶を消されてしまう。わたしはあなたのことを忘れたくなくて……それからも色んなものを見るたびに、より記憶に固執するようになった」
妙なことばかり、天使は詳しいことがあった。
六年もいたのだと知ればそれも頷ける。いくら人間社会とは別の場所から来たとはいえ、それだけの期間外側から見ていれば、得られる見識もそれなりにあるだろう。
「禁忌って、天界のルールを破ったってことか? そんなことをして、きみは平気なのか」
「どうなんだろうね。存在か記憶を消されるのは間違いないと思う」
「存在……殺されるってことか!?」
「うん、だけどね、同じことだと思うの。サイクルに従って天界に戻っても、どのみち地上の記憶は消されてしまう。わたし、うまく言えないけど、記憶は存在にとって欠かせないものだって思うから」
「そんな——」
「記憶あっての自己。目にした光景、手にした経験が零れ落ちてしまうのなら、それは自己の消失——死となんら変わりないよ。それならわたしは、ぎりぎりまで『わたし』を保っていたかった」
肉体の消失と記憶の消失。天使は、その二つを同義だと考えている。
その考えを否定することはできない。
たとえば僕が今この瞬間、すべてを思い出を喪失するとして——母さんや父さんのことをさっぱり忘れてしまったとして、その人物を『僕』だと定義するには抵抗がある。肉体的な情報が欠けていなくとも、意識を構成するものが決定的に違うはずだ。
「あの日にハルさんが通りがかって、こうして最後の時間をいっしょに過ごせたのは、わたしにとって奇跡だったよ。……ああ、なんだ。わたし、ただの天使だったけれど、奇跡があったんだ」
「最後だなんて言わないでくれ。僕はまだ、きみになにもしてやれてない! 今日だって母さんのことで助けてもらったばかりなのに……!」
「救われたのはわたしだよ。ありがと、ハルさん。会えてよかった」
天使は窓から飛び降りた。夜闇に身を投げた体が翼の羽ばたきによって飛翔する。
瞬く間に天使は夜の向こうを目掛けて飛んでいく。
そのさなか、一度だけ振り返った彼女の横顔に浮かんでいたのは、運命を諦めたような微笑みだった。
「……この顔」
白い容貌は、ほのかに笑っていた。まるで世の哀しみを見通すような、柔らかく、どこか物悲しい微笑み。
それは紛れもない、天使の笑みだった。
「これ、いつの——」
「ハルくん?」
そんなはずがない。守護天使像は一年経てば消えてしまう。昇天してしまう。そうして次の一年で、再び地上に降臨するのがサイクルだ。天使自身もそれを認めていた。
アルバムに手を伸ばし、そっと写真を取り出す。そして右下に小さく入ったタイムスタンプを確認する。
——2010/08/03。
「六年前……だって!?」
僕が、小学二年生の頃だ。
天使は一年で昇天する。天界に帰り、大天使に地上の様子を伝えるのだと天使は確かに言っていた。
しかし——この写真に映る六年前の像は、確かにあの天使であり、場所も母さんが言うにはあの湖のそばだ。
「ハルくん?」
「ごめんお母さんっ、アルバム見れてよかった、ありがとう!」
写真を中に仕舞ってアルバムを返すと、困惑する母さんをよそに僕は急いで廊下へ飛び出した。
階段を駆け上がり、自室のドアを開け放つ。
「天使!」
「……ハルさん」
するとそこには、身投げでもするかのように、窓を開けて身を乗り出す天使がいた。
「きみ、なにを……いや、なんだ? 腕が透けて……」
窓枠に触れる手。それから手首、肘に至るまでが雲ったガラスで出来ているみたいに半透明になって、向こう側を透かしている。
「ここまでみたい。元々ね、もう長くはいられないって思ってたの。十日くらいって話してたよね、最初に。わたしは初めから禁忌を犯してたから」
「六年、この世に留まっていることか」
「あれ。なんだ、ハルさん知ってたの? 覚えてくれてたのに黙ってたなんて、人が悪いよ」
「ついさっき、母さんがアルバムを見せてくれたんだ。六年前の夏、僕はきみの天使像の前で写真を撮っていた」
「そうだよ。ハルさんにとっては何気ない日常の一ページ……でも、わたしにとっては鮮烈な出来事だった。誰も来ない、石像になって遠くから眺めることのしかできなかった毎日で、初めてすぐそばにまで来てくれた人だったから」
天使は覚えていた。僕が忘れてしまった、六年前の夜を。
「戻りたくなかった。一年の役割を終えて天界に戻れば、記憶を消されてしまう。わたしはあなたのことを忘れたくなくて……それからも色んなものを見るたびに、より記憶に固執するようになった」
妙なことばかり、天使は詳しいことがあった。
六年もいたのだと知ればそれも頷ける。いくら人間社会とは別の場所から来たとはいえ、それだけの期間外側から見ていれば、得られる見識もそれなりにあるだろう。
「禁忌って、天界のルールを破ったってことか? そんなことをして、きみは平気なのか」
「どうなんだろうね。存在か記憶を消されるのは間違いないと思う」
「存在……殺されるってことか!?」
「うん、だけどね、同じことだと思うの。サイクルに従って天界に戻っても、どのみち地上の記憶は消されてしまう。わたし、うまく言えないけど、記憶は存在にとって欠かせないものだって思うから」
「そんな——」
「記憶あっての自己。目にした光景、手にした経験が零れ落ちてしまうのなら、それは自己の消失——死となんら変わりないよ。それならわたしは、ぎりぎりまで『わたし』を保っていたかった」
肉体の消失と記憶の消失。天使は、その二つを同義だと考えている。
その考えを否定することはできない。
たとえば僕が今この瞬間、すべてを思い出を喪失するとして——母さんや父さんのことをさっぱり忘れてしまったとして、その人物を『僕』だと定義するには抵抗がある。肉体的な情報が欠けていなくとも、意識を構成するものが決定的に違うはずだ。
「あの日にハルさんが通りがかって、こうして最後の時間をいっしょに過ごせたのは、わたしにとって奇跡だったよ。……ああ、なんだ。わたし、ただの天使だったけれど、奇跡があったんだ」
「最後だなんて言わないでくれ。僕はまだ、きみになにもしてやれてない! 今日だって母さんのことで助けてもらったばかりなのに……!」
「救われたのはわたしだよ。ありがと、ハルさん。会えてよかった」
天使は窓から飛び降りた。夜闇に身を投げた体が翼の羽ばたきによって飛翔する。
瞬く間に天使は夜の向こうを目掛けて飛んでいく。
そのさなか、一度だけ振り返った彼女の横顔に浮かんでいたのは、運命を諦めたような微笑みだった。
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