天使は夜に微笑まない

彗星無視

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第二話 昼夜、入れ替わる家庭

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 どうして天使のやつが僕についてくるのか、それくらいは僕だって帰り道に訊いていた。

「なあ天使。なんだって僕についてくるんだよ」

 僕が尋ねると、

「ハルさんのこと、もっと知りたいから」

 そう面と向かって返されるのだから、どうすることもできなかった。それとも無理にでも彼女を振り切り、その場を逃げ出して二度と会うことのないようにするべきだったのか。
 あるいは本当にそうだったのかもしれない。この時の僕は天使を家に連れて行くことが犯罪に類するものだと考えるだけの余裕がなかった。少なくとも翼を持つ天使のことを誰かに見られなかったのは本当に幸いだった。田舎の夜道に助けられた。
 
 僕が思うにこの天使は、好奇心に満ち満ちたやつなのだ。
 なにせ聞けば、石像であることを辞めたのも、人の世を見てみたいという興味からだったと言う。
 そもそも天使の役割とはなんなのか? 語りたがりの天使は、夜空に向けるように話してくれた。

「九つの階級に属する、神に従う永遠の存在。わたしはその一番下……通常の天使。なんの奇跡も使えず、メッセンジャーとして地球と天界を往復するの」

 曰く、天使は地上へやってくると、一年かけてその地域のあらゆる情報を記憶するのだという。人の世でなにが起きているのかを把握し、一年が経つと天界へ戻って——これが僕たちが昇天と呼ぶものなのだろう——さらに一年かけて大天使にその情報を伝える。
 そうしてひとつのサイクルを終えると、地上の記憶のすべてを消され、またしても一年間の地上への旅に向かうそうだ。

 ……人々が守護天使と敬う存在は、別に誰のことも守っていなかった。僕は特段天使という存在に畏敬の念を抱いたことはなかったが、この話を聞いた時、天使を崇拝する世界中の人々を少し哀れに思ったものだ。
 そしてその天使は今、そんな僕の同情は露知らず、人の自室をじろじろと見回しては「おー」だの「あー」だの密やかな歓声を上げていた。

「本当、どうしてこんなことに……」

 塞ぎ込んで頭を抱えたくなる。それか、疲れに身を任せてベッドに倒れ込みたい。
 天使が足を拭いた後、家の中をうろうろと歩き回られても困るので、とりあえず二階の僕の部屋にやってきた。
 振りきることもできず、成り行きで天使をここまで連れ帰ってきてしまったが、多少なりとも冷静さを取り戻した頭は事態の深刻さを正しく捉え始めていた。

「人に見られたらどうなっちゃうんだよ。天使像を持ち帰ったと思われて……いや、天使が動き回ってる時点で大事だ。世界中でニュースになるに違いない!」
「あはは、じたばたして楽しそう。それなんかの踊り?」
「身もだえてんだよバカ野郎……っ!」

 天使は人のベッドの縁に座り、にへらと気の抜けた顔で笑っている。腹が立ってきた。
 けれど、同時にこうも思う。あの石像になっている時の、悟ったような微笑みに比べればまだいくらかましだ。あの笑みはなんだか、世界が滅亡する寸前みたいな、そんな感じの顔だった。

「心配しなくてもダイジョーブだよ、ハルさん。わたし、日中はちゃんと天使像に戻るつもりだから」
「え? ああ……ずっと動きっぱなしってわけじゃないのか。そっか、石像になって人間観察するのが役目だもんな」
「別にヒトばっか見てるわけじゃないけどー。人目につくのがダメだってことくらいわたしにもわかるし。動くのは、こうして夜の間だけにする」

 夜の間だけ。天使はあの慈母のような微笑みを捨て、動き出す。
 ……かといって人に見られれば大事なのは変わらないが、家から出なければ平気だろうか。なにせこの家に住むのは、今となっては僕と母さんしかいない。その母さんも夜は日曜以外夜勤だから、天使が動く時間帯はまず家にいないだろう。

「だからって、ずっと居座られちゃ色々困るんだが……」
「長居しすぎるつもりもないよ。そうだなぁ、たぶん、一週間から十日くらい? そのくらいが限界だと思うから」

 天使は立ち上がり、出会った時のように覗き込むようにして顔を寄せる。

「ねえ。ちょっとの間だけだから、ここにいちゃ、ダメ?」
「——っ」

 無自覚にそんな仕草をしてくるのだから、天使なんてものは悪魔よりもずっと恐ろしいと本気で思った。



 こうして天使(日中は石像)との奇妙な同居生活が始まった。
 僕は僕という人間を断るべきことは断れるタイプだと思っていたが、それはまったくの誤解で、もしかすると押しに弱い、セールスとか宗教勧誘に気を付けねばならない人種なのかもしれなかった。
 しかし、あの上目遣いを断れる思春期男子がいるだろうか? もしいるのなら目の前に連れてきてほしい。そんな誤った成長過程を送っているやつは僕がこの拳で正してやる。

「あの、ハルさん」
「お。起きたか、おはよう」
「いやおはようじゃなくて」

 同居二日目の夜。机でノートに向かってシャーペンを走らせていると、押し入れの戸がガラリと内側から開け放たれる。
 そこから現れたのは、昨夜と同じ、金髪碧眼で翼を生やした麗しの天使さま。なにやら注文したラーメンのスープに店主のおっさんの指がどっぷり第二関節まで浸かりきっていた時のような微妙な表情を浮かべている。

「……どうしてわたし、押し入れに仕舞われてたの? 目覚めてすっごくびっくりしたんだけど」
「え。そりゃあ、部屋に置くわけにもいかないって。もし母さんがうっかり見たら腰抜かすぞ」

 インテリアで通せるはずもない。くそでかいし。
 朝起きて学校に向かう前、微笑む天使像をなんとか持ち上げて押し入れに隠しておいたのだ。

「えー……なんかショック。押し入れって。特定意志薄弱児童監視指導員じゃないんだし」

 なんで某ネコ型ロボットについては詳しいんだよこいつ。誰も知らないだろそんな職業名。

「はあ、まあいいかぁ。それよりせっかく起きたんだし、遊んでよハルさん。昨日はなんにもできなかったんだからさ」
「遊び? 悪いけど、僕は見ての通り勉強中なんでね。ほかを当たってくれ、もっともこの家に今いるのは僕だけだが」
「勉強って、センセーに出されてた宿題のこと? 数学の」
「……は? なんで知ってるんだ」
「だって見てたし、聞いてたもん」
「日中は守護天使像になってただろ」
「石像になってるから見えるんだよー。ああしてると、町の色んなところが見えるの。だからハルさんを探して……教室をずっと眺めてた。騒がしいね、あそこは。でも授業中は静かだからすごいや」

 教室の中を見てたのか? だったら、僕のことも——
 今日一日の自分を天使に見られていたのかと思うと、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。

「あれ、照れてる? あっ、もしかして友達いないの気にしてる? 今日ほとんど誰ともしゃべってなかったもんねー」
「はっきり言いやがって……」

 言い返す気力もなかった。ついでに机に向かうやる気も失せた。
 僕には友達がいない。学校ではいつも孤立している。
 昔は、そうではなかった。当たり前のように輪に入り、集団の中の誰かとして過ごしていた。その当たり前ができなくなったのは、はたしていつからだったろうか。
 憶えている。決定的な出来事がひとつ、あったのだ。
 三年前、中学に上がる前のこと。両親が離婚した。

 忘れられるはずもない。酒浸りの父は酔った勢いで人を殴り、その相手は頭を地面にぶつけて呆気なく死んでしまったそうだ。もとより乱暴者だった父に愛想をつかして母は縁を切り、僕の苗字も変わってしまった。
 人の口に戸は立てられず、それが子どもの口であればなおさらだ。噂は簡単に学校中に広がり、僕は人殺しの子だとして距離を置かれる。
 しかし今にして思い返せば、第一に周囲との壁を生んだ要因は、名前だったようにも感じる。
 名前が変わる。まだ幼い目からは、まるで人そのものが変わってしまったように映ったのかもしれない。強い戸惑いのようなものを、周囲の雰囲気から感じ取っていたことを覚えている。

「……確かに、初めから名前なんてものがなければ、もっと単純な関係だけが生まれるのかもな」

 家庭の事情。その一言で済ませるには、拙いコミュニティにとって名前の変化は複雑すぎた。好奇と、父の汚名による嫌悪の眼差しが大人子ども問わず注がれ、それ以来僕は教室で孤立し続けている。

「仲良くなってー、って言えばいいんじゃない? 友達になろうって」
「それが通用するのは子どもの間だけだよ」

 純真さを失うことこそが成長だ。歳を取るにつれ、特別な理由がないと、人と関わることは難しくなる。
 ……いや、わかってる。こんなのは言い訳だ。中学二年にもなるのだし、親がどうとかで表だって僕を差別するような、分別のない人間はもういない。

「まあ……ある程度、天使の言うことも一理ある。でも、僕は別にそれでいいって思ってるんだよ」
「ひとりぼっちでもいいって? ほんとに? 寂しくないの?」
「気楽でいい。学校なんてのは、たかだか三年過ごして出るだけの場所だ。波風なく過ごせればそれで十分なんだよ」

 偽りなくそう思う。孤立はゼロであって、マイナスではない。それなら僕は構わない。

「ふうん。わたしは、せっかくだからみんなといっしょにはしゃぎたいなぁ」
「そういうやつもいるだろうな」
「ハルさんって結構ネクラなんだね」
「ほっといてくれ。……教室で孤立するのは構わない。それは本当だけど」

 だけど。
 ひとつ、苦しいことがあるとすれば。

「家でまでひとりなのは、たまにつらくなる」

 いつの間にか家の中は、どこもひどく静かになってしまった。
 母さんと二人きり。しかし、僕は昼間は学校で、夕方に帰ると母さんは仕事に向かう。朝と昼は母さんは寝ているので、顔を合わせることさえあまりない。言葉もほとんど交わさない。
 不和ではない。喧嘩をしたことさえない。なのに、僕たちの家庭は、冬のように冷たかった。
 そのことがときおりつらい。

「お母さんしかいないもんね、この家。別居?」
「離婚。それも原因は父親の殺人だ。もう何年も話題にも出してない」
「わぁ。ハードだね」

 軽い反応がかえってありがたかった。
 大仰な言い方をすれば、家は人が唯一心から安らげる聖域であり、そうあるべきだ。その家が会話のない、ただ飯を食べて寝るだけの場所になっているのは、どうしたって心にくるものがある。
 だから、この天使がいるのは——

「……まあ。そういう意味では、きみが来てからはマシかな」

 顔を合わせないように言う。見なくとも、天使がにこにこと笑っているのがわかった。
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