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第九話 灰の赤色

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 目当ての宿は、町の真東にあった。東の方は治安もましなのか、それとも迷宮の周辺が悪すぎるのか、夜とはいえ特に危険そうな人や物と出くわすこともなく、むしろゴミひとつなく整頓された街並みに感心さえした。

「なんか、よさげなところだな。悪目立ちしてないっていうか、奥ゆかしいっていうか」

 石造りの建物が多いホシミダイでは珍しく、その二階建ての宿舎は木造だった。これも日本で暮らしてきた永一にとってはなじみ深く、温かく心を落ち着かせてくれるようだった。郷愁じみた気持ちさえ覚える。

「月の赤色亭、です。あそこの看板に書かれています。昔から何度か、両親に言われてきました。ここの夫妻は頼れるひとだから、ホシミダイに来ることがあればここに泊まれと」
「明かりが……漏れています。まだ……やっているようですね……一階は食堂か……酒場になっている、のでしょうか」
「とはいえ外まで騒ぎは響いてこないな。なら前者か?」

 ともあれ入ってみなければ始まらない。シンジュは若干の緊張を横顔ににじませながら、ゆっくりと戸を押し開く。
 明かりのまばゆい室内へ入る。その間際——

「なあ知ってるか? 螺旋迷宮、39階が踏破されたらしいぜ」
「そうなのか? 何年ぶりだよ、ようやくギルドのやつらも真剣に……いやそんなはずねえやな。次はボス部屋だし、進むのはまた当分先だろうなぁ」
「それが聞いてくれよ、なんでも階層を進めたのはギルドに所属しない、人相の悪い——」

 斜め後ろ。角の向こうで夜道を行く耳聡い誰かの、そんな会話が妙に永一の耳に残った。気にはなったが、中に入らないわけにもいかない。姉妹に続き永一も入室する。
 中は見立て通り食堂のようだったが、もう客は出払ったか上の部屋で休んでいるらしく、テーブルのいくつも並んだ広間は閑散としていた。しかし、奥のカウンターでは店主らしき男がひとり宿帳と思しき冊子を眺めており、来客に顔を上げてシンジュたちを見た。

「いらっしゃ……。その容姿、キミたちはもしや」

 店主は思わずといった様子で立ち上がり、驚きも露わに姉妹を凝視する。
 深い落ち着きと知性を佇まいから感じさせる、壮年の男だった。髪は赤く、体つきが細いのもあって一目見て温和な印象を自然と受ける。

「アテル様でございますね。母と父から伺っております、姉のシンジュです」
「妹の……コハクです」

 深々とお辞儀する姉妹に、アテルと名を呼ばれた赤髪の彼はいても立ってもいられないとカウンターから出てきて、姉妹のそれとは別種の薄い黄色の目でもう一度じっと姉妹を見た。その瞳にあるのははたから見てもわかるほど強く純然な、憐憫の感情だった。

「三年前の大泛溢マッドポップで里は滅びたと聞いていたけれど……生きていたんだね。……キミたち二人だけ、かい?」
「——はい。母も父も、里のものは、みな」
「そう、か。すまない、つらいことを訊いた」
「構いません。ワタシたちは悲しみから決別するため、このホシミダイを目指してきたのです」
「決別……螺旋迷宮か……。それはだけど……いいや、僕になにか言えた義理でもない。とにかくシンジュ君とコハク君だけでも生きていたこと、僕は心から嬉しく思う。今日はもう休んでいるけれど、妻もキミたちを見ればきっと泣いて喜ぶよ」

 アテルはそこで言葉を区切ると、姉妹のそばで手持ち無沙汰に立ち尽くしていた永一へ視線を移した。

「それで、ええと? そこのキミはセレイネスの里の人じゃないよね。いや、黒い髪に瞳……タカイジンかい?」
「あーっと、坂水永一です。今日このラセンカイに転生して、シンジュとコハクに助けてもらいました。よろしくお願いします、アテルさん」

 姉妹に倣うわけではないが、永一もアテルにはあまり言いなれない丁寧語を話した。歳上なのだし、なにやら姉妹の両親と交流があったようだから、ここは礼節ある態度を示すべきだろう。

「はは、失礼ながら見た目に反して礼儀正しいね、エーイチ君は。こちらこそどうぞよろしく、気軽な感じで大丈夫だよ。所詮はしがない宿屋の主人に過ぎない」
「そうですか?」

 しかしそう言われても、なんだかぞんざいにはできないところのある男だった。憂いを帯びた目や何気ない所作から、市井に埋もれた単なる一般人とは一線を画す、形容しがたい大きな力が静かににじみ出ているようだった。
 あるいはそれは、彼の血を巡るものがそうさせているのかもしれない。

「それでエーイチ君はふたりとはどういう関係なのかな? いきなり異世界に放り出されて困っているところをここまで案内してもらった、とか?」
「おおむねそんな感じです。説明すると長くなるかもしれないんですけど——」
「……わたしたちは……エーイチ様の……下僕です」
「下僕!?」
「——あ、いや、これは違くて」
「いえ。ワタシたちはエーイチ様に忠誠を誓いました。エーイチ様のためならすべてを捧げる覚悟です」
「すべてを捧げる……っ!?」
「おい待て待て待て、違う! 勝手に誤解を招くことばっか言うなっ! たまに暴走するよなお前ら!?」
「……どうやら、エーイチ君とは一度話をしなければならないようだ。シンジュ君とコハク君のご両親には、妻と昔セレイネスの里へ立ち寄った際に非常によくしてもらってね。平たく言えば恩人ってやつなんだ」

 温和な表情を崩さぬまま永一を見据える。顔は笑っていたが、その目はにこりともしていない。

「つまり——僕は、恩人の忘れ形見であるふたりに危ない男が近づかないか、チェックする義務がある。違うかい?」
「ち、違わないです」
「よし。ほら、突っ立ってないでそこに座るといい。食事はまだだろう? ちょうど残り物もあることだし、簡単にだが用意しよう」
「いや、あの——」
「ああ遠慮はしないでおくれよ。なに、思うに食事の席ほど腹を割って話すのに適した場はない。夕飯ついでに教えてほしいな、キミの言う……下僕たちとのなれそめを、ね」
「オレは下僕だなんて一言も言ってねえ……!」

 口調も穏やかであるはずなのに、なぜか身を凍らせるほどの圧力があった。例えるならライオンが正座をしているような、いつ穏健な姿勢を崩して襲い掛かってくるのかわからない、そんな危機感。
 温和の仮面の下には、獰猛な獣が潜んでいる。
——やっぱりこの人には敬語を使おう。
 不死をして恐怖させるアテルの底知れなさに、永一はそう心から思った。



「ああ、なんだ。下僕というのは二人が勝手に主張しているだけなのか。安心したよ」
「オレ言いましたけどね?」
「まったくエーイチ君もひとが悪い、だったらすぐ否定してくれればよかったのに」
「オレ言いましたけどね?」

 その後、魔物を相手にするよりも緊張しながら必死に弁解を続け、誤解をなんとか解くことができて永一はほっとしながら、肉の香ばしい匂いを漂わせるスープを口に運んだ。
 いきなり異世界に放り込まれ、不死となり、過酷な迷宮を進んだ。通常の人生ではただ一度しか受容できぬ死を、今日一日だけで何度も何度もその肉体に刻んできた。
 通常であれば、少なからず精神に影響が出る。永一も食事を楽しむだけの余裕はないやもしれぬと思っていたが——

「ところで味はどうかな? そのスープ、ウチの定番なんだ」
「めちゃおいしいです。特にこのごろごろした肉と角切りの肉と分厚い肉と柔らかい肉」

 永一はそんな繊細さとは無縁のようだった。そもそも生き返る死を死だとは認識していない。
 意識が落ちる先は永久の闇ではなく、単なる一時的な意識の消失に怯えるのであれば、そいつは毎夜の就寝にさえ恐れおののくに違いないのだ。

「うん、そうだろう。わかってくれて嬉しいよ」
「これ具材お肉しか入ってなくないですか?」
「それが人気の秘訣さ」

 イカれた宿だと永一は思った。

「こんなに……お肉ばかりでは、採算が……取れないのでは……?」
「そうでもない。ホシミダイは畑もほとんどないからね、野菜や豆を入れたって大した差はない……っていうのは流石に言いすぎだけど。ま、そのぶん客から巻き上げればいいのさ」
「…………どんぶり勘定……」
「より悪質ななにかだろ」
「ですが味は本当においしいですっ。やはり疲労にはお肉が一番効きます……迷宮で疲れた体の頭から足先まで熱い肉汁が染みわたるようです!」
「香ばしくなりそうだなおい」

 やたらと肉々しい料理だったが、姉妹には好評のようだった。事実として味は良く、洗練された調理法や多様な化学調味料に慣らされ、舌の肥えた現代っ子である永一も満足する出来栄えだ。
 食事を終えると、アテルに今日はもう上で休むようにと勧められる。シンジュが宿代を払おうとすると、アテルはもらえないとそれを拒否した。

「いえ、エーイチ様がいてくださるおかげで初日から迷宮で魔石をいくつも手に入れられました。どうかお受け取りください」
「不要の施しを受けてしまっては……誇り高きセレイネスの民の……名折れですから。たった……ふたりになってしまっても……」
「そうかい。矜恃を持ち出されれば、断るわけにもいかないな。せめていい部屋を用意しよう」
「ありがとうございます。コハクとは同じ部屋で構いません」
「一人分の宿代で二つ用意してもいいけれど? それも矜恃が許さないかい?」
「いいえ。同じ部屋であることを、ワタシが望んでいるのです」
「わたしたちは……互いに目の届く……手の伸ばせる場所に……」
「そっか、皆まで言わなくていい。そういうことなら、それでいいさ」
「ご厚意に感謝します」

 シンジュとコハクはアテルに頭を下げ、それから就寝の挨拶のつもりか永一にもお辞儀をして、アテルと二階へ上っていった。
 永一はわざわざ姉妹で同じ部屋を望んだ意味について、自然と考え込む。

(近くにいないと……いなくなりそうで不安、か)

 推論はすぐに立った。住んでいたという里が滅び、家族も親戚もいなくなり、姉妹にはもはや互いのほかになにも残されていないに違いないのだ。ならば、そこにある種の執着を覚えるのは成り行きとも言えた。
 永一にも気持ちは理解できた。ただ違うのは、永一の場合は姉が残ることもなく、家族は全員死んでしまったことだ。だからなにもなくなった。

「待たせたね」
「平気です、アテルさん」

 少し思考を巡らせていると、アテルはすぐに戻ってきた。
 そして再びテーブルに着くと、トーンを落とした声で永一に尋ねる。

「で、なにから訊きたい?」
「マッドポップ。シンジュとコハクたちの暮らしていた、セレイネスの里が滅びた原因らしいそれについて」
「うん、やっぱりキミは察しがいい。それに気も遣える」

 即座の返答に、アテルはふっと人のいい笑みを浮かべた。
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