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最終章プロローグ 神殺しの夜に
第141話 『主の御前にて』
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——レツェリという男にとって、あまねく他者は狂人も同然だった。
信心深い母のもとに生まれ。
物心ついた時から、安穏と生きるすべての人々に疑問を持たずにはいられなかった。
なぜ、いずれ終わる生を受け入れているのか?
なぜ、定命を知りながら、それを覆そうとしないのか?
なぜ、いずれ訪れる破滅から目をそらして過ごすのか?
なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ?
いかに困難な道のりであろうとも、不死の方途を探さぬことは緩慢な自死と同義だ。どれだけ遠くとも、人は死の克服に向かって歩まねばならないはず。
鮮烈な体験に基づくでもなく。価値観を一変させるような出来事を経るでもなく。
一切のきっかけを持たずして。
ただ自然と、水が低きに流れるように、レツェリはそう思い続けた。
だからレツェリにはわからない。
死を容認するわけが理解できない。
レツェリにとって、己と目的と異にして生きるすべての者は、狂った自殺者と同じに映った。
*
「……なにか言いたげな表情だな、トビニシマルオ」
そして今も。レツェリの赤い左眼は、自殺志願者の狂人を目前に捉えていた。
「はは。ひょっとして、顔に出てましたかね。わたくしも」
トビニシは硬い面持ちで言う。その真剣な表情の底にある感情は——怒り?
南方の旧オフィス街にて、『星の意志』の出現を方舟が確認した少し後。イドラやソニア、それからヤナギたちが車両で移動している最中。
レツェリもまた、それに伴うミンクツの騒ぎで事態を察し、行動を開始しようとしていた。そのためにベルチャーナを先に現地へ向かわせ、自身もまた、この根城としている教会を出ていこうとしたところで——
立ちはだかったのは、冴えない壮年の男性だった。
「私の道行きを塞ごうというのかね? 言っておくが、私は冗談の通じる方ではないぞ」
「さっき出ていったベルチャーナさんの様子がおかしかったのは、あなたのせいですね?」
長椅子の並ぶ礼拝室は、人里離れた場所にあり、かつ夜間ということもあって厳かな静寂の中に沈んでいた。
「ハッ。だからどうしたと言うのだ」
やはり、レツェリにはわからなかった。
自身をにらむトビニシの眼差し。その悲壮な雰囲気は、まさしく死を覚悟してのものだ。
なぜ?
天恵を持たぬその身で。コピーギフトを手に入れる伝手もあるまい。
どうして、小型のアンゴルモア一匹屠れぬような弱者が、この最強の天恵を前に立ちはだかろうとするのか?
「彼女のあの顔は……ああ、さんざん見た顔です。覚えがある。絶対の真理に誑かされ、騙される妄信者のそれだ。あなたはベルチャーナさんを騙し、利用している」
「……それで? 私がベルチャーナ君を厄介な男の足止めに使ったのは確かだ。しかしそれが、貴様になにか関係があるのかね? そのように身を挺する義理がどこにある?」
「わたくしがここに立つのは、あなたを止めるためです。あなたは花音さまと同じだ。ありもしない楽園を嘯き、周囲の人間を奈落へ先導する悪魔だ」
「大きく出たな、トビニシマルオ。わからんなァ——実にわからん。貴様がなにを思おうともこの際構わんが、一体全体どうすれば、貴様に私を止められるというのだ?」
蟷螂の斧。トビニシが仮に百人いたところで、レツェリの万物停滞にかかれば一分足らずで皆殺しだろう。
その力の一端は、既にレツェリも見せている。トビニシのボロ家を視線ひとつで壊したことが、彼がこの教会へ転がり込んだ要因だ。
力の差は歴然で。勝つ見込みなど、万に一つもないはずなのに。
男は、教会のドアを背に、佇み続けた。
「わたくしは花音さまを止められなかった。恐れをなして、ひとり逃げ出した。二十七年前と同じことは繰り返しません」
「なるほどな、結局は自身の後悔が動機か。まったく、くだらん。あぁ——」
ため息を吐いて、それからレツェリは、
「——本当にくだらんなァ、トビニシマルオ」
目前の男に視線をやった。
ごぼ、と血を吐く音。
視界に展開される『箱』。仮想的な立方体で空間を区切り、その内部の時間を一瞬だけ遅らせることで、境界面に存在するあらゆるものを断裂させる——それがレツェリの万物停滞。
天恵にして眼球。
レツェリは偽神計画の全容をケイカノンから聞かされた時、既に、自身の天恵に『星の意志』を宿らせられないかと考えていた。
「が、ぅ——ごほッ、あぐっ」
「火を見るよりも明らか、という言葉を知らんのか? こうなるのは当然の帰結だ」
トビニシは胴体をまるまる箱の形にくりぬかれ、礼拝室の床にべちゃりと倒れ込んだ。
遠からず死ぬだろう。
戦闘にさえならない。触れることもできない。
両者にはそれほどの差があり、そんなことは自明のはずだった。
「貴様はただ、死に場所を探していただけだ。よかったなァ、二十七年かけたおかげで、墓標にしては立派な十字架がここにはあるぞ」
「げほっ、死に場所——あぁ。ぐ……そう、ですね。それは……否定できません」
致命的に血を流し、死にゆく体で、苦しみながらもトビニシは言う。
まだ喋れたことがレツェリには少し意外だった。だが、かといって末路は変わるまい。
「ですが、もう一度言います。あなたは……ごほッ、花音さまとおんなじです。誰かが、止めなくてはならない。わたくしは……情けなくもこの通り、力及びませんでしたが」
「私は世を救う。幸福に導こうというのだぞ」
「ははッ!」
愉快そうにトビニシは笑う。その拍子に軽く咳込むと、赤黒い血の塊が吐き出された。
「花音さまも同じことを言って、信者を大勢殺しましたよ」
「——」
不覚にもレツェリは言い返せない。わずかな間をおいて、ようやく「しかし」と反論を舌に乗せたところで、我に返る。
既に眼前の男は事切れ、物言わぬ死体と化していた。
チッ、と不愉快さを露わに舌を鳴らす。言い逃げられたようだ。
思わぬ妨害があったが、終わってみれば時間を取られたわけでもない。レツェリは気を取り直し、死体を跨いでドアに向かう。
その時、反対側の、教会の奥に続くドアの方から物音がした。
即座に振り向くレツェリ。そこには既に何者の姿もなかったが、去っていく足音がかすかにその先から響いてくる。
……軽い音。アマネのものだろう。
ああ、これをトビニシマルオはこれをアマネに見せたかったのか、とレツェリは得心した。
孤独を嫌い、悪魔とともに過ごそうとする少女に、気づかせてやりたかったのだ。レツェリの危険さを。
そして、このいびつなコミュニティから逃がすために、トビニシは身を挺した。
「……馬鹿な男だ」
命を賭してまですることではない。
だいいち、アマネなどもはや、いてもいなくてもどうでもよい。この住処に案内した時点で用済みだ。
どこへなりとも行けばよい。いつも隙あらば歌うあの下手くそな声も、これで聞かなくて済む。
「では、向かうとするか」
ドアを開け、暗澹たる夜に踏み入る。もうこの教会に戻ることもないだろう。
レツェリが礼拝室を出る。
生きている者がいなくなり、そこには、まったき静寂が訪れる。
礼拝室の最奥にある七色のステンドグラスは、先日までは長らく放置されて薄汚れていたが、床の死体が生前に水拭きしてやり、今では往時の色鮮やかさな美しさを取り戻している。
二十七年前。すべての教えから背を向けたはずの棄教者は、皮肉にも、神の面前で斃れていた。
信心深い母のもとに生まれ。
物心ついた時から、安穏と生きるすべての人々に疑問を持たずにはいられなかった。
なぜ、いずれ終わる生を受け入れているのか?
なぜ、定命を知りながら、それを覆そうとしないのか?
なぜ、いずれ訪れる破滅から目をそらして過ごすのか?
なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ?
いかに困難な道のりであろうとも、不死の方途を探さぬことは緩慢な自死と同義だ。どれだけ遠くとも、人は死の克服に向かって歩まねばならないはず。
鮮烈な体験に基づくでもなく。価値観を一変させるような出来事を経るでもなく。
一切のきっかけを持たずして。
ただ自然と、水が低きに流れるように、レツェリはそう思い続けた。
だからレツェリにはわからない。
死を容認するわけが理解できない。
レツェリにとって、己と目的と異にして生きるすべての者は、狂った自殺者と同じに映った。
*
「……なにか言いたげな表情だな、トビニシマルオ」
そして今も。レツェリの赤い左眼は、自殺志願者の狂人を目前に捉えていた。
「はは。ひょっとして、顔に出てましたかね。わたくしも」
トビニシは硬い面持ちで言う。その真剣な表情の底にある感情は——怒り?
南方の旧オフィス街にて、『星の意志』の出現を方舟が確認した少し後。イドラやソニア、それからヤナギたちが車両で移動している最中。
レツェリもまた、それに伴うミンクツの騒ぎで事態を察し、行動を開始しようとしていた。そのためにベルチャーナを先に現地へ向かわせ、自身もまた、この根城としている教会を出ていこうとしたところで——
立ちはだかったのは、冴えない壮年の男性だった。
「私の道行きを塞ごうというのかね? 言っておくが、私は冗談の通じる方ではないぞ」
「さっき出ていったベルチャーナさんの様子がおかしかったのは、あなたのせいですね?」
長椅子の並ぶ礼拝室は、人里離れた場所にあり、かつ夜間ということもあって厳かな静寂の中に沈んでいた。
「ハッ。だからどうしたと言うのだ」
やはり、レツェリにはわからなかった。
自身をにらむトビニシの眼差し。その悲壮な雰囲気は、まさしく死を覚悟してのものだ。
なぜ?
天恵を持たぬその身で。コピーギフトを手に入れる伝手もあるまい。
どうして、小型のアンゴルモア一匹屠れぬような弱者が、この最強の天恵を前に立ちはだかろうとするのか?
「彼女のあの顔は……ああ、さんざん見た顔です。覚えがある。絶対の真理に誑かされ、騙される妄信者のそれだ。あなたはベルチャーナさんを騙し、利用している」
「……それで? 私がベルチャーナ君を厄介な男の足止めに使ったのは確かだ。しかしそれが、貴様になにか関係があるのかね? そのように身を挺する義理がどこにある?」
「わたくしがここに立つのは、あなたを止めるためです。あなたは花音さまと同じだ。ありもしない楽園を嘯き、周囲の人間を奈落へ先導する悪魔だ」
「大きく出たな、トビニシマルオ。わからんなァ——実にわからん。貴様がなにを思おうともこの際構わんが、一体全体どうすれば、貴様に私を止められるというのだ?」
蟷螂の斧。トビニシが仮に百人いたところで、レツェリの万物停滞にかかれば一分足らずで皆殺しだろう。
その力の一端は、既にレツェリも見せている。トビニシのボロ家を視線ひとつで壊したことが、彼がこの教会へ転がり込んだ要因だ。
力の差は歴然で。勝つ見込みなど、万に一つもないはずなのに。
男は、教会のドアを背に、佇み続けた。
「わたくしは花音さまを止められなかった。恐れをなして、ひとり逃げ出した。二十七年前と同じことは繰り返しません」
「なるほどな、結局は自身の後悔が動機か。まったく、くだらん。あぁ——」
ため息を吐いて、それからレツェリは、
「——本当にくだらんなァ、トビニシマルオ」
目前の男に視線をやった。
ごぼ、と血を吐く音。
視界に展開される『箱』。仮想的な立方体で空間を区切り、その内部の時間を一瞬だけ遅らせることで、境界面に存在するあらゆるものを断裂させる——それがレツェリの万物停滞。
天恵にして眼球。
レツェリは偽神計画の全容をケイカノンから聞かされた時、既に、自身の天恵に『星の意志』を宿らせられないかと考えていた。
「が、ぅ——ごほッ、あぐっ」
「火を見るよりも明らか、という言葉を知らんのか? こうなるのは当然の帰結だ」
トビニシは胴体をまるまる箱の形にくりぬかれ、礼拝室の床にべちゃりと倒れ込んだ。
遠からず死ぬだろう。
戦闘にさえならない。触れることもできない。
両者にはそれほどの差があり、そんなことは自明のはずだった。
「貴様はただ、死に場所を探していただけだ。よかったなァ、二十七年かけたおかげで、墓標にしては立派な十字架がここにはあるぞ」
「げほっ、死に場所——あぁ。ぐ……そう、ですね。それは……否定できません」
致命的に血を流し、死にゆく体で、苦しみながらもトビニシは言う。
まだ喋れたことがレツェリには少し意外だった。だが、かといって末路は変わるまい。
「ですが、もう一度言います。あなたは……ごほッ、花音さまとおんなじです。誰かが、止めなくてはならない。わたくしは……情けなくもこの通り、力及びませんでしたが」
「私は世を救う。幸福に導こうというのだぞ」
「ははッ!」
愉快そうにトビニシは笑う。その拍子に軽く咳込むと、赤黒い血の塊が吐き出された。
「花音さまも同じことを言って、信者を大勢殺しましたよ」
「——」
不覚にもレツェリは言い返せない。わずかな間をおいて、ようやく「しかし」と反論を舌に乗せたところで、我に返る。
既に眼前の男は事切れ、物言わぬ死体と化していた。
チッ、と不愉快さを露わに舌を鳴らす。言い逃げられたようだ。
思わぬ妨害があったが、終わってみれば時間を取られたわけでもない。レツェリは気を取り直し、死体を跨いでドアに向かう。
その時、反対側の、教会の奥に続くドアの方から物音がした。
即座に振り向くレツェリ。そこには既に何者の姿もなかったが、去っていく足音がかすかにその先から響いてくる。
……軽い音。アマネのものだろう。
ああ、これをトビニシマルオはこれをアマネに見せたかったのか、とレツェリは得心した。
孤独を嫌い、悪魔とともに過ごそうとする少女に、気づかせてやりたかったのだ。レツェリの危険さを。
そして、このいびつなコミュニティから逃がすために、トビニシは身を挺した。
「……馬鹿な男だ」
命を賭してまですることではない。
だいいち、アマネなどもはや、いてもいなくてもどうでもよい。この住処に案内した時点で用済みだ。
どこへなりとも行けばよい。いつも隙あらば歌うあの下手くそな声も、これで聞かなくて済む。
「では、向かうとするか」
ドアを開け、暗澹たる夜に踏み入る。もうこの教会に戻ることもないだろう。
レツェリが礼拝室を出る。
生きている者がいなくなり、そこには、まったき静寂が訪れる。
礼拝室の最奥にある七色のステンドグラスは、先日までは長らく放置されて薄汚れていたが、床の死体が生前に水拭きしてやり、今では往時の色鮮やかさな美しさを取り戻している。
二十七年前。すべての教えから背を向けたはずの棄教者は、皮肉にも、神の面前で斃れていた。
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