不死殺しのイドラ

彗星無視

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第2部2章プロローグ 恋するアンチノミー

第112話 『迷える大羊』

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「わかってます。あんなのは……次元上昇アセンションだとか波動空間だとか、そんなものは幻想でしかない。都合のいい妄想、現実逃避の類。でも、あの人が語ると魔法じみて、本当の救いのように思えてくるんです。たとえ欺瞞でも、最後の最後まで騙してくれるなら、それは真実と変わりないと思いませんか?」
「思わんなァ。事実は事実だ、人の視点や感じ方で移ろうことはない。それにトビニシマルオ、貴様も最後は逃げ出したのだろう? 自分で言ったばかりではないか」
「まあ、はい。そうなんですけどね……幻想に浸るのは心地がよかったですけど、やっぱり、所詮はよこしまな恋心が動機でしたから。計画が進むにつれ、冷静になっちゃって——『ああ、このままここにいると殺されるな』、と」
「それで、逃げた貴様以外は、事実殺されたわけか?」
「ええ、直接見てはいませんが。なにせ二十七年前の、あの時に起きたのが第一次北部侵攻ですから。偽神計画が無関係ということはないでしょう。計画が失敗して、アンゴルモアを呼び寄せてしまったと考えるのが妥当です」

 二か月前の、アンゴルモアによる北部侵攻よりずっと以前。二十七年前にも、人類は北部を失っていた。
 その原因は、方舟の偽神計画、黒神会の位相固定波動覚醒計画だった。ただし、そのことを知る人間は、既にアンゴルモアに殺害されて土の下だ。例外はここにいるトビニシマルオと、後は方舟の現総裁くらいのものだろう。
 計画に合わせて北部に移した黒神会の教会も、秘密裏に隣接して造られた方舟の研究所も、そして周囲に建ち並ぶたくさんの家屋も、二十七年前、黒い悪夢に呑まれていった。
 生き残りなど、いるはずもなかった。ならば、方舟が情報統制により関与を隠し、責任の追及を避けるようにしたのも当然だ。

「ふむ。北か……なるほど、計画のために本部を移したため、あの教会は放棄されたわけだ。なら、そちらにはまだなにか残っているやもしれんな」
「え——ま、まさか行くつもりですか? そんな、無謀すぎます、いけません! ただでさえ二か月前の第二次北部侵攻で、ミンクツから旧北部まで遠のいたっていうのに!」
「貴様に私を止める権利はない、素直に情報を吐いた点には礼を言うがな。手間が省けた」
「だとしても……! 方舟の王冠狩りクラウンスレイヤーでもない身で、アンゴルモアどもの庭を抜けるなんて——」
「くどい。アンゴルモアを殺す手段ならある、問題はない」

 トビニシが言い終えるより先に、レツェリはその眼の力を解き放つ。
 一瞥するだけで、頭上の梁の一本をばらばらに寸断してみせた。

「あなたは……一体」

 息を呑むトビニシ。梁の切断面は、名刀によって断たれたかのごとく滑らかだ。
 その赤い眼が地底世界由来のものであると、トビニシならばひょっとすれば気付けたかもしれない。

「レツェリ。せめてもの礼に、名くらいは伝えておこう」

 旧北部——二十七年前、第一次北部侵攻によってアンゴルモアの領域となった場所。
 そこを、次の目的地と定めたのか。レツェリは会話を打ち切り、ドアの方を振り返ろうとする。

「……なんか、レツェリ元司教」
「——?」

 そんなレツェリの姿に、ベルチャーナは不思議な感覚を抱く。

「傾いてません?」
「なに?」

 レツェリの姿が、なんだか傾いているような——
 みしり、と木がきしむ音が響く。その音でベルチャーナは、傾いているのはレツェリではなく、その背景だと気付いた。
 つまり、家が傾いていた。

「……崩れるんじゃないですかこれ!?」
「なんだと——」
「く、崩れるってなんの話を——うわっ!?」

 今度はバキン、と重大ななにかが砕けるような音が鳴る。驚いた声を上げたのはトビニシだ。
 それを契機に、傍目からもすぐわかるほど壁が歪む。
 天井の重みを支えきれないのは、子どもであるアマネの目からも明らかだった。

「わわ、急いで逃げないと……わたしたちつぶされちゃうよ、おじさん!」
「私はおじさんではない——が、まさか梁の一本で崩壊するとは。安普請やすぶしんここに極まれりだな」
「言ってる場合ですか元司教! ほら早く、そっちのトビニシっておじさんも!」
「どうしてこんなことに……! ひぃっ!?」

 四人は急いで家の外に避難する。ちょうど最後にトビニシがドアをくぐると、いよいよ天井が崩れて、ベキバキと壮絶な音を立てながら周囲に土埃を巻き上げた。
 そして後に残ったのは、ぺちゃんこになった残骸のみ。一分前は家だったと言っても信じてもらえなさそうな、うずたかいゴミの山。

「わ、わたくしの家がぁ……」

 トビニシは住処を失って、情けなく半べそをかいている。
 無理からぬことだ。どれだけ狭く脆くごみごみしていても、トビニシにとっては唯一の居場所だった。二十七年前、拠り所を棄ててからは。
 さしものレツェリも、ばつが悪そうな顔をした。

「脅しとはいえ、やりすぎたか……いかんな、静止物にも能力が使えるようになって、ついついなんでも切断したくなってしまう」
「言い訳にもなってませんからね? どうするんですかコレ。完全に司教のせいでトビニシおじさんてば家なき子ですよ」
「中年一歩手前の男性にそぐう形容ではないと思うが……」
「家なき子——それって、わたしと同じ? だったら、このおじさんも教会に入れてあげようよ!」

 アマネの提案にレツェリは眉を寄せる。面倒だ、と態度が雄弁に語っていた。
 しかしベルチャーナとしても、このままトビニシを放っておくのはあまりに不憫だ。こんなミンクツの隅で家を失えば、本当に野垂れ死んでしまうかもしれない。

「いいじゃないですか、司教。ベルちゃんの分を入れても、あの広さならまだ教会の部屋余ってそうだったじゃないですか」
「元司教だ。……フン、まあいい。トビニシマルオ、貴様の知識は役に立つ。幼いアマネは物知らずだ、この地に詳しいとは言い難い」
「……? わたし、歯じゃないよ?」
「アマネちゃん、それは親知らず」

 ベルチャーナが教えるも、アマネはよくわかっていないのか、小首をかしげた。
 事実、アマネは親知らずではあった。

「教会? 北部……ではないですよね?」
「ここからそう遠くない。貴様は知らんのか? 雑木林の方だ」
「ああ——あそこですか。なにぶん幼かったころの記憶だし、偽神計画のために北に拠点を移してからは使われなくなったので忘れてましたよ、もともとキリストのですしね……。中も当時のままなんですか?」
「そうだ。ここでいる三人でしか使っていない。ゆえに、部屋もまだ余っている」
「そうですか。なら、わたくしもこんな場所じゃなく、初めからそちらに住んでいればよかったですね」
「その時は私が追い出しているとも」
「はは、そうですか」

 トビニシはどこか愉快そうに肩を震わせた。
 その様子を、レツェリを含め、ベルチャーナたちはおかしそうに見た。いきなり家を壊され、放棄された教会で住むことになり、一体なにが面白いというのか?
 向けられる疑念に気付いてか、トビニシはレツェリの方を見返す。

「やり方は違いますが、あなたにはどこか花音様と似通うところがあるように思います。人の上に立つ資質……とでも言うんですかね。そんなものです」
「それで、次は私を崇めるか?」

 真顔のままそう問うレツェリに、トビニシは意外そうにかぶりを振る。そして、暗黒の夜空を見上げながら、諦めたように笑って言った。

「信仰を持つのは、もうこりごりですよ」

 *

 ベルチャーナとトビニシが教会に移り住んでから、三日が過ぎた。
 トビニシはベルチャーナが目を見張るほどよく働いていた。レツェリに頼まれて資料の整理をしたり、再度内容の説明を求められたり、誰に頼まれてもいない建物の掃除を買って出たり。
 どちらかと言えばぐーたら気質のベルチャーナからすれば、それは不思議に映った。
 ので、訊いてみる。トビニシにしてみれば、いきなり家を壊されて妙な教会で暮らすことになり、散々のはずなのにどうして精力的に働くのか、と。

「はは、わたくしは黒神会から逃げ出してから二十七年、ずっと孤独に過ごしてきましたから。確かに家がなくなった時はショックでしたけど、どんな形であれ、人と関わったり、誰かのためになにかをするのは気持ちがいいんです」
「ふうん……そうなんだ。あんまり共感はできないなぁ。まあ、ベルちゃんは助かるけどさー。廊下も綺麗になっててびっくりしちゃった。家の中はあんなに汚かったのにね!」
「おっと。それは言わないでくださいよ」

 トビニシは照れ笑いを浮かべたが、なにかに思い至ったように真顔になる。

「しかしこれは邪推ですが、おそらく天音さんもわたくしと同じようなものです。人とのつながりを欲して、ここにいる。孤独とは病ですから、あんなに幼く穢れない子が、それに侵されているというのは心苦しく思います」
「両親もいないみたいだもんね。うん、確かに——独りなのは、寂しいよね。思い出したよ、わたしも」

 アマネと違い、ベルチャーナは親の顔を知っている。姉の顔も覚えている。
 ただ、失ったという点では同じだ。九歳の時、ベルチャーナは母と父と姉をイモータルに殺されている。
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