不死殺しのイドラ

彗星無視

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第3章エピローグ 別れと再会の物語

第69話 四辺断崖

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 その後、ともあれレツェリの言う通り、拘束具を着け直す。やはりレツェリは抵抗せず、その赤い目で攻撃したりしてくることもなかった。

「で、なんで素直なんだ。よからぬことでも企んでるのか?」
「なに、私もここまで来れば確かめようと思ってな。神の国というやつを」

 手枷をはめ、次に、物々しい眼帯を装着させる。
 錠が後ろにあるため、背後からだ。そのためレツェリの表情を窺うことはできなかったが、視線は海の彼方にあった。

「では、久々に目を使って疲れた。私は少し休んでいるぞ。ベルチャーナ君、操縦を頼む。この方向に直進していればいい」
「疲れた? ギフトを使って? そんなことあるんですか?」
「私の天恵は眼球そのものだ。視神経を通して脳とつながっているのだから、通常のギフトと違って酷使すると疲労が溜まるのだよ」
「ふうん……?」

 ベルチャーナは半信半疑といった反応だったが、構わずレツェリは船首近くに向かい、左舷に腰かけた。波の音が煩わしいのか、外套のフードを目深に被り始める。
 寝入るつもりだろうか? なんであれ、大人しくしていてくれるのはイドラにとってありがたかった。拘束を受け入れたことといい、従順さが逆に不気味ではあったが。

 そこからはまた、船上をほのかな緊張が包んだ。
 クラーケンの一件があるため、海上への警戒は怠っていない。けれどあんな襲撃はそうそう起こるものでもないだろう。
 いよいよ箱船にたどり着く。そう思うと自然に、イドラは体が震えそうになる。
 ゆっくりと日が傾いていく中、ぽつりぽつりと言葉を交わし合う。ベルチャーナはすぐに機嫌を直してくれた。ソニアはまたバケツで浸水を捨ててくれていたが、途中からイドラが交代した。
 体を動かしている方が楽だった。適度に体力を使う単調な作業は、余計な思考を省いてくれる。 

 そうして、青い海が夕陽の赤に染まるころ。
 長らく閉口していたレツェリが、いきなり声を出した。

「おい。あれが見えるか?」

 寝てはいなかった。
 振り向き、右目でイドラたちの方を見て、海の向こうに指を差す。
 その先には、辺りとなんら変わらない海。無限の海原が、周囲と変哲なく広がるばかり——

「……なんだあれ。なにかが……浮かんでる?」

 そう見えたイドラだったが、よくよく目を凝らせば、かすかな波に揺れる遠くの水面で、黄色い粒のようなものが同じように揺られていた。
 まだ遠い。それとも、それがあまりに小さいのか。
 海原の上では距離感がどうにも掴みづらい。水平線もとこしえの果てに霞み、ぼやけている。

「えーっと……なんだか、黄色くて丸っこいものが波間にありますね。なんでしょうか」
「んー? あっ、ほんとだ。あれは……浮標ブイだね。なんでこんな、陸から離れたなんにもないところに?」

 だがソニアとベルチャーナは視力がよいらしく、その小さな豆粒の姿をきちんと捉えきっていた。

「ぶい? ぶい……ってなんですか? ぶいっ! えへへ、なんだかかわいい名前です」
「この距離でよく見えるな……。ブイっていうのは、海に浮かべる目印のことだよ。漁師のひとが沈めた網の位置なんかをわかりやすくするために使う。だけどこんなところに漁船なんてくるわけがない、ってことは」
「ああ、あれはかつて私が設置したものだ。海底に下ろしたアンカーとつながっている。手紙にも書いたはずだぞ、海上に印を打ったと」
「印ってそういうことかよ、めちゃくちゃ物理的じゃないか。でも……ということは、あそこに『箱船』が?」
「だけど、ブイさんのほかにはなんにも見当たりませんね」

 ソニアの言う通りだった。
 ブイを除けば、波間にたゆたうものはなにもなく。言葉通りの箱船はどこにも見当たらない。

「近づけばわかる。係船できるようにしているので、あのブイに停泊するぞ」

 夕焼けが海面を、きらきらと輝かせていた。
 船が近づくと、イドラの目にもブイの姿がはっきりと窺えた。丸型で、船を固定するロープでもつなぐのか、てっぺんに太い輪っかがついている。
 しかしそんなブイの姿よりもずっと衝撃的なものが、イドラたちの眼前に広がっていた。

「——!? 海が……割れて!?」
「海の中に、これは——崖?」

 突如として姿を現したのは、無限の海原にぽっかりと生まれた空白地帯。
 まるで透明かつ巨大な立方体がそこを占めているかのように、海をくりぬいた四辺の崖がブイの向こうに佇んでいた。
 なにも知らずに速度を出していれば、気付かずに船ごと転落していたかもしれない。とんだ落とし穴だ。

 イドラたち三人が突然に眼前で浮かび上がった四辺の崖に呆けている間に、レツェリは船に積んだ鎖で船をブイに固定した。それを確認し、イドラは船縁から身を乗り出して崖の中を確認してみる。
 ここからではやはり、奥の方は見えづらい。
 だが解せないことは多々あった。そもそも『海がくりぬかれている』という状況そのものがあまりに不可解で、意味不明だ。

(断面は……滝になっているわけでもない。まるで見えない壁があるみたいだ)

 海の断層とでも言うべきか。藍色が晒されたその面は、落ちるわけでも流れ出るわけでもなく静止している。
 例えば、ガラスの壁で海の中を囲み、中の水を外へ運び出せばこのような見た目になるだろうか。だが、崖の深さはどう見積もっても50メートルはあった。
 立方体なのだからそれが十二辺。ならば六つの面の面積はそれぞれ約2500平方メートル。
 分厚い鉄でも使うならともかく、この世の拙いガラス技術でそんなものを造り、あまつさえ海に沈めて波や水圧に耐えさせるのはまず間違いなく不可能だろう。

 どう考えても実現不可能な、恐怖すら覚えるスケールの、不可解な現実。海をくりぬくという不自然さ。
 まさしく——神の御業。
 そう、思わずにはいられなかった。
 同様の感想を抱いたのか、ソニアたちも息を呑んで、言葉もなく呆けたように船の上で立ち尽くしている。
 それを既知であるレツェリだけが冷静だった。

「底になにか、縦長の直方体らしきものがあるのが見えるか? ここからでは見えんか」
「底まで辿りつけってのか? こんなのどうすれば……下降するにしてもとんでもない長さのロープが要るぞ」
「元々、箱船とはマッドフラッド——神なる存在が堕落した人間に向けて引き起こす、果ての海の洪水から免れるための救済だ。信じる者は救われる、信じなければ救われない。そういう教えだな」
「それは知っている。聖堂の書庫を覗く許可を出したのはあんただろう」
「ならば、こう考えられないかね? この海に空いた四角の大穴はつまり、それが起きた際に……充溢される。果ての海が溢れた時、この空白地帯に神の怒りは満ちるのだと」
「——。この崖の穴が、マッドフラッドが起きたかどうかを判別する機構になっているということか?」
「そんなところだ。つまりこの中が水で満ちた時、底にある箱船は起動し、伝説にある神の道を示す。それがかつて秘密裏にこの大陸を放浪し、あらゆる文献や俗伝にまで触れた私の仮説だ」

 ビオス教における神の国への道を示す『箱船』は、七つの大陸すべてを沈めてしまう大氾濫、マッドフラッドから逃れる唯一の救い。
 裏を返せば。マッドフラッドが起きた時に、『箱船』はそれを感知し、起動しなければならない——
 筋が通っていても、イドラは釈然とはしなかった。
 なぜならレツェリの仮説は、箱船をシステムとして捉えている。マッドフラッドという超自然的な現象に対し、箱船とやらがそんな理論的な仕組みを持って動くという保証はない。

(……だけど、この自信。箱船がそういうものだっていう、確証でもあるのか?)

 この期に及んで、レツェリはきっと嘘をついていない。事実、誰も知らない果ての海の彼方には、このように不自然な四辺の断崖が存在していた。
 とはいえ、隠していることはある。そう思う。
 加えて言えば、レツェリ当人に騙している意識がなくとも、仮説が外れたり、勘違いしていることがある可能性は否定できはしないだろう。
 そうでないことを、イドラも祈るしかなかった。

「んーと。要は、人為的にマッドフラッドが起きたのと同じ状態にするってことですよねぇ? でもでも、こんなおっきな穴を水で満たすなんてムリですって」
「フン、幸い水には困らんだろう? 周囲にいくらでもあるではないか」
「えぇー本気で言ってるのぉ!? バケツひとつでこんなの満たそうと思ったら、ベルちゃんシワくちゃおばあちゃんになっちゃうよー!!」
「それは言い過ぎだが、冗談だ。安心したまえベルチャーナ君」
「こんなタイミングで冗談なんて言わないでくださいよぉ! 崖から突き落としますよ!?」
「……ぐ」
「ベ、ベルチャーナさん。気持ちはわかるけど言い過ぎです」

 シンプルに当たりがきつい。
 とても元上司だった男に対する言葉ではなかった。普段はレツェリ憎しのイドラも、不覚ながらわずかな同情を覚えてしまう。

(まあ、ベルチャーナの言う通り、冗談を言うべき機会ではなかったかもだけど……)

 誰に対してもあけすけなのは、ベルチャーナのいいところでもある。
 レツェリは特に言い返したりすることはなかったが、どうにも納得いかないような、微妙な表情を浮かべて押し黙っていた。
 決してフォローしてやろうなどという気遣いからではない。そう誰に向けるわけでもなく言い訳じみて心中で呟き、おそらくは彼の頭の中にある方策を、閉口したレツェリに継いでイドラが話し始める。

「水なら用意できる。ソニアの持つギフトがあれば。それを頼りにして来たんだろう、レツェリ?」
「……ああ、そうだ。聖堂でこの私の裏をかいたブレストギフト。どこであんなものを手に入れたのか知らんが、あの能力であればうってつけのはずだ」
「あーっ、水を出す剣。そっか、そういえばスクレイピーの時にも使ってたねぇ。確かに、バケツで海の水を汲むよりはよっぽど早くできそう!」
「少なくともおばあちゃんになることはないだろうな。それでも時間はかかるだろうけど」

 この間にも、空いた穴から船の浸水は進んでいる。時折思い出したかのように、バケツですくって捨ててはいるが。
 根比べになるだろう。
 ウラシマの形見でもある、ソニアのワダツミ。氾濫フラッディングの能力を何度も何度も使って崖の中に水を注ぎつつ、並行して船が沈まぬよう船内の水も捨てねばならない。どうせなら船内の水も崖下へ投げてやりたいが、船内から崖までの距離を越えるようバケツの水を飛ばすには相応に筋肉を疲労させるし、間違ってバケツまでいっしょに投げ捨ててしまえば大事おおごとだ。
 バケツを失った時、排水は一瞬にして困難になる。水死への恐るべきカウントダウンが始まることになろう。
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