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第3章エピローグ 別れと再会の物語
第54話 エンツェンド監獄にて
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あくる日、イドラとソニアは早朝から協会の馬車でデーグラムを出る。
向かうは北。連邦との国境近くに、その監獄は存在した。
「わあ……おっきいです。って、窓開けると寒いですねっ」
馬車の小窓から軽く身を乗り出したソニアは、すぐに身を震わせる。彼女の丸い橙の目——もう夜ごとに黄金色になることもなくなった——の先ではまるで城のように堅牢な、塀に囲まれた石造りの黒い建物が、冷えた夕暮れの大地に鎮座していた。
「もうほとんどテシプ連邦みたいなもんだからな、ここは」
「あ、イドラさんは行ったことあるんでしたっけ。えい」
窓を閉め、イドラに向き直る。
イドラは一年ほど前に国境を越え、しばらく連邦に滞在していたことがあった。まだウラシマの形見であるブレスレットが成長途中の体に合わず、首からペンダントのように下げていた頃の話だ。
ソニアと出会う前だから、まだ逃げるように各地を放浪し、贖罪の名目でイモータルを狩っていた時。あの一件でホルテルムに知らぬうちに貸しを作っていて、今に至ってはあれほど避けていた葬送協会の馬車で移動しているのだから、人生というものはどう転ぶかわからない。
「一応は。長くいたわけじゃないけど……ま、どこも変わらないよ。魔物もいればイモータルもいる。あと寒い」
「それはわたしも今、身をもって体感しました」
「もっと寒い。もう夜なんて凍え死ぬかと思った。あれは連邦を舐めすぎてたな……今なら絶対、もう少し準備を整えて行く」
「ひええっ、そんなに」
まだ旅慣れていない——というより、慣れ始めて逆に警戒が緩む時期だった。要は一番油断をしやすいタイミングで、軽率に国境を越えて過酷な土地に足を踏み入れてしまったのだ。
「ただ、今思い返せば。景色だけは、綺麗だったのかもしれないな」
故郷では決して見られない一面の雪原。音もなくしんしんと降り積もり、どこまでも続く白色。
それを見ても当時のイドラはなにも思わなかった。むしろ、白い地平ではイモータルを発見しづらいため、忌々しくさえ感じていたかもしれない。
(……あいつは今頃、なにしてんだか)
雪のことを思い出すと、必然的に、あの時に出会った少女のことを思い出した。
久しぶりに記憶から引き出す姿はどうにもおぼろげで、細かいところがあやふやになってしまう。しかしそれが、その淡雪のような儚さこそが、どこか彼女らしい気もした。
「お二人とも。そろそろ、お降りの準備を」
「ああ」
「はいっ」
御者席から掛けられた声に、会話を打ち切る。ほどなくして馬車は停止した。
「行こう」
「あ……。はい」
わずかな緊張をにじませ、唇を引き結ぶソニアへ手を差し伸べる。ソニアはふっと張り詰めた糸が緩むように、柔らかく微笑んで手を取った。
塀の向こう、見晴るかす黒い城。そこにいるのは葬送協会の元司教。
発作が起こることはなくなり、瞳の色も橙から変わることはなくなったソニアだったが、白い髪までは戻らない。少なくとも今は、それこそ淡雪のような白色のまま。
その要因となった赤い左眼の男へ、遠い監獄へと会いに来たのだった。
*
「やーやー。しばらくぶりだねー、イドラちゃんにソニアちゃん。元気そうでなによりなにより」
「お久しぶりですっ」
「信頼できる人物を、ってミロウは言ってたが……ベルチャーナのことだったのか」
監獄の前で、協会の派遣する『監視役』とは合流する手はずになっていた。
待っていたのはベルチャーナだった。馬の御者をしてくれていた協会のシスターに「寒いのにお疲れ様、ありがとね~」と挨拶をする。
「ベルちゃんてば、ちょうど北の方で魔物の処理頼まれてたから。タイミングよかったんだよねー。元々、生まれがあっちの方ってこともあってあの辺に派遣されること多いんだけど」
「デーグラムからは遠いだろうに、大変だな」
「まーね。でも今回の仕事は魔物駆除よりよっぽど気が重いなぁ」
思わず苦笑する。魔物の方がマシときた。
レツェリはついこの間まで上司だった人間だ。それも宗教の司教となれば、単純な上下の関係以上のものがあるはず。
それだけに監視役に向かわされる協会の人間の気持ちは複雑なのでは……イドラはそう思っていたが、その辺りがテキトーそうなベルチャーナは適任かもしれない。きっとこういう部分も考慮し、ミロウはベルチャーナを指名したのだろう。
少しの時間久闊を叙していると、監獄らしい鉄格子の門から、黒い制服に身を包んだ痩躯の男がやってくる。協会の馬車は既にデーグラムへと引き返した。
「お揃いのようだな。初めまして、ここエンツェンド監獄の主任看守部長を務めているケッテだ」
ケッテと名乗った彼は看守帽のつばを手袋越しの手で軽く上げ、峻険さを隠そうともしない目つきで三者を見渡した。
彼の目はエメラルドグリーンの色をしていた。北の生まれなのだろう、とイドラは推察した。
「話は通っているみたいだねー。ケッテさんが案内してくれるのかな?」
「ええ。あの男は特別監視房に入れているが、つい先ほど面会室に連れ出した。そこで待機させている。ひとまず、そこまで同行してもらおうか」
「特別監視房……」
聞き慣れない名にソニアが独り言のようにぽつりと呟くと、ケッテは耳聡くそれに反応した。
「地下にある、名前通り特別な監房だ。拘束は解かれず、一日中監視がつくところだよ。なにせ元司教ときた。普通の房じゃあ、獄中の信者になにをさせるかわかったものでな」
エメラルドグリーンの双眸が、ソニアではなく、いくらか似通う浅葱色の瞳をしたベルチャーナを見て言う。協会の修道服を着たベルチャーナに、暗に『お前も滅多なことはするなよ』と牽制をしているのだと思われた。
「厳しいところみたいだな」
「ああそうとも。同情するか?」
「いや。今めっちゃ気分いい」
「お、おぉ……? そうか」
底冷えする暗室で動きを封じられ、監視の目も解かれず、心休まる時はない。そんな場所にレツェリがいるのだと思うと、イドラも憐れみを覚える……なんてことはなく。
あの男がしてきた仕打ちに比べれば、命があるだけマシというものだ。
不死宿しを救うすべ。ソニアに施した、胎の内に埋め込まれたイモータルの砂で出来たコアを取り除く手術は、もう一人の不死宿しにも行っていた。
オルファのことだ。イドラの故郷の村から身柄を移送された後、彼女はロトコル教を追放になった。しかしその後、聖堂の隠された牢で、レツェリの実験台にされていた。
恩人を殺した女だ。イドラにしてみればその恨みは、レツェリよりも深い——はずだった。
けれどオルファとは、彼女がアサインドシスターズとしてメドイン村にやって来てから、三年をともに村の一員として過ごした思い出もあるのだ。一概に恨み切ることは、イドラには到底できなかった。
聖堂で再会した時は正気を失っていたオルファだったが、コアを除く手術後はしばらく昏倒していた。そして意識を取り戻した時、彼女から狂気的な言動は見られなくなったが、同時に健全さが戻ってきたわけでもなかった。
ただ、抜け殻のように、なにかを発することもなく、一日中ベッドの上でぼうっとするだけ。
今はミロウが急いで手続きをして、協会によって保護されている。
ずっとあのままかもしれない。
そうでない可能性を、イドラは願っていた。和解できなくとも、たとえ決別があるだけなのだとしても、ああして虚ろな人形のようになってしまったままよりはずっといい。
いつの日か、また話ができる時が来れば——
「では案内する。くれぐれもはぐれないように。私から離れれば、身の安全は保証しない」
「お願いねー」
「……? イドラさん?」
「ん、ああ。今行く」
未だに好悪入り混じるシスターの幻影を頭から追いやる。
今は、病床の人間のことを思い浮かべている暇はない。宿敵とも言える男の手を借りてまで、恩人の遺言に迫ろうというのだ。
イドラは気を引き締め直し、ケッテの制服の背に続いた。彼の腰には、右手で取り出しやすい位置に黒い警棒が備えられていた。
向かうは北。連邦との国境近くに、その監獄は存在した。
「わあ……おっきいです。って、窓開けると寒いですねっ」
馬車の小窓から軽く身を乗り出したソニアは、すぐに身を震わせる。彼女の丸い橙の目——もう夜ごとに黄金色になることもなくなった——の先ではまるで城のように堅牢な、塀に囲まれた石造りの黒い建物が、冷えた夕暮れの大地に鎮座していた。
「もうほとんどテシプ連邦みたいなもんだからな、ここは」
「あ、イドラさんは行ったことあるんでしたっけ。えい」
窓を閉め、イドラに向き直る。
イドラは一年ほど前に国境を越え、しばらく連邦に滞在していたことがあった。まだウラシマの形見であるブレスレットが成長途中の体に合わず、首からペンダントのように下げていた頃の話だ。
ソニアと出会う前だから、まだ逃げるように各地を放浪し、贖罪の名目でイモータルを狩っていた時。あの一件でホルテルムに知らぬうちに貸しを作っていて、今に至ってはあれほど避けていた葬送協会の馬車で移動しているのだから、人生というものはどう転ぶかわからない。
「一応は。長くいたわけじゃないけど……ま、どこも変わらないよ。魔物もいればイモータルもいる。あと寒い」
「それはわたしも今、身をもって体感しました」
「もっと寒い。もう夜なんて凍え死ぬかと思った。あれは連邦を舐めすぎてたな……今なら絶対、もう少し準備を整えて行く」
「ひええっ、そんなに」
まだ旅慣れていない——というより、慣れ始めて逆に警戒が緩む時期だった。要は一番油断をしやすいタイミングで、軽率に国境を越えて過酷な土地に足を踏み入れてしまったのだ。
「ただ、今思い返せば。景色だけは、綺麗だったのかもしれないな」
故郷では決して見られない一面の雪原。音もなくしんしんと降り積もり、どこまでも続く白色。
それを見ても当時のイドラはなにも思わなかった。むしろ、白い地平ではイモータルを発見しづらいため、忌々しくさえ感じていたかもしれない。
(……あいつは今頃、なにしてんだか)
雪のことを思い出すと、必然的に、あの時に出会った少女のことを思い出した。
久しぶりに記憶から引き出す姿はどうにもおぼろげで、細かいところがあやふやになってしまう。しかしそれが、その淡雪のような儚さこそが、どこか彼女らしい気もした。
「お二人とも。そろそろ、お降りの準備を」
「ああ」
「はいっ」
御者席から掛けられた声に、会話を打ち切る。ほどなくして馬車は停止した。
「行こう」
「あ……。はい」
わずかな緊張をにじませ、唇を引き結ぶソニアへ手を差し伸べる。ソニアはふっと張り詰めた糸が緩むように、柔らかく微笑んで手を取った。
塀の向こう、見晴るかす黒い城。そこにいるのは葬送協会の元司教。
発作が起こることはなくなり、瞳の色も橙から変わることはなくなったソニアだったが、白い髪までは戻らない。少なくとも今は、それこそ淡雪のような白色のまま。
その要因となった赤い左眼の男へ、遠い監獄へと会いに来たのだった。
*
「やーやー。しばらくぶりだねー、イドラちゃんにソニアちゃん。元気そうでなによりなにより」
「お久しぶりですっ」
「信頼できる人物を、ってミロウは言ってたが……ベルチャーナのことだったのか」
監獄の前で、協会の派遣する『監視役』とは合流する手はずになっていた。
待っていたのはベルチャーナだった。馬の御者をしてくれていた協会のシスターに「寒いのにお疲れ様、ありがとね~」と挨拶をする。
「ベルちゃんてば、ちょうど北の方で魔物の処理頼まれてたから。タイミングよかったんだよねー。元々、生まれがあっちの方ってこともあってあの辺に派遣されること多いんだけど」
「デーグラムからは遠いだろうに、大変だな」
「まーね。でも今回の仕事は魔物駆除よりよっぽど気が重いなぁ」
思わず苦笑する。魔物の方がマシときた。
レツェリはついこの間まで上司だった人間だ。それも宗教の司教となれば、単純な上下の関係以上のものがあるはず。
それだけに監視役に向かわされる協会の人間の気持ちは複雑なのでは……イドラはそう思っていたが、その辺りがテキトーそうなベルチャーナは適任かもしれない。きっとこういう部分も考慮し、ミロウはベルチャーナを指名したのだろう。
少しの時間久闊を叙していると、監獄らしい鉄格子の門から、黒い制服に身を包んだ痩躯の男がやってくる。協会の馬車は既にデーグラムへと引き返した。
「お揃いのようだな。初めまして、ここエンツェンド監獄の主任看守部長を務めているケッテだ」
ケッテと名乗った彼は看守帽のつばを手袋越しの手で軽く上げ、峻険さを隠そうともしない目つきで三者を見渡した。
彼の目はエメラルドグリーンの色をしていた。北の生まれなのだろう、とイドラは推察した。
「話は通っているみたいだねー。ケッテさんが案内してくれるのかな?」
「ええ。あの男は特別監視房に入れているが、つい先ほど面会室に連れ出した。そこで待機させている。ひとまず、そこまで同行してもらおうか」
「特別監視房……」
聞き慣れない名にソニアが独り言のようにぽつりと呟くと、ケッテは耳聡くそれに反応した。
「地下にある、名前通り特別な監房だ。拘束は解かれず、一日中監視がつくところだよ。なにせ元司教ときた。普通の房じゃあ、獄中の信者になにをさせるかわかったものでな」
エメラルドグリーンの双眸が、ソニアではなく、いくらか似通う浅葱色の瞳をしたベルチャーナを見て言う。協会の修道服を着たベルチャーナに、暗に『お前も滅多なことはするなよ』と牽制をしているのだと思われた。
「厳しいところみたいだな」
「ああそうとも。同情するか?」
「いや。今めっちゃ気分いい」
「お、おぉ……? そうか」
底冷えする暗室で動きを封じられ、監視の目も解かれず、心休まる時はない。そんな場所にレツェリがいるのだと思うと、イドラも憐れみを覚える……なんてことはなく。
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オルファのことだ。イドラの故郷の村から身柄を移送された後、彼女はロトコル教を追放になった。しかしその後、聖堂の隠された牢で、レツェリの実験台にされていた。
恩人を殺した女だ。イドラにしてみればその恨みは、レツェリよりも深い——はずだった。
けれどオルファとは、彼女がアサインドシスターズとしてメドイン村にやって来てから、三年をともに村の一員として過ごした思い出もあるのだ。一概に恨み切ることは、イドラには到底できなかった。
聖堂で再会した時は正気を失っていたオルファだったが、コアを除く手術後はしばらく昏倒していた。そして意識を取り戻した時、彼女から狂気的な言動は見られなくなったが、同時に健全さが戻ってきたわけでもなかった。
ただ、抜け殻のように、なにかを発することもなく、一日中ベッドの上でぼうっとするだけ。
今はミロウが急いで手続きをして、協会によって保護されている。
ずっとあのままかもしれない。
そうでない可能性を、イドラは願っていた。和解できなくとも、たとえ決別があるだけなのだとしても、ああして虚ろな人形のようになってしまったままよりはずっといい。
いつの日か、また話ができる時が来れば——
「では案内する。くれぐれもはぐれないように。私から離れれば、身の安全は保証しない」
「お願いねー」
「……? イドラさん?」
「ん、ああ。今行く」
未だに好悪入り混じるシスターの幻影を頭から追いやる。
今は、病床の人間のことを思い浮かべている暇はない。宿敵とも言える男の手を借りてまで、恩人の遺言に迫ろうというのだ。
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