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第2章 鮮烈なるイモータル
第29話 泥濘の夜
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「それにしても、変な人だったな。僕はてっきり司教っていうくらいだからおじいちゃんのイメージだったんだが……少なくとも老体ではなかったな。でも顔も隠してるし、若いんだか若くないんだか」
「あの方はその、特別なんです。他大陸の司教さまは、ほとんどが年経た人だと聞いています」
「特別ね。まあ、僕は協会の人間でもなんでもないし、事情を無理に知る気もない」
ミロウに案内された宿は、大通りに居を構えた、レンガの外壁をした小ぎれいなところだった。
路銀の限られた普段のイドラであれば、通りを外れた、もう少しグレードの落ちた場所を選ぶだろう。だが今日は協会の手配のため懐は痛くない。内心ちょっぴり嬉しかった。
「では、案内はここまでですね」
「そうだな。ありがとう、助かった。……夜も遅いけどひとりで大丈夫か?」
「ふふ。あなたにもそんな気遣いができたのですね、イドラ。誰にものを言っているつもりで?」
「だよなぁ。忘れてくれ」
相手は協会随一のエクソシストだ。暴漢に襲われようが、逆に返り討ちに違いない。
心配はかえって失礼だろう。宿の方に向きなおろうとしたところで、イドラは「あの」と控えめな声に呼び止められた。
別れの挨拶など、長々とするような女性には思えない。なにか明後日の作戦について伝え忘れたことでもあったのかと、イドラは疑問に思いながら振り向く。
「作戦への協力、感謝します。かの不死殺しがついてくださること、心強く思います」
「? そりゃどうも」
「さ——作戦の日はよろしくお願いします! ほかのエクソシストの方々も、当日はわたくしが責任を持って管轄させていただきますっ」
「ああ……」
早口に言うと、ミロウは軽く頭を下げて小走りで去っていった。
なんだったのかとイドラはしばし呆気にとられたが、去り際の横顔がわずかに赤らんでいたことは見間違いでなかったように思った。
「今さら改まることもないだろうに。礼儀正しいやつだな……」
なんだかんだと一日付き合って、ミロウの不器用な真っすぐさが嫌いにはなれない。
スクレイピーでイドラを試したことを、彼女は謝った。エクソシストの筆頭である誇りから、不死殺しに対して勝手な先入観を持っていたことも。
その誠実さに報いたいと、素直に思う。
ベルチャーナも、口調は軽いが、親切にしてもらった。
(なんだ——僕ってやつは結構、簡単に人を信じるタチらしい)
三年前、長年同じ村で過ごしてきたひとに裏切られたのに。
人間不信に陥らない、陥れない自身の愚直さ。だがなんとなく、それでもいいと思えた。少なくともウラシマがいればそう言ってくれる気がした。
口元を緩ませ、イドラはレンガの建物へと入る。
一階は食堂になっている。よくある造りだ。よって木板をきしませ二階へ上がり、ミロウに言われていた部屋へと入る。
「ぇ——あ」
そこで、頭をハンマーで殴り飛ばされたかのような衝撃に襲われた。
実際になにかされたわけではない。ただ、目に映ったものがうわついた気分を一瞬で消し飛ばし、イドラは自身の愚鈍さを呪った。
「ソ……」
「————ぁ、う……は、はぁ、ぁ」
比較的手広い部屋の中には、ベッドが二つあり、うち手前側の上では白い髪の少女が寝ていた。
いや、寝てはいない。ただ身を横たえ、時折苦しそうに身をよじらせながら、苦悶のうめきを漏らしている。
そしてその眼は、輝くような黄金の色に濡れている。
「ソニアぁッ!」
急いでイドラは駆け寄り、ソニアの容体を確かめた。
——イモータル化の発作。
どうしてたった一日前のことを忘れていたのか。ぎりぎりと奥歯を噛み、さっきまでの自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
昨日、集落の近くのあの森で起きたのと同じだ。マイナスナイフで一度症状を抑えたものの、それは永続的ではない。また一日経てば、夜になれば、同じように発作に苦しむことになる。
予期していた。そうなるかもしれないと、わかっていた。はずなのに。
元気そうに振る舞うソニアの姿を見て忘れていた。ウラシマの真意につながる情報を手に入れ、新たな親睦に喜んで失念していた。
——大馬鹿野郎が!
「ソニアっ、ソニア! しっかりしろ!」
「うぅっ、ああぁあアアアっ!」
「——!? 痛ッ」
謝罪も反省も後悔も後だ。今はとにかく、もう一度マイナスナイフで症状を抑え込むしかない。しかし肩に手を伸ばすと、反射的に振るわれた腕がそれを払った。
激痛に思わず、払われた手を見る。手首が折れていた。
「嘘だろおい……!」
窓にカーテンはされていなかったが、月は出ておらず室内は暗い。
暗闇の中で、正気の蝕まれた黄金の双眸が見開き、その輝きをにじませる。まるでネコの眼だ。
「ァ——いや、いやぁ……見ないで、う、うゥ、見ないで!」
ベッドに倒れたまま、ソニアは後ずさった。視線は虚空へ向けられ、表情はなにかに怯えるかのごとく硬くなっている。
幻覚を見ているのか。昨夜のように、発作の起こりですぐにマイナスナイフの処置ができなかったからか、ソニアの意識は昨夜よりも混濁しているようだった。
そして厄介なのは、正常な判断を失ったその体が持つ膂力は、男数人がかりでも押さえつけられないくらいに強いということだった。
イドラはさっき、暴漢が襲ってもミロウならば返り討ちにしてしまうと思ったが、そんなミロウよりも純粋なパワーで言えばソニアの方がずっと上だろう。幼い体の中身は、不死を求める意志に汚され、髪の色が変わってしまうくらいに浸食されてしまっている。
無事な左手でマイナスナイフを抜くと、イドラは自身の右手首に突き刺した。
「っ……ソニアには失礼かもだが、猛獣使いの心境だ」
折れた骨が復元する。力の戻った利き手でマイナスナイフを握り直し、くるりと手の内で半回転させて逆手にする。
今から、馬よりも力強い少女を組み伏せ、その服の隙間から弱く光の漏れた腹部に、青い刃を差し込まねばならない。イモータルや魔物と対するときと同種の緊張が背筋を走り抜けた。
「うゥ、ふね、が……あ、ァ! ああああァああアあぁあああッ!」
角部屋のおかげで、隣部屋への騒音被害がまだ半分になっていることは喜ぶべきだろうか。
なにも喜べないな、とイドラは息を吐き、イモータルに肉薄するときのようにベッドへ接近した。
「落ち着、け——!」
ベッドに乗り上げ近づこうとすると、押しのけるように手を伸ばしてくる。身をひねってかわし、今度こそ細い肩を掴んで揺する。
「ソニア! よく見ろ、僕だ!」
「ァあ、ふね、舟——方舟が、こっちを見て——」
「……はこ、ぶね?」
普段の橙色が輝く黄金色に染まった目で、ソニアはなにを見ているのか。
その薄い唇から漏れたうわごとは、先ほど聖堂で耳にした単語を含んでおり、イドラはつい訊き返す。
「おそい、なんで——なんで! ゆっくりに……見ないで! ああァ、あああぁァああアああッ!!」
「——っ」
みしり、ときしむ音が自身の体の内で響く。肩を掴んだ左腕をさらにソニアの細い手が掴んでいた。ただそれだけで指は食い込み、巨大な鷹に鷲掴みにされているかのようだ。
対話は到底できそうにない。それに幻覚など、もとより意味などあるまい。
「……ごめんな。僕が考えなしだったから、つらい思いをさせて」
腕の痛みは雑念の代償だ。イドラは右手の柄を意識しながら、黄金の双眸を見つめる。
ふと、その目の黄金が翳《かげ》り、ソニアの手が力を緩めた。あるいはそれはどちらもイドラの気のせいだったかもしれないが、その瞬間、青い刃が少女の腹部に触れた。
つぷり——イドラの手に、青い負数を差し込む感覚が伝わる。
「————ぁっ」
小さな体が一度だけ、大きく震えた。
マイナスナイフを引き抜くと、それと同時にソニアの全身から力が抜け、倒れ込む。イドラはそれを受け止め、腰のケースに己がギフトを仕舞う。
ソニアを襲う不死の狂気は払拭された。今夜は、だが。
部屋がおおむねの静けさを取り戻す。響くのは荒い、互いの息遣いだけだ。ベッドの上は荒れ、シーツもずれてしわだらけになってしまっている。
呼吸がより荒いのはどちらかと言えばソニアの方だった。比較的すぐに息を整えたイドラと違い、ソニアは何度も短いペースで息を吸って吐いている。そのたびに、肺が膨らんでは縮んでいくのを、イドラは密着した体で感じた。
どれくらい経ったのか、呼吸音と体温だけを感じ合う静寂は、唐突に壁の向こう側から届いた、ドンッという物を投げつけたような音で断ち切られた。
「ぁ……ごめんなさい。うるさくしすぎたみたいですね。わたし」
これはまぎれもなく集合住宅にありがちな壁ドン——なお壁ドンと言うと近年では壁際の相手に対して接近し壁に手を伸ばすことですぐ近くにまで体を寄せる行為を指すことがあるがこちらの意味合いは後出でありしかし現代においてはこちらが広く使用されているため本来の意味から変質した言葉が人口に膾炙している現状を静かに憤る人間は未だに少なくないとされている——だった。
「覚えてるか? さっき自分で言ってたこと。なにか幻覚を見ているようだったが」
「いいえ、なんにも……でもなんだか、奇妙なものを見た気がします。見たことのないもの……あ、あの、えっと、もしかしてわたし、知らない間に失礼なことを言ってたりしましたかっ?」
「いや大丈夫だよ。ほとんどうわごとだったし、そういうことは言ってない」
手首はへし折られたけど。とは言わないのが人情だ。
「そ、そうですか……よかったです」
ほっと息をついて、ソニアはわずかに身を離す。それでも息のかかるくらいの距離で、暗い中でも互いの顔くらいは視認しあえる。
ソニアはまだ呼吸が激しくて、頬も紅潮していた。額は少し汗ばんでいる。その瞳から黄金は失せ、湿地で見た夕日のような橙色が戻っており、イドラは安心した。
「とにかくありがとうございます。また……イドラさんのおかげで自分を取り戻せました。ふつうだとこの発作は、体感で二時間くらいは続くので」
「むしろ謝らせてくれ。僕はソニアの発作を考慮して、もっと早く帰るべきだった。それがキミをあの岩屋から連れ出した、僕の責任だったはずなのに……僕は……」
「いいんです。今こうして助けてくれたじゃないですか。わたしにとっては、それがすべてですよ」
橙色の目は、まっすぐにイドラの目を見ていた。
イドラはふと、ソニアの瞳に映る自分が、ひどく情けない顔をしていることに気づいた。
まるで泣き出す直前の子どものような。それとも自分はずっと、ひょっとすると三年前から、こんな顔をし続けてきたのだろうか。
「だから——わたしはあなたを許しますから、イドラさんも、自分を許してあげてほしいです」
「え?」
「今日、スクレイピーとの戦いではっきりわかりました。イドラさんは自分を苦しめようとしています。先生って呼んでる人と、なにがあったのかは知りません。でも、自分で自分を傷つけようとするのは、もうしなくていいって思います」
自分で自分を——
イドラの頭の中で、漁村の村長の言葉が反響した。
「あの方はその、特別なんです。他大陸の司教さまは、ほとんどが年経た人だと聞いています」
「特別ね。まあ、僕は協会の人間でもなんでもないし、事情を無理に知る気もない」
ミロウに案内された宿は、大通りに居を構えた、レンガの外壁をした小ぎれいなところだった。
路銀の限られた普段のイドラであれば、通りを外れた、もう少しグレードの落ちた場所を選ぶだろう。だが今日は協会の手配のため懐は痛くない。内心ちょっぴり嬉しかった。
「では、案内はここまでですね」
「そうだな。ありがとう、助かった。……夜も遅いけどひとりで大丈夫か?」
「ふふ。あなたにもそんな気遣いができたのですね、イドラ。誰にものを言っているつもりで?」
「だよなぁ。忘れてくれ」
相手は協会随一のエクソシストだ。暴漢に襲われようが、逆に返り討ちに違いない。
心配はかえって失礼だろう。宿の方に向きなおろうとしたところで、イドラは「あの」と控えめな声に呼び止められた。
別れの挨拶など、長々とするような女性には思えない。なにか明後日の作戦について伝え忘れたことでもあったのかと、イドラは疑問に思いながら振り向く。
「作戦への協力、感謝します。かの不死殺しがついてくださること、心強く思います」
「? そりゃどうも」
「さ——作戦の日はよろしくお願いします! ほかのエクソシストの方々も、当日はわたくしが責任を持って管轄させていただきますっ」
「ああ……」
早口に言うと、ミロウは軽く頭を下げて小走りで去っていった。
なんだったのかとイドラはしばし呆気にとられたが、去り際の横顔がわずかに赤らんでいたことは見間違いでなかったように思った。
「今さら改まることもないだろうに。礼儀正しいやつだな……」
なんだかんだと一日付き合って、ミロウの不器用な真っすぐさが嫌いにはなれない。
スクレイピーでイドラを試したことを、彼女は謝った。エクソシストの筆頭である誇りから、不死殺しに対して勝手な先入観を持っていたことも。
その誠実さに報いたいと、素直に思う。
ベルチャーナも、口調は軽いが、親切にしてもらった。
(なんだ——僕ってやつは結構、簡単に人を信じるタチらしい)
三年前、長年同じ村で過ごしてきたひとに裏切られたのに。
人間不信に陥らない、陥れない自身の愚直さ。だがなんとなく、それでもいいと思えた。少なくともウラシマがいればそう言ってくれる気がした。
口元を緩ませ、イドラはレンガの建物へと入る。
一階は食堂になっている。よくある造りだ。よって木板をきしませ二階へ上がり、ミロウに言われていた部屋へと入る。
「ぇ——あ」
そこで、頭をハンマーで殴り飛ばされたかのような衝撃に襲われた。
実際になにかされたわけではない。ただ、目に映ったものがうわついた気分を一瞬で消し飛ばし、イドラは自身の愚鈍さを呪った。
「ソ……」
「————ぁ、う……は、はぁ、ぁ」
比較的手広い部屋の中には、ベッドが二つあり、うち手前側の上では白い髪の少女が寝ていた。
いや、寝てはいない。ただ身を横たえ、時折苦しそうに身をよじらせながら、苦悶のうめきを漏らしている。
そしてその眼は、輝くような黄金の色に濡れている。
「ソニアぁッ!」
急いでイドラは駆け寄り、ソニアの容体を確かめた。
——イモータル化の発作。
どうしてたった一日前のことを忘れていたのか。ぎりぎりと奥歯を噛み、さっきまでの自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
昨日、集落の近くのあの森で起きたのと同じだ。マイナスナイフで一度症状を抑えたものの、それは永続的ではない。また一日経てば、夜になれば、同じように発作に苦しむことになる。
予期していた。そうなるかもしれないと、わかっていた。はずなのに。
元気そうに振る舞うソニアの姿を見て忘れていた。ウラシマの真意につながる情報を手に入れ、新たな親睦に喜んで失念していた。
——大馬鹿野郎が!
「ソニアっ、ソニア! しっかりしろ!」
「うぅっ、ああぁあアアアっ!」
「——!? 痛ッ」
謝罪も反省も後悔も後だ。今はとにかく、もう一度マイナスナイフで症状を抑え込むしかない。しかし肩に手を伸ばすと、反射的に振るわれた腕がそれを払った。
激痛に思わず、払われた手を見る。手首が折れていた。
「嘘だろおい……!」
窓にカーテンはされていなかったが、月は出ておらず室内は暗い。
暗闇の中で、正気の蝕まれた黄金の双眸が見開き、その輝きをにじませる。まるでネコの眼だ。
「ァ——いや、いやぁ……見ないで、う、うゥ、見ないで!」
ベッドに倒れたまま、ソニアは後ずさった。視線は虚空へ向けられ、表情はなにかに怯えるかのごとく硬くなっている。
幻覚を見ているのか。昨夜のように、発作の起こりですぐにマイナスナイフの処置ができなかったからか、ソニアの意識は昨夜よりも混濁しているようだった。
そして厄介なのは、正常な判断を失ったその体が持つ膂力は、男数人がかりでも押さえつけられないくらいに強いということだった。
イドラはさっき、暴漢が襲ってもミロウならば返り討ちにしてしまうと思ったが、そんなミロウよりも純粋なパワーで言えばソニアの方がずっと上だろう。幼い体の中身は、不死を求める意志に汚され、髪の色が変わってしまうくらいに浸食されてしまっている。
無事な左手でマイナスナイフを抜くと、イドラは自身の右手首に突き刺した。
「っ……ソニアには失礼かもだが、猛獣使いの心境だ」
折れた骨が復元する。力の戻った利き手でマイナスナイフを握り直し、くるりと手の内で半回転させて逆手にする。
今から、馬よりも力強い少女を組み伏せ、その服の隙間から弱く光の漏れた腹部に、青い刃を差し込まねばならない。イモータルや魔物と対するときと同種の緊張が背筋を走り抜けた。
「うゥ、ふね、が……あ、ァ! ああああァああアあぁあああッ!」
角部屋のおかげで、隣部屋への騒音被害がまだ半分になっていることは喜ぶべきだろうか。
なにも喜べないな、とイドラは息を吐き、イモータルに肉薄するときのようにベッドへ接近した。
「落ち着、け——!」
ベッドに乗り上げ近づこうとすると、押しのけるように手を伸ばしてくる。身をひねってかわし、今度こそ細い肩を掴んで揺する。
「ソニア! よく見ろ、僕だ!」
「ァあ、ふね、舟——方舟が、こっちを見て——」
「……はこ、ぶね?」
普段の橙色が輝く黄金色に染まった目で、ソニアはなにを見ているのか。
その薄い唇から漏れたうわごとは、先ほど聖堂で耳にした単語を含んでおり、イドラはつい訊き返す。
「おそい、なんで——なんで! ゆっくりに……見ないで! ああァ、あああぁァああアああッ!!」
「——っ」
みしり、ときしむ音が自身の体の内で響く。肩を掴んだ左腕をさらにソニアの細い手が掴んでいた。ただそれだけで指は食い込み、巨大な鷹に鷲掴みにされているかのようだ。
対話は到底できそうにない。それに幻覚など、もとより意味などあるまい。
「……ごめんな。僕が考えなしだったから、つらい思いをさせて」
腕の痛みは雑念の代償だ。イドラは右手の柄を意識しながら、黄金の双眸を見つめる。
ふと、その目の黄金が翳《かげ》り、ソニアの手が力を緩めた。あるいはそれはどちらもイドラの気のせいだったかもしれないが、その瞬間、青い刃が少女の腹部に触れた。
つぷり——イドラの手に、青い負数を差し込む感覚が伝わる。
「————ぁっ」
小さな体が一度だけ、大きく震えた。
マイナスナイフを引き抜くと、それと同時にソニアの全身から力が抜け、倒れ込む。イドラはそれを受け止め、腰のケースに己がギフトを仕舞う。
ソニアを襲う不死の狂気は払拭された。今夜は、だが。
部屋がおおむねの静けさを取り戻す。響くのは荒い、互いの息遣いだけだ。ベッドの上は荒れ、シーツもずれてしわだらけになってしまっている。
呼吸がより荒いのはどちらかと言えばソニアの方だった。比較的すぐに息を整えたイドラと違い、ソニアは何度も短いペースで息を吸って吐いている。そのたびに、肺が膨らんでは縮んでいくのを、イドラは密着した体で感じた。
どれくらい経ったのか、呼吸音と体温だけを感じ合う静寂は、唐突に壁の向こう側から届いた、ドンッという物を投げつけたような音で断ち切られた。
「ぁ……ごめんなさい。うるさくしすぎたみたいですね。わたし」
これはまぎれもなく集合住宅にありがちな壁ドン——なお壁ドンと言うと近年では壁際の相手に対して接近し壁に手を伸ばすことですぐ近くにまで体を寄せる行為を指すことがあるがこちらの意味合いは後出でありしかし現代においてはこちらが広く使用されているため本来の意味から変質した言葉が人口に膾炙している現状を静かに憤る人間は未だに少なくないとされている——だった。
「覚えてるか? さっき自分で言ってたこと。なにか幻覚を見ているようだったが」
「いいえ、なんにも……でもなんだか、奇妙なものを見た気がします。見たことのないもの……あ、あの、えっと、もしかしてわたし、知らない間に失礼なことを言ってたりしましたかっ?」
「いや大丈夫だよ。ほとんどうわごとだったし、そういうことは言ってない」
手首はへし折られたけど。とは言わないのが人情だ。
「そ、そうですか……よかったです」
ほっと息をついて、ソニアはわずかに身を離す。それでも息のかかるくらいの距離で、暗い中でも互いの顔くらいは視認しあえる。
ソニアはまだ呼吸が激しくて、頬も紅潮していた。額は少し汗ばんでいる。その瞳から黄金は失せ、湿地で見た夕日のような橙色が戻っており、イドラは安心した。
「とにかくありがとうございます。また……イドラさんのおかげで自分を取り戻せました。ふつうだとこの発作は、体感で二時間くらいは続くので」
「むしろ謝らせてくれ。僕はソニアの発作を考慮して、もっと早く帰るべきだった。それがキミをあの岩屋から連れ出した、僕の責任だったはずなのに……僕は……」
「いいんです。今こうして助けてくれたじゃないですか。わたしにとっては、それがすべてですよ」
橙色の目は、まっすぐにイドラの目を見ていた。
イドラはふと、ソニアの瞳に映る自分が、ひどく情けない顔をしていることに気づいた。
まるで泣き出す直前の子どものような。それとも自分はずっと、ひょっとすると三年前から、こんな顔をし続けてきたのだろうか。
「だから——わたしはあなたを許しますから、イドラさんも、自分を許してあげてほしいです」
「え?」
「今日、スクレイピーとの戦いではっきりわかりました。イドラさんは自分を苦しめようとしています。先生って呼んでる人と、なにがあったのかは知りません。でも、自分で自分を傷つけようとするのは、もうしなくていいって思います」
自分で自分を——
イドラの頭の中で、漁村の村長の言葉が反響した。
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