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序章

【4】雨の夜 1

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    四月に入った。新年度の新体制に慣れるまで、色々込み入る仕事が多く、忙しい日をすごしてるうちに、桜が散り始めていた。

 その日は花冷えだとテレビのニュースのお天気アナウンサーが言っていたので、夏乃はスプリングコートの下にカーディガンを1枚着込んで出勤した。

 仕事が終わって病院を出たのは、9時を回っていて、夕方から降り続いていた雨の中、駐車場を傘を差して家路についた。

 マンションに入る頃には足元のパンプスと、パンストの足はビショビショに濡れて冷たかった。ぶるっと震えながら、早くお風呂に入ろう、とエレベーターから降りた。

 部屋の前が見えてくると、夏乃は立ち止まった。部屋の前にうずくまるようにして座っている人影が見えたのだ。

 傘の先からぽたりと垂れた雫が足の甲に当たって、ハッと身じろぐと、その動きに、その人物はこちらを見た。

「尊…」

「…夏姉、おかえり」

     弱く笑った尊は同じく雨に濡れたのか、髪が濡れていたが、薄手の黒いパーカーや、トレーニング用のスパッツは乾いている。随分ここにいた証拠だ。

「髪、濡れてるじゃない!傘もってなかったの?」

「ランニングに出てたの。ちょっとこっちまで遠回りしたら、急に降るんだもん」

     つい医者の癖で、座ったままの尊の頬に触れると、無精髭がチクリとした。その手を逆に上から握られて、ドキッとした。

「ちょ…手、冷たいじゃない!入って、シャワーした方がいいよ」

    立ち上がって、部屋の鍵を開けようと手を離しかけた時、その手をぎゅっと尊が握った。

 驚いて尊を見下ろす。
 見上げてくる、尊の目が熱っぽくて、思わずたじろいだ。

「……なんか、あった?」

    ようやく絞り出した言葉は掠れている。

「無かったら来ちゃダメなの?」

    尊はふっと笑った。夏乃はその力のない笑顔にドキッとした。こんな顔する子だっただろうか。

「ダメじゃないよ。とにかく寒いから中、入ろう?ね?」

    戸惑う気持ちを振り切って、尊を引っ張って立たせると、その勢いでバタバタと鍵を開けて、変に暴れかけている胸の鼓動を気にしないようにし、部屋に入る。

 スリッパを出してやって、エアコンを付け、浴室のお湯が出るようにボタンを押す。

 とりあえず髪を拭かせる為にタオルを尊に渡すと、大きめの自分のスウェット、前に付き合っていた人の買い置きにしていた新品のボクサーパンツを一瞬だけ迷って、引き出しの奥から引っ張り出す。一通りを浴室の前に置いた。

「先にシャワーしてきなさい」

「夏姉も手冷たいじゃん」

「あんたは昔から風邪ひきやすいから、私はとりあえず着替えするから、先に入って?湯船溜まったらちゃんと温まってね」

    尊の背中を押して強引に脱衣所に押し込む。自分は湯を沸かしながら寝室で温かい部屋着に着替え、濡れたものをカゴに入れる。

 尊が出てきた時のために、作り置きのスープを温めながら自分にはコーヒーを入れた。

     冷蔵庫を開けて、冷凍うどんと切った油揚げを取り出して、出汁と一緒に鍋にかけて、卵を落とすともう一度蓋をしてしばらく加熱する。

「夏姉、ありがと、風呂お先」

    やはり、袖も、ズボンの股下も足りてない、ちょっと情けない格好の尊がタオルで髪を拭きながら出てきた。

 ちょっと痩せたのか、この前会った時より顎のラインがスッキリした気がする。

「お腹すいてるでしょ?おうどん食べて?」

    切ったネギを散らすと、レンゲと一緒に出してやる。スープは野菜たっぷりなので、汁物がふたつになるが、健康のために食べてもらうつもりだ。

 この間会った時は、貧血気味なのでは?と感じる程度に顔色が良くなかった。気になっていたのだ。一度うちに呼んでしっかり食べさせよう、そう思いつつ、日々をバタバタしてるうちに声をかけ損ねて今に至る。

「ありがとう、腹減ってた」

「じゃ、私もお風呂入ってくるね、ゆっくりしてて」

 脱衣所の引き戸を開けようと手をかけたところで呼ばれた。

「なあ」

「うん?」

「なんで男物のパンツがあんの?」

    一瞬固まる。真っ直ぐ自分にあてられた視線から、ゆっくりと目を逸らした。

「…前に付き合ってた人の」

「…ふーん」

    それ以上何も言わずに、夏乃は浴室に入った。少なからず動揺している。
(変に思われなかったかな?)
    夏乃は今年26になる。そういう相手が過去にいてもおかしくもない。普通にしてたらいい。夏乃には気にしていることがある。それは極力、誰にも知られたくない事実だ。

(二十六歳か…)

     尊は二十一歳だ。前に顔を合わせていた時はまだ高校生だったのに、不意に大人びて目の前に現れたものだから、どんな顔していいか時々分からなくなる。

 先程自分のスウェットから出た、尊の首すじのしっかりした感じや、線の細さの無くなりかけた顎のライン。元々、伯父に似て、端正な顔立ちなのは分かっていたが、こんな数年でこうも変わるものかと、時々見とれてしまう自分がいる。

 花屋の前で会った時だって、重い荷物をサッと持ってくれたり、店に入る時のドアを押さえてくれたり、以前にはなかった女性に対しての気遣いが自然に出る度に、随分大人っぽくなったな、と姉のような気持ちで嬉しく思っていた。思っていたのだけど。

    先程、雨に濡れてこちらを見上げて弱く笑った尊は、頼りなげに見えて、それなのに妙な色気を放っていた。

 走ることへの挫折や、元カノとの別れなど、色んな苦悩を抱えて悩んできたことが、今の尊を作っている。

 湯船に、鼻まで浸かる。

 カタン、脱衣所のドアが軽く開いた音がした。
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