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第299話 アルゴスの領地
しおりを挟むセスと共に乗り込んだ馬車は見栄えよりも速さを重視した造りになっており、はっきり言って乗り心地は最悪だった。二頭立ての馬車は猛烈な勢いで一路東を目指す。道中、地面から伝わる細かい振動全てを尻で受け止める事になったので、馬車から降りる頃には尻の感覚が無くなっていたぐらいだ。その甲斐あってか、本来一週間はかかりそうな距離を出発からわずか数日で踏破出来た。
「当分馬車には乗りたくないですね…」
「同感です…」
セスも俺も尻を抑えながらつぶやく。痔になったらどうしよう…
苦労して辿り着いた俺の新しい領地をぐるりと見渡してみる。グリトニルの領地も十分田舎だったが、ここも負けず劣らずのド田舎だ。周りには農家が何軒か立ち並び、大きな畑がいくつも耕されていた。農業以外何もなさそうな土地だ。
「さ、エスト殿。とりあえず代官に挨拶しましょう」
見れば、セスは一軒だけある大きな建物を目指して歩き出していた。あれが領主館なのだろうが…正直他と大差ない造りだ。領主と言うより村長の家と言われた方がしっくりくる。錆びついてまともに動くかどうか怪しいドアノッカーを何度か力強く叩くと、中から物音がして誰かがドアに近づいて来る気配がする。そして勢いよく開けられたドアからは、人のよさそうな青年と同じような雰囲気を持つ若い女の二人が俺達を出迎えてくれたのだ。
「ハイハイいらっしゃいませ!何か御用…と、これはセス様!お久しぶりでございます!」
青年と女は突然現れたセスに深々と頭を下げる。セスと顔見知りと言う事は彼等の内どちらかが代官なのだろう。
「久しぶりですね。エスト殿、紹介します。彼の名前はエド、こちらがクレールです。彼等二人は夫婦でして、二人でここの代官に任じられたのですよ。二人とも、こちらにいらっしゃるのが新しく領主になられたエスト殿です。失礼の無いように」
夫婦だったのか。それにしても二人に代官を命じるって事があるんだな。俺はてっきり一人のみだと思っていたのに。まあ単身赴任で若い夫婦が別れて暮らすより、一緒に住んでもらった方が何かと仕事もはかどるだろう。
エドとクレールの二人は最初俺が誰だか解らずに愛想笑いを浮かべていたが、セスの口から洩れたエストと言う名に即座に反応したようで、急に真顔になって背筋をビシリと伸ばし、その場に直立不動になってしまった。そして突然気合の入った大声を張り上げる。
「あの…」
「お初にお目にかかりますエスト様!私の名はエド!」
「私の名はクレールです!」
『誠心誠意尽くしますので、どうかよろしくお願いします!』
と言い、彼等は九十度の礼をしたまま固まった。ええと…これは…。どうしていいか解らずに戸惑う俺に、苦笑を浮かべたセスが助け舟を出してくれた。
「二人とも、もっと力を抜きなさい。エスト殿は噂にあるような方ではありませんよ?」
二人の肩がピクリと動く。そして二人は恐る恐る元の姿勢に戻ると若干怯えを含んだ目でこちらを観察し始めた。
「…ある街でエスト様に絡んだチンピラが、その場で首をねじ切られたと噂で聞いた事がありますが」
「私が聞いた噂では、不味い料理を出した宿屋を店ごと焼いて『今夜は焼肉だぜ!ヒャッハー!』と絶叫したとかしないとか…」
「した事無いわそんな事!」
噂にしても酷すぎる。前からある事無い事言われてるのは知っていたが、これは無い事無い事言われてるじゃないか!今の噂が真実なら、今頃俺の髪型はモヒカンになって肩にトゲトゲの付いた服とか着てる事だろう。
「まあまあエスト殿も、二人も落ち着いて。噂を鵜呑みにしちゃいけませんよ。エスト殿はクロノワール様が信頼をおいてわざわざ領地を下賜なさるほどのお方。そんな無法な真似をするはずがないでしょう」
「…まあ確かに」
「言われてみれば…」
言われるまで気づかなかったのかとツッコミそうになったが黙っておく事にした。気を取り直した二人に俺とセスは家の中に案内され、このボロい一軒家のリビングらしき部屋に通される。そこには畳みかけの洗濯物や片付けられずに放置された本などが散乱しており、とても領主館とは思えない雰囲気だ。…生活感あり過ぎだろう。
「少しお待ちくださいね。すぐにお茶の用意をさせますんで」
そう言うと、二人はそれぞれ部屋を出て行ってしまった。再び戻って来た二人が手にしていたのは帳簿とお茶だ。クレールがお茶の用意をしている間エドから受け取った帳簿を見せてもらうと、そこにはここ数年間のこの土地一体の収支報告が詳細に記されていた。
「…これを見る限り、辛うじて赤字では無いと言った感じですね」
「ここは代々皇帝の直轄地なんですが、中央から遠く離れていますからね。どうしても開発が後回しになってしまうんですよ。そろそろ誰かを置いて発展させようかと検討していたところ、運よくエスト殿がそこに入ってきたと言う訳です」
ニコニコと裏事情をセスが説明してくれるのだが、それって体よく利用されてるだけなんじゃないだろうか?…まあ自力で開発する楽しみがあると前向きに考えよう。シ〇シ〇ィみたいなもんだろ。
「何か産業とか名物なんかも無いんですか?」
「ありません。土地の農家から収められる税で今ある街道などを辛うじて維持しているのが現状です」
俺の質問にはセスの代わりにエドが答えてくれた。彼は帳簿をパラパラと捲り、あるページを指で差す。そこには主な収入額とその内訳が事細かに書かれてある。て事は一から全て自分で始めないと駄目か。大変な上に時間もかかる作業になりそうだ。すると俺の内心を読んだかのようにセスが口を開く。
「もうこの土地はエスト殿の物なのですから、ゆっくりと時間をかけて開発されるのがよろしいかと。一度作った物は子や孫達に引き継げますからね」
そうなのだ。彼の言う通り、今の俺は一代限りの名誉貴族では無く正式な爵位を皇女から授与されている。グリトニルと違って子孫に残せるのだから、俄然やる気も出て来ると言うものだ。それに資金についても先日フォルティス公爵から貰った金貨百五十枚があるので問題ない。これだけ何もない土地なら、かえって開発がやりやすいだろう。
「状況は理解しました。では俺の思う通りに開発させてもらいます。エドとクレールだったね。これからよろしく頼む」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
さあ、まずは何から手を付けようか。俺は頭の中で自分の領地の将来図を描き始めた。
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