1 / 42
0
しおりを挟む幼い頃によく遊んでくれた男の人がいた。その人とは、一回りは離れていただろうか。彼は質素な身なりをしていて粗雑に見せていながらも、隠しきれない育ちの良さと隠そうにも隠しきれない端正な顔立ちと風邪一つ引いたことがないと言っていた誰もが羨むような美丈夫な身体をしている人だった。
もっとも、その頃に会っていた少女には顔の良さや美丈夫さなんて大した魅力はなかった。
それは、成長しても変わらなかったかもしれない。そういう見た目の良さだけで、心惹かれることはなかった。まぁ、何はともあれ、幼い頃の彼女は、その人に会えるのを楽しみにしていた。理由は、子供らしいものだった。
その傍らに時折、もう1人いた気はするが少女はそちらのことをあまり気にかけていなかった。何か言っても困った顔をするばかりで、困らせているのがよくわかってしまったからだ。
だから話しかけるのはいつも同じ人。そのうちふらっといなくなって、戻って来る時もあれば戻って来ない時もあった。忙しい人だけど子供たちだけで何かあるといけないとたまに様子を見に来ているような人がいた。
でも、その人より少女が待ち焦がれている相手は……。
「トレイシー」
「お兄ちゃんだ! きょうも、あそんでくれるの?」
「いいぞ。何して遊ぶんだ?」
世の女性なら、みんなが見とれるような男性だと成長した彼女にも彼の外見が、そう見えることはわかったが、あの頃会っていた彼女には欠片もわからなかった。
まぁ、成長しても世の令嬢と同じように反応できるかは別として、子供の頃よりはそれなりにわかるようにはなったはずだ。
その方はとても良い声をしていた。あの声1つで、女性がキャーキャー騒ぐほどの声だとは思いもしなかった。
その頃、暇を持て余していた少女にとって、唯一の遊び相手にすぎなかったため、名を呼ばれることより遊んでくれることを何より喜んでいた。声の良さだけでは満足などできなかった。
少女は、その人に遊んでもらいながら毎回、突拍子も無いことを私は、その人に尋ねていた。
たとえば……。
「ねぇ、どうして、くもはおちてこないの?」
草むらに2人で寝転びながら、不意に年端もいかぬ子供が、そんなことを言うのだ。その質問に答えられる大人が、この国にも、他所の国にも平然と答えられる者が、どれほどいるかもわからないものだとは思いもしなかった。
「雲は風で流れ行くもの。落ちる落ちないなんて馬鹿げたことを言うな」
「雲が落ちてくるわけがないでしょ」
「そんなこと知るか。全く、他所でするなよ。また、馬鹿なことを聞くと笑われる。お前だけでなくて、私たちも笑われるんだ。やめろ」
少女が両親や周りにその話をしても馬鹿げたことを言うなと怒られるようなことばかりだが、その人は決して怒ることも、答えにつまることもなかった。
ただ、知っていることを教えてくれているようだったが、その人がただ、その答えを知っているというよりも、知識を応用して答えを導き出していることばかりを私は、どうやら聞いていたようだ。
「そうなんだ!」
その人は、きちんと答えてくれて、それに満足して雲を見ていた。その人の答えを少女は幼いながらも、すぐに理解できた。
そんなことをきちんと答えても理解できないと言うこともなかった。本当にわかっているのかと彼は聞くことはなかった。
隣で、彼は雲ではなくトレイシーを見ていた。腕枕をして寝所で艶事とでも言うかのような色気があったが、幼い少女にはそんなものわからなかった。
成長したところで、色気なんてわからなかっただろう。わかるようになるまで、彼は待っていてはくれなかった。
「なぁ、トレイシー」
「ん~?」
「俺は、お前ほど、答えることが楽しい質問をされたことがない」
「? そうなの? みんな、わたしがしつもんするときげんわるくなるよ?」
「なら、そういうことは俺にだけ聞け。答えてやる」
「なんでも?」
「何でもだ」
少女は嬉しくて満面の笑顔を見せたはずだ。
だが、彼の方は少女とそんな約束をしたのをちょっとは後悔したのではないかと思うほど、幼い頃の彼女はその人にありとあらゆる疑問をぶつけた。
あまりに質問攻めに辟易したようには、まるで見えなかった。だが、しばらくして逆にどう思うかを聞かれるようになったのは、彼も同じことがしたくなったのだろう。煩わしくなったからではなかったはずだ。
それは、この国と隣国との壮大な事業計画についてだった。
長年、話題になるのだが、そのほとんどが荒唐無稽だと大人たちが馬鹿げたことだと思っていた。実現不可能だと言うものばかりだったようだが、その頃の少女は……。
「トレイシーは、どう思う?」
「ん~、わたしなら……」
うとうとしながらでも、聞かれたことに答えていた。中には、大人であろうとも、聞いていた彼はであろうとも、想像も、発想もできないものばかりをポンポンと拙いながらも言葉にした。
彼女は思いつくままに答えていただけで、その答えによって、実現不可能だと言われていたことが可能になりそうなことを言っているとは、これっぽっちも思っていなかった。
そもそも、実現不可能だとは少女は聞いた時から思っていなかった。今も、そうだ。可能なことでしかなかった。
うとうとしていた少女は、眠りに落ちる前にこんなことを言っていたようだ。言ったことも覚えていなかったが。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「たくさんのひとが、かぞくみんなで、おいしいものをたべられそうだね」
「……」
「みんなが、しあわせになれるよ」
その事業の先にあるものが、みんなの幸せな笑顔に繋がることだと思ったのだ。
眠る前のせいか。それがありありと見えた。そんなことを言って眠りに落ちた少女を彼は……。
「あぁ、そうだな。だから、実現しなくては。俺とお前がいれば、成功するだろう」
すぅ~すぅ~と寝息を立てる少女を慈愛に満ちた目で見つめた。
「いや、俺がいなくとも、お前なら成功しそうだ。……俺ですら、難問なのをお前は答えられるのだからな。お前が、もっと早く生まれていてくれたら、俺の隣に立たせたかった」
頬にかかる髪をそっと退けた。眠り続ける少女には、その時の彼がどんな顔をしたいたかを見れなかった。
「俺が、こんなにも婚約者になってほしいと思ったのは、お前が初めてだ。王太子の婚約者に相応しい者がいるなら、お前だ。お前に支えられたら、俺はどんなことでも成し遂げられるだろう。お前が、王太子に相応しい娘だと証明することができたら、共にいられたのだがな」
この時、少女は彼の言葉を全部を聞いてはいなかった。
ただ、それまで聞いたこともない声音で切実に言うのを聞いて、彼女は……。
(おうたいしにそうおうしいむすめ……? それになれば、お兄ちゃんといられるんだ)
そこだけが残り、少女の中に残った。この後、彼は遊ぶことができなくなったと言い、二度と会うことはなかった。
もっと年上のそのお兄さんよりも目上の人でよく似た人が、残された少女をなんと慰めていいかわからずに見ていた。彼も、少女の側によくいたのだが、覚えていたのは会えなくなった方だけが記憶に強く残っていた。
「お兄ちゃんとずっといっしょにいたい」
会えなくなったことに少女は毎日泣いた。そして、何日もしてから、こう思うようになった。
「おうたいにふさわしいものになればいいんだ。そしたら、ずっといっしょにいられる」
王太子が何かなんて、わからなかった。ただ、そこからがむしゃらにトレイシーは、勉強やマナーを手当たり次第に吸収していった。
全ては、再びお兄さんに会いたいがためだった。
でも、頑張っている間に世間では文武両道で何をさせても卒がなく、世の令嬢たちを虜にしてやまない人がついに婚約したと大騒ぎになっていた。
その人こそ、少女がずっと一緒にいて遊んでもらっていた人であり、王太子の婚約者になりたいと必死になっている間にとっくに婚約者ができていたのだが、彼女が頑張っている間に無駄なことをしていると知ることはなかった。
いつ見かけても相思相愛に見える王太子とその婚約者だったが、数年して王太子が不慮の事故で亡くなってしまったのだ。
婚約者を助けようとして亡くなったとも、年の離れた弟を助けようとしたとも言われているが、本当は何があったかはわかっていない。
でも、その訃報すら、彼女の耳に入って来なかった。
(王太子の婚約者になりたい。それになれたら、あの人に再び会える。ずっと一緒にいられる)
彼女は、ただ、それを叶えるためにその日その日を精一杯努力して生きていた。その集中力は凄まじく、余計なことが耳に入って来なかったこともあり、王太子が婚約者を探し始めたという知らせしか、聞こえていなかった。
(やった! これで、婚約者に選ばれたら、ずっと一緒にいられる!)
そう、彼女は愚かにも、あの時たくさん遊んでくれたお兄さんと婚約できるとこの時まで本気で信じていた。
32
お気に入りに追加
83
あなたにおすすめの小説
私達、政略結婚ですから。
黎
恋愛
オルヒデーエは、来月ザイデルバスト王子との結婚を控えていた。しかし2年前に王宮に来て以来、王子とはろくに会わず話もしない。一方で1年前現れたレディ・トゥルペは、王子に指輪を贈られ、二人きりで会ってもいる。王子に自分達の関係性を問いただすも「政略結婚だが」と知らん顔、レディ・トゥルペも、オルヒデーエに向かって「政略結婚ですから」としたり顔。半年前からは、レディ・トゥルペに数々の嫌がらせをしたという噂まで流れていた。
それが罪状として読み上げられる中、オルヒデーエは王子との数少ない思い出を振り返り、その処断を待つ。
悪役令嬢を陥れようとして失敗したヒロインのその後
柚木崎 史乃
ファンタジー
女伯グリゼルダはもう不惑の歳だが、過去に起こしたスキャンダルが原因で異性から敬遠され未だに独身だった。
二十二年前、グリゼルダは恋仲になった王太子と結託して彼の婚約者である公爵令嬢を陥れようとした。
けれど、返り討ちに遭ってしまい、結局恋人である王太子とも破局してしまったのだ。
ある時、グリゼルダは王都で開かれた仮面舞踏会に参加する。そこで、トラヴィスという年下の青年と知り合ったグリゼルダは彼と恋仲になった。そして、どんどん彼に夢中になっていく。
だが、ある日。トラヴィスは、突然グリゼルダの前から姿を消してしまう。グリゼルダはショックのあまり倒れてしまい、気づいた時には病院のベッドの上にいた。
グリゼルダは、心配そうに自分の顔を覗き込む執事にトラヴィスと連絡が取れなくなってしまったことを伝える。すると、執事は首を傾げた。
そして、困惑した様子でグリゼルダに尋ねたのだ。「トラヴィスって、一体誰ですか? そんな方、この世に存在しませんよね?」と──。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
お姉様のお下がりはもう結構です。
ぽんぽこ@書籍発売中!!
恋愛
侯爵令嬢であるシャーロットには、双子の姉がいた。
慎ましやかなシャーロットとは違い、姉のアンジェリカは気に入ったモノは手に入れないと気が済まない強欲な性格の持ち主。気に入った男は家に囲い込み、毎日のように遊び呆けていた。
「王子と婚約したし、飼っていた男たちはもう要らないわ。だからシャーロットに譲ってあげる」
ある日シャーロットは、姉が屋敷で囲っていた四人の男たちを預かることになってしまう。
幼い頃から姉のお下がりをばかり受け取っていたシャーロットも、今回ばかりは怒りをあらわにする。
「お姉様、これはあんまりです!」
「これからわたくしは殿下の妻になるのよ? お古相手に構ってなんかいられないわよ」
ただでさえ今の侯爵家は経営難で家計は火の車。当主である父は姉を溺愛していて話を聞かず、シャーロットの味方になってくれる人間はいない。
しかも譲られた男たちの中にはシャーロットが一目惚れした人物もいて……。
「お前には従うが、心まで許すつもりはない」
しかしその人物であるリオンは家族を人質に取られ、侯爵家の一員であるシャーロットに激しい嫌悪感を示す。
だが姉とは正反対に真面目な彼女の生き方を見て、リオンの態度は次第に軟化していき……?
表紙:ノーコピーライトガール様より
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】この公爵令嬢、凶暴に付きむやみやたらに近寄るべからず!
ひじり
恋愛
※完結まで更新します。
「お父様、わたくし決めました! 結婚相手を探そうと思います!」
その一言から、アリーヌ・ラングロアの花婿探しは始まった。但し、
「あぁ、わたくしよりも強い殿方が現れるといいのですが……」
その道のりは、血で血を洗う長い戦の幕開けでもあった。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
婚約破棄を成立させた侯爵令嬢~自己陶酔の勘違い~
鷲原ほの
ファンタジー
侯爵令嬢マリアベル・フロージニス主催のお茶会に咲いた婚約破棄騒動。
浅慮な婚約者が婚約破棄を突き付けるところから喜劇の物語は動き出す。
『完結』
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】エンディングのその後~ヒロインはエンディング後に翻弄される~
かのん
恋愛
え?これは、悪役令嬢がその後ざまぁする系のゲームですか?それとも小説ですか?
明らかに乙女ゲームのような小説のような世界観に生まれ変わったヒロインポジションらしきソフィア。けれどそれはやったことも、読んだこともない物語だった。
ソフィアは予想し、回避し、やっと平和なエンディングにたどり着いたと思われたが・・・
実は攻略対象者や悪役令嬢の好感度を総上げしてしまっていたヒロインが、翻弄される物語。最後は誰に捕まるのか。
頭をからっぽにして、時間あるし読んでもいいよーという方は読んでいただけたらと思います。ヒロインはアホの子ですし、コメディタッチです。それでもよければ、楽しんでいただければ幸いです。
初めの土日は二話ずつ更新。それから毎日12時更新です。完結しています。短めのお話となります。
感想欄はお返事が出来ないのが心苦しいので閉じてあります。豆腐メンタルの作者です。
あなたの側にいられたら、それだけで
椎名さえら
恋愛
目を覚ましたとき、すべての記憶が失われていた。
私の名前は、どうやらアデルと言うらしい。
傍らにいた男性はエリオットと名乗り、甲斐甲斐しく面倒をみてくれる。
彼は一体誰?
そして私は……?
アデルの記憶が戻るとき、すべての真実がわかる。
_____________________________
私らしい作品になっているかと思います。
ご都合主義ですが、雰囲気を楽しんでいただければ嬉しいです。
※私の商業2周年記念にネップリで配布した短編小説になります
※表紙イラストは 由乃嶋 眞亊先生に有償依頼いたしました(投稿の許可を得ています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる